自由時間の過ごし方②
「あ"あ"あ"あ"あ"〜〜〜……」
ザプ〜〜…………ン…………
「くあーッ! 沁みるわー……ッ!」
熱い湯船に浸かる午後。
綿のタオルを頭に乗せて、広々とした浴場にある芸術的な流線型のバスタブいっぱいに湯を張り、胸まで身を沈めて、熱々の風呂を堪能する。
ゆったりと流れる時間。
贅沢なひと時。
バスタブってこういう使い方するもんじゃないんだけど、使用人用の浴場にある湯船は広すぎて湯沸かしも面倒だったので、来客用のバスタブを使わせてもらっている。
前の世界では水は貴重品で、風呂や料理に浴びるほど水を使えるのは、一部の者の特権のようなものだった。
ガバンディ邸は豊富な水源が近くにあるのか、水が貴重品という扱いでもなさそうで、風呂用の大きな水桶には大量の水がなみなみと注がれていた。
その水を手桶でバスタブに貯め、魔法で湯を沸かし、こうして堪能させて頂いてる。
ぼくは筋肉や神経の疲労まで片っ端から再生能力の餌食になるので、熱湯風呂の真の醍醐味を堪能することはできない。
リラックス効果は得られるので、効果は半減といったところか。
その代わり、自然の水に含まれる魔力に浸かることで、水に接してる肌から水の魔力をじんわり体に取り込み、魔力の回復を早めることは堪能できる。
湯船に頭まで完全に身を沈めてみる。
苦しい。
息を吸おうとすると、湯が鼻から気道に浸水して鼻腔粘膜を刺激し、堪え難い痛みを訴えてくる。
反射的に肺の空気が押し出され、吐き出した空気の分だけ息を吸おうと体が反応する。
それを意識的に止めて、湯から顔を出し、バスタブの外に吸い込んだ湯を吐き出した。
痛みはすぐに消えて行く。
殴られても痛いし、斬っても痛いし、溺れても痛いし、ストレスは神経にダメージを負わせる。
が、すぐに回復してしまう。
回復するのに、体は生きよう生きようと痛みを訴えてはそれに抗おうとしてみせる。
老いず、死なず、傷も痛みも瞬く間に消え去る。
死の他であれば意識的に押し留めることはできる。
できる、が。
体には小さな傷痕一つとして長居を許されない。
「悪いことしたかな」
脳裏をよぎるのはサリィの顔。
幼い体に無数に刻まれていた傷痕。
目を覆いたくなったから勝手に消してしまった、惨事の痕跡。
あの中には、彼女にとって大事なものもあったんじゃないだろうか。
彼女の父や母、弟、他にも彼女にとって大切な誰かとの記憶に繋がる傷痕が。
湯気に煙る水面をフワフワ漂うタオルを手に取り、軽く絞って四つ折りに畳み、目に押し当てて、バスタブいっぱいに体を伸ばして寛ぐ。
「好きに生きろかぁ……」
ぼくが一人だけで、誰とも関わらずに済む戦場に転移してたんなら……
そう考えて、考え続けることを辞めた。
過ぎてしまったことは変えようがない。
だから「過ち」と呼ぶのだ。
悲しみや後悔で、それまで得られた幸福を否定することもできない。
喜びがあったからこそ悔いも深まるんだ。
後悔しないために喜びも選ばないなどという選択肢は、自分の中には無い。
愛し合った妻の、花も綻ぶような笑顔を思い出す。
自分と同じ時を生きることなどできない彼女と、必ず死に別れるとお互いが承知した上で連れ添った。
彼女は元々短いその生を病によって更に短く散らしてしまったけれど、共に過ごした時間は幸せいっぱいで、今でも幸福に包んでくれる。
彼女の死は、覚悟していても深い悲しみと強い後悔をもたらしたけれど、出逢わなければ良かった、連れ添わなければ良かったなどとは思わない。
自分には必要だった。
幸せも、その後の痛みも、どちらも必要だったんだ。
彼女にとっての、ぼくと過ごした時間も、ぼくと同じように思ってもらえていたなら嬉しいとは思うが、もう確かめようもない。
生きている間に交わした言葉、温もり、伝え合った思いを、信じるより他に道はない。
バスタブの湯がぬるま湯に変わっていることに気付いたけれど、顔のタオルをそのままにして、ぬるま湯が冷たくなり始めた頃まで動かなかった。
―――
コンコン
「へーい。どちらさーん?」
夕食の後、ガバンディの計らいで使わせてもらっている来客用の部屋で寛いでいると、そのドアをノックする音が響いた。
椅子に座って外を眺めていただけだから、誰の来訪をも断る理由はない。
「アントンです。少しお時間いただいてよろしいですかな?」
ドアの向こうから、そろそろ聞き慣れつつある声が尋ねてくる。
「はいはい、大丈夫っすよー」
返事をしながら少し足早に移動して、ドアを開いてみると、酒瓶とグラスを両手に持ったアントンさんが立っていた。
「チャーリーお薦めの辛口ワインだそうで、常温で愉しめるからと渡されましてな」
ニッコリ笑って掲げてみせてくれる。
チャーリーって誰だっけ?
