死ねない鬼の異世界道中
nomaD
黒の章
too bad end.
ゆらゆら、ゆらゆらと、赤い蛇が身をくねらせる。
視界いっぱいの無数の蛇は、折り重なり合い、狭い
有るはずの扉がその木枠ごともぎ取られた入り口は、赤い蛇の間でぽっかりと大口を開け、その向こうに広がる快晴の草原と青い空とを映し出して、不恰好に笑っているように見えた。
――嗚呼……
ぼんやりとした思考が言葉という形で意味を成す。
声になったような気もするし、そうでない気もする。
そんな曖昧さが、彼の夢の特徴。
そして、彼は
――そう。あれは蛇じゃない。炎だ。
彼がそう認識した瞬間に赤い蛇は燃え盛る炎に変じ、ゆっくり、ゆっくりと流れる時の中で、木造の掘っ建て小屋、その壁に黒い染みを広げるように炭化させながら、ジリジリと肌を焼く。
熱を感じず、焼かれる木の爆ぜる音すら耳に届かず、
彼の体は――
彼の体を支える誰かの腕は太く、逞しく――胸を締め付けるほど温かく――、彼の背中を支える感触もまた厚い筋肉を備えた胸板と、規則的な振動とを伝えてくる。
「おい、クソガキ……生きとるかー!?」
途切れ途切れの呼吸、その合間を縫いながら、
それに合わせて揺れる視界。
ぐらりと傾きかけた『クソガキ』の体は、もう腰から下の感覚を失っていた彼では支え切れず、老爺の腕に必死の力で縋り付くことで、辛うじて支えられた。
――うっせージジイ、おれなんかおいてさっさといきやがれ……
「うっせージジイ! 俺のことなんか放っといてさっさと逃げやがれ!」
ちょっと違ったかと苦笑いを浮かべる。
『クソガキ』の表情はずっと苦悶で歪んでいる。
じんわりと血の抜けていく感覚が続き、これがあと3時間も続いていたなら、彼はこうして夢を見る機会すら得られなかっただろう。
そのことには『クソガキ』も気付いていたし、これから起こることを止められないと知っている彼は、苦笑いしていた口をキュッと閉じて、歯をくいしばる。
「おう! 生きとるな! さあ立て!」
背中の老爺は『クソガキ』を抱く腕に力を込めて、立ち上がろうと試みる。
それに応じようにも動かぬ『クソガキ』の足腰。
抱きかかえられるようにして持ち上げられ、力なくだらりとぶら下がったままの両足は、地に着いても踏ん張れずに折れ曲がり、そのまま崩れた。
『クソガキ』の目の前には、斜めに傾いた血溜まりが映し出される。
自重を支える力まで抜け落ちてしまった腕が、自分の体と床との間に挟まり、不恰好なうつ伏せの姿勢になったのだ。
「おい……何をふざけ……ああ…………ッ!」
老爺はそこで初めて気付いたのだろう。
『クソガキ』の腹は鋭い刃物にでも刺し貫かれたような傷跡が刻まれ、おそらく綺麗に両断された腰椎は外に露出してしまっていたはずだ。
押し殺し切れなくなった嗚咽が漏れて、情けなさ、寂しさが『クソガキ』を満たして、木の床に広がった血溜まりの涙を注ぐ。
「ジジイ……頼むよ。あんたは生きてくれ……」
絞り出される『クソガキ』の懇願を嘲笑うように、自重を支え切れなくなった屋根が崩落して降り掛かる。
「くぬッ! 『
老爺の叫びに応じて出現した3枚の土色の盾が二人を覆い、数瞬前まで屋根だった燃える木材を受け流して、同時に熱も遮断する。
それを見届けもせず、老爺はうつ伏せのままの『クソガキ』を仰向けに寝かせ、傷を確かめようと血染めの上着を捲り上げる。
――そっか。やっぱ見えないよなぁ。
やっと
大好きだった銀の短髪は、炎の熱で端々を縮れさている。
未だ愛して止まないはずの顔……顔は、ぼんやりと
ふぐうッと声が漏れ、目は瞬時に熱を帯び、溢れた熱が頬を伝い落ちる。
泣きっ放しの『クソガキ』ではなく、
「わしが巻き込んだばっかりに……」
靄の向こうで、老爺の顔が深い悔恨に歪んだような気がした。
――違う。遅かれ早かれ、こうなったんだ。あんたのせいじゃない。
届くはずのない言葉。
同じ夢を見る度に、何度も繰り返し紡いだ思い。
「こんな魔法は産み出すんじゃなかったと呪ったもんだが……」
老爺は『クソガキ』の胸に両手を置き、複雑な魔術を織り成し始める。
細く、細く研ぎ澄まされた魔力は白い光を放つ。
