森の使者の憂鬱①
エルフの森――平野部に領土を構えるグランティンバーとヘルマシエの西部に広がる大森林地帯全域を治めるエルフの支配領域の総称で、正式な国名はない。
雲より高く
かつて、それを山だと信じていた人々からは緑竜山と呼ばれ、旅の目印にされていたほどだ。
遠目に目立つエルフの聖地も、森に入ってしまえばその姿は木々の枝葉によって遮られ、侵入者は奥へ踏み込めば踏み込むほどに行く先を見失い、森に呑まれて死んでしまうことになる。
人とエルフとの和睦が成立する以前は、戦火を避けて森に逃げ込んだ人々とエルフとの間ですら、無数の惨劇が繰り返されていたという。
それ故、人々の中にはエルフの森を『帰らずの森』と呼んで畏怖する者も少なからず存在し、過去の惨劇を伝えるおとぎ話も未だ語り継がれている。
そのような特殊な森であるため、人とエルフとの和睦が成立すると、エルフたちは『森の使者』という職を設けた。
森の使者の仕事は多岐に渡るが、その一つがエルフの森に侵入した同盟種族の案内である。
必要に応じて一時保護や人里までの案内を行い、時にはエルフに招かれた客人の森の中での道案内と護衛も行う。
そのため、森の使者は必然的に深い森への理解と知識、森の中で必要になる技術だけでなく、他人種と交流するための作法などにも精通することが要求された。
森の使者であるモーリ・メルルリアも、当然それらの技能と知識は備えている。
冬を迎えて多くの木々が葉を落とし、降雪によって視界の大半が白に覆われた今も、現在地を見失うことはない。
彼女はその控えめな胸に反して、自分は優秀なエルフなのだという自信に満ちて、胸を張って生きてきた。
伸び悩んだ身長は彼女にとっての武器であり、凸の少ない体は弓術に適したものだと誇りに思っている。
だが、出来ることと出来ないことがある。
「また魔物が出たぞ!」
「御使い様!」
森に入って立ち寄った3つ目の集落で借りた宿に、数人のエルフが押し寄せてきた。
その内の一人は、集落の長だ。
長と言っても見た目は若い。
通常、エルフの外見は人の20代半ばほどでまで成長し、老化することがない。
樫の木を削って作った杖と魔法銀の腕輪が、長である証明とされる。
その長が、集落の戦士の先頭に立ち、慌てた様子で早口に状況を説明する。
集落からほど近い場所に
集落の戦士がそれを止めようと矢を放ったが、毛皮に弾かれてしまうのだという。
魔法での狙撃も試みたが、その身に覆う瘴気が濃すぎてこれも通らず、全く歯が立たないので、森の使者であるモーリに助けを求めたという内容だった。
猪を大きくしただけのようなそれは、しかしただそれだけで十分な脅威となる。
食欲旺盛な筋肉の塊で、地を駆ければ馬よりも速く、頑健な頭蓋はその勢いと合わさって強烈な破壊力を発揮する。
体が大きいので毒を使っても効果は望みにくく、仮に効果を得られるにしても、毒が回りきるまでの間に暴れられれば周囲に甚大な破壊が引き起こされることになる。
(厄介な魔物が引き込まれたものだ……)
表情を変えずに、モーリは胸中で舌打ちした。
戦士たちが早々に引き退ってくれて良かったと安堵したが、同時に対処に悩んだ。
モーリ自身は、基本的に大型の魔物との相性が悪いのだ。
長からの説明と自身の知識、経験とを合わせて考えてみても、大猪の動きを止めてくれる協力者が不可欠な上、正確に目を――その奥の脳を射抜かなければならない。
それもチャンスは一度きりになるだろう。
「御使い様、いつでも出れますわよ」
エルフの監視者、禁呪の執行官の一人、マルセリー・ボルシェ・ホルストが、言葉通り準備万端で肩越しに声をかける。
ゆったりとして温和な言葉はその場の緊張を和らげ、優雅な仕草はエルフの男たちの視線を誘う。
マルセリーの傍らには、彼女から一歩下がった場所で一角のオーガ――威焔が直立して控え、堂々としたその様に不安や恐怖など微塵も漂っていない。
(今、このタイミングでならば、目の前の戦士たちの協力を取り付けることもできるのではないか。多少の犠牲は出るかもしれないが、より確実に魔物を仕留めることができるはず……)
モーリの頭に浮かんだ思考は、心の内に灯った暗い炎によって遮られる。
「分かった。大猪は我々3人が引き受ける。討伐が完了したら合図で報せるので、長殿はそれまでに回収の準備を。戦士は誰か一人、案内を頼む。足の速い者がいい」
「「「御使い様の仰せのままに!」」」
モーリの言葉で、その場の全員が動き出す。