そんな考えが顔に出ていたのかもしれない。
「いつもガバンディ閣下の背後に控えてる方の執事がチャーリーですよ。代々ログウォール家に仕えるマイヤーズ家の分家の出身で、彼自身はガバンディ閣下のお父上の代からガバンディ閣下に仕えている、閣下の幼馴染みたいなものですな」
部屋に入ってグラスをテーブルに置き、酒を注ぎながら説明してくれる。
「彼の家が治める領内で作られたワインらしくでですな、私の3倍は熱く語っておりましたよ」
「ほほーん、そりゃ飲むのが楽しみっすね」
テーブルを挟んで座り、グラスを傾ける。
冷えていないのに口当たりはスッキリとしていて喉越しも良く、香りは芳醇で、後味も悪くない。
「甘党が好みそうな味っすなぁ。好きだわこれ」
「お気に召されましたか。チャーリーも喜びますな」
アントンさんが嬉しそうに頷く。
「私は平民の出でしてな、チャーリーにはガバンディ閣下の次に色々と世話になってまして」
「なるほど」
「イエン殿に礼をと頼まれましてな」
「ん? 詫びじゃなく?」
「そのように伺ってますよ」
これといった心当たりがない。
ここに来てからやったことといえば、弱い者いじめと施設の破壊、あとは
我ながらろくでもないことしかしていない。
そんなバケモノが邸内に我が物顔で居座ってるのに、ぼくなら礼など考えもしないと思う。
ちゃんと美味しかったし。
頭を捻って考えていると、アントンさんが何やら楽しそうに声を挙げて笑い出した。
「ハッハッハッハッ! イエン殿は真面目過ぎますな!」
「えー?」
「いや失礼。私もチャーリーから聞いて初めて知ったのですがね、サリィ殿を含む地下の奴隷たち、彼らに僅かながらの治療と食料を与えていたのがチャーリーだったそうなのです」
そう切り出して、アントンさんはチャーリーが語ったという話に私見を交えて、事の次第を説明してくれた。
ガバンディの側仕えとして必要な英才教育を受けて育ったチャーリー、チャールズ・ウィル・マイヤーズは、徒手格闘から剣術、暗器術などの武芸の他、一般教養や交渉術、数種の魔法にまで精通した、おとぎ話の世界に出てくるような執事として教育されたそうだけど、ガバンディの性癖はそんな彼でも受け止めきれないものだったらしい。
ぼくは結果を知っただけで胸糞悪くなったんだから、あれに継続して付き合わなければならなくなったとしたら、割と早い段階で投げ出す自信がある。
戦場の惨状に比べても見劣りしないとはいえ、特に非戦闘員に対する暴虐は否定的な見方の方が多かったし、戦闘員相手のルールに則った殺しであっても心を病んで戦場を離れる者は少なくないのだ。
ぼく自身、戦場に立ち続けたのは必要だったからであって、血や殺戮を好んだからではない。
それに、戦争には遅かれ早かれ決着が付く。
何百年、何千年と為政者からの暴虐に晒されて惨劇が繰り広げられ続ける市井の生活よりは、戦場に立っていた方がマシだった時代もあったのだ。
チャーリーの心情は想像も及ばない。
主に仕えながら、その主に翻意ありと断じられかねない危ない橋を渡れていたのは、主であるガバンディと幼少の頃から築き上げた信頼関係があってこそ可能になったことなんだろう。
逆に、そうした信頼関係があるから堪え難い想いを抱え続けることになってしまったのかもしれないけれど。
殴ってでも止めると言うのは容易いけれど、それが自分の命だけでなく、一族郎等の命まで危険に晒しかねないともなれば、それが容易ならざる、不可能にほぼ等しいことであると理解はできる。
今後はぼくからのお仕置きという大義名分を活用してくれればいいかな。
「ということですので、今後も機会を設けて恩返しをさせて欲しいと申しておりました」
「ぼくは要らんので、その分誰かに力添えしてやってくれと伝えといてくだせい」
「ほう、ではこれも用無しですかな?」
テーブルの上のワインボトルをヒョイと手にとって、アントンさんが悪い顔で笑う。
「いやー! すんませんカッコつけました! 美味しい飯と酒で歓迎してください!」
「フハハハハハ! 素直が一番ですなあ!」
「へへー! ありがたやー!」
グラスになみなみと注がれたワインを傅いて受け取り、一息に飲み干す。
「美味い! 理由も分かってなお美味い!」
「そうですぞ? 酒は美味しく飲まねば」
コンコン
「お? 誰だろ?」
「私が。イエン殿はそのままで」
アントンさんがドアを少しだけ開けると、ドアの向こうから銀色のバケツが現れ、アントンさんはそれを受け取ってドアを閉め、テーブルに戻ってきた。