点から線、線から円、円から球へ。
幾重にも重なり、その間隙を精緻な模様で埋め尽くしながら、『クソガキ』の視界を覆い尽くして行く。
指先一つ動かすのがやっとの『クソガキ』は、もはや声を挙げることすら適わない。
老爺が何をしようとしているのか『クソガキ』には理解できなかったが、自分を助けようとしていることだけは理解できていた。
――回復魔法なんてなかった時代に、な。
視界が僅かに動く。
緻密に編まれた光の向こうに、老爺の姿を探して。
「……なあ、
老爺の声が聞こえると、『クソガキ』……威焔の視界は、引きかけていた涙が再び溢れ出して、
老爺が彼の名前を呼ぶのは決まって大事な話をする時に限られていたし、他に誰も呼ぶ者のない自分の名前を呼んでもらえることは、彼にとって特別嬉しいことでもある。
ジジイと悪態をつきながらも老爺を親同然に慕うようになってしまった彼にとって、その喜びは格別のものになっていた。
今、彼の目に溢れる涙は、喜びによるものではなかったけれど。
「おまえを元の世界に返す約束は、果たせそうにない。すまんなぁ。……だが」
視界を覆っていた光が、威焔の胸に置かれた老爺の手元へとゆっくり収束し始める。
再び目に映った老爺の姿は、露出した顔や腕を真っ赤に腫らしていた。
咄嗟に覆った盾までもが焼かれて熱を持ち、炭火で炙るように老爺を焼いていたのだろう。
絶望的に見えるし、この時の威焔も二人で死ぬのだと確信した。
「この世界で生きる力を与えるという約束は果たそう。これが最後になるがな」
ズンと地響きまで立てて二人を覆う盾を何かが叩き付け、魔力の光が消え去り薄暗くなった空間の熱量が増した。
そして、威焔の体に異変が生じ始める。
「わしの魔法研究史上、最低最悪の魔法だ。おまえはその
「な……なにしやがったジジイ!」
瞬く間に傷が癒え、活力を取り戻して行く体。
威焔の胸中には、同じ速さで絶望が深みを増す。
自分の体を確かめもせず、彼は老爺の胸に縋り付いた。
その勢いを支え切れずに老爺は仰向けに倒れ伏し、構図は完全に逆転してしまう。
そして、威焔は老爺を救う術を持たない。
「ハッハッハ! 息子より後になど死んでやるものか! しかし、おまえ。いい顔をするようになったなぁ」
火脹れでブヨブヨに膨らんだ老爺の手が威焔の頬を撫で、威焔はその手に縋って泣きながら、言葉にならない抗議の声をあげる。
その声はもう届いていないのか、老爺は構わずに言葉を続ける。
思い浮かぶままに、それを余すところなく伝え尽くそうとするように。
そして、
「孫の顔、楽しみにしてるぞ。達者でな……」
そう最後に言い残して、老爺は
――爺さんが死んだことで盾も消え、炎はぼくらを半日焼き続けた。爺さんは焼かれて炭になった。ぼくは焼かれても焼かれても死ねなかった。
いつまでも醒めない夢、記憶を辿るだけのそれは、彼の腕の中で老爺だった肉を焼き焦がして、真っ黒な炭に変える。
彼の眼に浮かぶ涙は湧いた端から気化し、焼かれる端から体は再生し続け、心だけが焼き焦がされて燥き、ひび割れて行く。
腕の中の炭が崩れ落ちた瞬間、夢は矢の如き速さで記憶を辿る。
傷を負った獣のように怒りと憎悪に身を任せ、
理性と知性は
あらゆる魔法が彼を縛り得ず、枷で縛られれば手足を千切ってそれを脱し、串刺しにされても、杭で打ち付けられても、身を引き裂いてそれを脱した。
土に埋め、石で封じ、鉄塊に閉じ込めても、再生のために無尽に魔力を喰らい続ける
やがて一人、また一人と彼の憎悪に倒れる者が出始め……
「この鬼! 悪魔! 父ちゃんを返せ! 返せええええええ!!」
一人の少年の声で、夢は速度を落とす。
呆然と立ち尽くす威焔の前には、自分を殴り続ける少年と、その向こうで血溜まりに沈んだ戦士風の男。
怒りで見開かれ、涙に濡れた少年の瞳を見つめ返すと、そこには顔を血で真っ赤に染めて鬼がいた。
ボーン ボーン ボーン……
鳴り響く11の鐘の音。
いつの間にか夢の中の威焔に完全に同調していた意識が引き戻され、
「ハッ! ……あー……時計止めとくんだった……」
ガラス窓から月明りが射し込む部屋で、威焔は目を覚ましてしまった。