モーリたち3人も、案内を買って出た戦士の後に続いて借宿を発つ。
俄かに活気づいた集落の中を最短距離で
「何度見ても仕組みが分からん……教えてもらえねーの、これ?」
「ダメよイエンちゃん。門外不出の秘術なんだから。でもそうね、どうしてもって言うんだったら……」
「お、開いた開いた! 急がなきゃなー!」
「チッ」
エルフの集落を訪ねるたびに繰り返されるやり取りを背中越しに聞きながら、モーリは門番に簡単に礼を述べて先を急ぐ。
礼を言われたはずの門番の顔に恐怖の色が浮かんでいたが、それも仕方のないことだろう。
軽く手を挙げて門番の方に向けられたモーリの表情は、不機嫌を通り越した怒りの感情で引き攣っていたのだから。
「全ては森の御意志のままに。全ては森の御意志のままに……」
小声で何度も繰り返されるその呟きの本当の意味を、この時モーリを覗いて誰も知る者はいなかった。
足早に駆けるエルフの戦士の案内に従い、森を進むこと
若木を食い荒らされ、成木まで何本かなぎ倒されて出来上がった広場の中央に、その魔獣はいた。
踏み荒らされた雪は融けて泥水となり、広場全体を
腹が満たされたのか、大猪は脚を畳んで泥濘に身を浸し、心地良さそうな寝息を立てている。
その口から伸びた二本の牙は、なぎ倒された成木よりも太く、鋭い。
モーリたち4人は風向きに気を配りながら、大猪の風下にある茂みに身を隠してその様子を窺う。
空は厚い雲がどんよりと立ち込めていて暗く、太陽の位置など分からない。
時刻は昼を過ぎて夕刻に差し掛かった辺り。
湧いたばかりの大猪は、巣穴を掘るために移動することも考えられる。
(広大なエルフの森といえど、
ほんの数分モーリが一人で悩んでいると背中をポンと軽く叩かれ、ハッとして顔を上げ、大猪を見据え直すと、その視界の端に動く人影に気付く。
慌てて振り返れば、そこに4人いたはずの人数から一人減っていた。
目が合ったマルセリーが真剣な表情のままモーリの背の矢筒を指差し、弓の準備を催促してくる。
一瞬で噴き出した冷や汗がモーリから熱を奪う。
急いで矢筒から矢を引き抜き、いつでも弓を引ける姿勢をとって前方を見据えた。
モーリの視界の中、大猪に向かって歩く人影――威焔に、不安や気負いは一切感じられない。
大猪から風下の位置を維持しながらモーリたちが潜む茂みを一旦離れ、その後は真っ直ぐに巨大な筋肉の塊へと歩みを進めている。
足音を飲み込む白雪の上から泥濘に足を踏み入れても、その速度は変わらない。
威焔が大猪まで20歩ほどの距離に近付いた時、大猪の耳がピクリと動き、閉じられていた目蓋が開かれても、やはり歩く速度は変わらない。
その距離が残り15歩まで縮まった次の瞬間、大猪が動いた。
全身の筋肉を使った跳躍は、瞬く間に両者の間合をゼロまで削り取る。
ズンッという地響きが轟き、威焔がいたはずの場所で大猪が大きく仰け反っている。
彼の姿はどこにも見当たらない。
その場面を目にした3人の思考が止まる。
大猪はジッと仰け反った姿勢のまま中空の一点を見据え、間を置くこと3拍、視線の先を追うようにそれは走り出した。
その向かう先には、空から降ってくる黒い影。
その影から大猪目掛け、矢のような何かが解き放たれ、大猪の額に突き刺さる。
「ギイイイイイイイイイイイイ!!」
しかし大猪はその勢いを衰えさせることなく、影に全力の一撃を見舞うべく、地を蹴る脚に力を込めた。
地鳴りが轟き、木々が揺れ動く。
大猪はあっという間にモーリたち3人の視界から走り去り、その進路上の木々が
「あ……」
誰が発した言葉だったろうか。
呆気にとられたままの3人の内の誰かが声を挙げた瞬間、止まった思考の呪縛を振りほどくようにマルセリーが駆け出し
カッ……!
天から地に白い柱が突き刺さり、迸る光が一瞬だけ闇を焼き尽くす。
ゴゴオオオオォォォン……!
大気を引き裂く大音声。
遅れて響く木々の倒れる音と、立ち昇る白い煙。
再び縫い付けられていた時間を動かしたのは、またもマルセリーだった。
モーリとエルフの戦士は顔を見合わせて頷き合い、マルセリーの背を追って走り出す。
何が起こったのかは一瞬で帯電した空気が物語ってはいたが、大猪がどうなったのかは確認しなければならない。
それがエルフの森の平和を守る森の使者の使命なのだから。
胸の中で揺れる暗い炎の気配に歯嚙みしながら、モーリはマルセリーを追った。
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