手のバケツには、氷に沈むワインボトルが2本。
「チャーリーでした。そろそろ最初の瓶が空く頃だろうと、準備していたようですね」
「この屋敷って伝声管でも通してます?」
「でんせいかん?」
「離れた場所でも声や音を伝えたり聞いたりできる金属の管なんですけどね」
「魔法じゃなく?」
「魔法じゃなく」
「便利ですね」
「前にいた世界の船なんかで使われてたんですけど、詳しい仕組みは知らんです」
「伝手のある技師に話してみましょう」
変な話の流れになってしまった。
最初のワインボトルを空にして、手洗い場で水差しの水を使って空のグラスを注ぎ、テーブルに戻る。
段取り上手なら、冷えたグラスじゃなくても美味しくいただけると踏んで、余計なことはしない。
バケツに引っ掛けられていたコルク抜きを使って新しいワインを開封し、二人のグラスに注いで椅子に腰を落ち着ける。
今度のワインの香りは引き締まってるように感じるなぁ。
それはそれとして。
「ところで、アントンさんの用件って伝言じゃないでしょ?」
「お! 忘れるところでした」
手をポンと打って答えるその顔は、本当に忘れかけていた様子が見て取れる。
それでいいならぼくはいいんだけど。
「解放された部下がヘルマシエ国境の砦に到着したとの報告が届きまして。その報告とお礼を伝えに来たんでした」
畏まった様子でアントンさんが礼を伝えてくれるが、ぼくじゃなくアデリーが受けるのが筋のような気がする。
本人いないから代理で受ければいいんだけど。
「アデリーに伝えておきます。死なせてしまった4人については……すんません」
「その言葉は指揮官としては受け取りかねますな」
アントンさんの厳しい顔が向けられる。
任務で命を落とすのは当たり前にあることで、その死は惜しみこそすれ、相手に謝罪を請うようなものではない。
むしろ、死んだ者に対する侮辱とも取られる。
戦場の礼儀にもとる行為なのだ。
そう承知してはいても、心は痛む。
死んだ者が天涯孤独の独り者であれば、墓を作ればそれで済む。
しかし、家族があればそうもいかない。
残された家族は僅かな金を得る代わりに、新任者受け入れのために住居を追われることもある。
この世界ではどうなのかまだ分からないけれど、出戻りの女性が置かれる社会的な立場や、そこで受ける処遇は、お世辞にも良いものだとは言えない。
夫の官職や地位に応じて生活の質の良し悪しが左右されるのが、前にいた世界の常だった。
ぼくが気に病んでしまうのは、それでも生きていかねばならない遺族の困難についてなのだ。
アントンさんはフッと息を吐き、椅子にもたれかかってグラスを手に取る。
「イエン殿は出来る限りのことを尽くされたのです。突如降って湧いた敵である私たちにすら情けをかけて、なるべく生かそうとしてくださった。そればかりか、普通ならば賠償金の捻出の責を負わねばならない状況をも覆してくださった」
そう言って、ワインを一息で飲み干す。
「その上で更に気を遣われたとあっては……完敗ですよ。飛竜殺しアントンと呼ばれて図に乗っていた自分が恥ずかしい。彼我の戦力差を見誤らせた驕りが恨めしい! 部下を死なせてしまったのは、私なのです……ッ!」
言い切ってから両手で顔を覆い、抑えきれぬ嗚咽に身を震わせて、アントンさんは泣き出してしまった。
かける言葉は見付からない。
何を言っても陳腐にしかならない。
彼らと遭遇してからずっと、なるべく生かそうとしたのも、雑に走って死人を出してしまったのも、その後のことも全て、ぼくがぼくの保身と打算のために動いた結果だ。
その打算に巻き込んだアントンさんが予想を越えて自分に良くしてくれたから、恩義を感じて本心から、ルールに外れたことと承知しながら、謝罪をした。
終始一貫して、ぼくの我儘で振り回している。
これ以上かける言葉など見付かろうはずもない。
それからしばらく、アントンさんが落ち着くまでチビチビとワインを楽しんで待ち、落ち着いてからは彼が酔い潰れて眠るまで酒に付き合った。
終わる頃には随分と口調も砕けたものになってくれたので、ぼくにとってはそれがとても嬉しい礼になったと思う。
グランティンバーとヘルマシエの戦争には関わりたくないな。
そんな日が訪れないよう願い、そのために出来ることを尽くそうと心に決めた。
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