仕方ないと呟いて、溜め息を一つ。
静かな夜だった。
窓から見える空には雲一つなく、満月は柔らかに街を照らしている。
灯りの疎らな家々の窓には、一人で祈る者、肩を抱き合って月を見詰める者等々、思い思いに、しかし静かに、やがて訪れる時までの時間を過ごしている。
時折、空に流れ星のような閃光が走っては、小高い山の向こうで小さく瞬く。
「最期の夜だもんなぁ」
身支度を整えた威焔は誰にともなく呟き、窓ガラスに薄っすらと映った自分の姿に目が止まった。
月明かりでモノトーンに映し出された自分は、灰色の礼装を纏い、櫛で梳かれた黒い長髪、それを中央で分かつように額から伸びた白い角。
夢で見た、血溜まりに映る顔とほとんど変わらないその顔は、やや深い皺が影を刻み、目尻が垂れて険が取れたように見える。
「他人のことは言えんか」
意図しなかったとはいえ、
溜め息を一つ吐いて視線を落とし、止めていた足を思い人の眠る部屋に向け直して歩き出す。
調度品らしい調度品もない、ただ広いだけの屋敷の廊下を、灯りも点けぬまま進む。
目的の扉を前にノックを二つ。
返事は無い。
扉を開くと、桜の香りが彼を出迎える。
丁寧に清掃された簡素な部屋、その窓辺の机まで進むと、机の上には和紙に包まれた髪の束が一房。
「やっと、会える……かな?」
備え付けの椅子に腰を下ろし、髪の束に触れながら、語りかける。
返事は無い。
無い、が。
何処かで、青い髪の少女が、困ったように首を横に振った気がした。
―――
『これより六度後の満月の夜、この世界は滅びを迎える』
神とも呼ばれる世界の管理者がそう宣言したのは、約半年前のことだった。
神の法を犯した罪で氷塊に封じられた者たちもその封を解かれ、つい最近まで再会の喜びと終焉の絶望とで混迷を極めていた。
長く続いた圧政への最後の復讐だとして、世界のあちこちで戦争も起こった。
表舞台から去り、長い隠遁生活をしていた自分には、とうとう復讐への参加の呼びかけすら来なかった。
生きることに疲れていたし、労せずして死ねるのならば……彼女と再会できるのならば……むしろ喜ばしいことだった。
思い残すことが無いわけではない。
果たせていない約束は今でも鮮明に思い出すことができ、胸を締めつける。
『旦那様…私の大事な旦那様…約束…守れなくてごめんね』
困った顔をしながら、ぼくの手を握り返し、ゆっくりと、言葉を選びながら丁寧に、思いを紡ぐ。
『私は先に死んでしまうけれど、他の誰かを愛することをやめないで、幸せになってね』
答えられず、目を逸らすこともできず、
『旦那様と愛し合えて、私は幸せでした。あなたの幸せが、私の幸せです。……最後のお願い』
止めどなく溢れる涙の向こうで、真剣な表情の彼女のその願いに、うなずく以外の答えを見つけられなかった。
嫌なのに。
別れたくなんてないのに。
無力を責めてくれれば楽にもなれただろうに。
そんな勝手は許さないと、幸せになれと、願われて。
うなずいたぼくに彼女は微笑み、
『あ、もう一つだけ……いい?』
「なんだい?」
『……ハグして』
抱き締めたぼくに、力一杯にしがみついて、ありがとうと告げ、眠りに就いた。
永い、永い、眠りに就いた。
彼女が死んで二ヶ月後、桜が咲き始め、彼女が果たせなかったと嘆いた約束は、遺髪と共にした花見で果たされたことにした。
それが十数年前の話だ。
それからは死んだように過ごした。
胸にぽっかりと穴が空いたような感覚を抱えたまま、思い出しては泣き、己の無力を苛んでは泣き、思い出から逃げるように放浪し、逃げ続けることにすら疲れ果てて屋敷に帰り着いた。
たくさんの人と出会い、たくさんの人の優しさに触れ、ほんの少しだけ笑えるようになって、帰ってこれた。
そんな日々も、あと少しで終わる。
会えるだろうか。
会えないだろうか。
会いたいなぁ……
――ピシッ――
世界に亀裂が走る。
――パキンッ――
亀裂は瞬く間に世界を覆い
「ずっと愛してるよ……アイコ……」
砕けた。
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