赤の章

プロローグ

『他の誰かを愛することをやめないで、幸せになってね』



 声なき慟哭は揺り起こしたのは、儚い少女の最後の願い。

 愛して止まなかった妻の想い。



 (愛するって何だ? 幸せって何だ?)



 浮かんだ疑問。

 答える者がいない闇の中で、彼は五感を投げ出して思索に没入する。

 繰り返される自問自答。

 答えを導き出しては記憶に否定され、幸福の記憶に触れては孤独に灼かれて泣き崩れ、何度も、何度も、傷を抉るようにして『愛』の中身を見出そうともがいた。


 思い起こされる記憶の中で、自分が真実孤独だったと言える瞬間などなかったのだと、そう認めて・・・から先は、早かった。

 頭の中で小さな光が灯って弾け、一つ、二つと同じことが続き、やがて光の爆発は連鎖して思考を真っ白に塗り潰してしまう。


 気付けば彼は再び涙を流していたが、その涙からは心地良い温もりを感じていた。

 閉じていた瞼を押し上げ、涙を拭うと、闇の中で小さく瞬く無数の星が目に飛び込んできた。

 とても小さな光。

 自分が生み出したものではない、確かな存在。

 彼にはなぜそんな変化が訪れたのか分からなかったが、視覚を伴う孤独の癒しに感謝し、また涙を流した。

 行き場なく宙を漂う涙が星の光に煌めいて、ひび割れた心にやけに沁みて、声にならない嗚咽を誘う。



 (アイコと一緒の時も、こうしてよく泣いたなぁ)



 彼の亡き妻は、ひねくれ者だった彼の強がりを見透かしては泣かせ、抱きしめてくれた。

 彼もまた、何かと強がっては無理をしようとする妻を見透かしては泣かせ、抱きしめた。


 死別という結末によって深く印象付けられることとなった心温まる日々の思い出は、人ならぬ身の彼の人間味を濃くし、戦場から遠ざける決定的な動機となった。

 彼が父と慕った者との死別が報復のために戦場へ駆り出したのとは対照的だと言える。


 でも、と彼は胸中で呟く。



 (どっちも必要だったんだな)



 静けさを心地好いと感じる余裕の生まれた思考が、ようやく腑に落ちたと納得し、大切な二人の死を受け容れた。

 そうすると、不思議なことに人恋しさが芽生えてしまう。

 人に触れたい、その温もりを肌で感じたいと、叶わぬ願いが湧いて出てくるのだ。

 あの光を目指そう。

 彼がそう決意するのは自然なことだっただろう。


 支えはないが慣性は働くその空間で、彼は魔法を利用した移動を試みる。

 魔力の消費を抑え、効果を高めるために、逸る気持ちを抑えて準備に取り掛かった。



 (時間と魔力には事欠かんけど、あの光に辿り着いたときに声も出せないんじゃ切ないからな)



 光に辿り着けないとは考えもしない。

 誰も居ないとも考えない。

 思い込みにも似た確信が、彼を目標へと突き動かす。


 記憶を辿り、声を発するための準備を始める。

 魔力による防御、障壁バリアと呼ばれていた魔法の改修を始め、思い描いた通りに形成し、思いのままに使いこなせるまで技術を高めた。

 光を通し、空気を閉じ込められる魔力障壁の顕現に成功するとそれを物理障壁と名付けた。

 自身を覆う球状の魔力障壁と、その中を満たす空気の生成、それらを同時に達成できるまで試行錯誤が繰り返される。

 何千という試行を経て、理想は形になった。


 完成の喜びと、空気が肺を満たす感動とに彼が打ち震えたその瞬間、彼の目に光が飛び込んできた。



「は?」



 声を忘れてどれほどの時間が経ったのかは知れないが、滅びた世界の感覚で100年を下ることはあるまい。

 おそらく数百年ぶりに発することとなった彼の第一声は、なんとも間の抜けたものとなってしまった。

 いつ現れたとも知れぬ、彼の周りを飛び回る3つの小さな光も、彼の声が聞こえたのか、それとも彼の間抜けな表情に反応したのか、愉快そうに小刻みに震えた。


 小さな光のその様子に威焔は呆気にとられ、



「まぁ、いいか」



 そう呟いて、微笑んだ。

 光を目指した移動のために準備をしていたのに、その光の内の3つが彼の元に訪れてしまったのだ。

 しかも、遠目に見えたままの小さな光だったとあって、拍子抜けしてしまい、笑いが込み上げてくる。

 意思を感じられる光の動きと反応は、彼の人恋しさを意外なほど強く慰めてもくれていた。



「ありがとう」



 意図せず、自然に、彼の手は光に向けて差し出され、胸の奥から湧き出る柔らかな衝動のまま、彼は感謝の言葉を口にしていた。


 彼のその言葉に応えるように、3つの光がゆっくりと揺れ動いた、その瞬間。



「……は?」



 彼はまたもや、間抜けな表情を晒してしまうことになってしまった。

 瞬間。いや、瞬いてすらいない。

 彼の視界は真っ白に染まっていた。



『やあ。おかえり』



 男のものとも女のものとも、どちらとも取れる中性的な声が、頭に直接、嬉しそうに語りかけてくる。



『ずっと呼んでたんだけど、やっと届いたね』



 その声は何処から語りかけてくるのかと彼は周囲を見渡すが、目を焼くような白に染まった視界に、何かの姿を見出すことはできそうにない。

 ただ、暗闇にはなかった気配が、今ある真っ白な空間には満ちているように感じられた。


 彼の声は、彼が魔法で生み出した物理障壁の中にしか響かないはずだが、心に直接語りかける声の主には伝わると彼は判断して、会話に応じることにした。



「えーと、どなたさま?」


『私を表す言葉はたくさんあるけど……威焔、君の知ってる管理者・・・ではないよ』



 本当に通じたと、根拠のなかった判断が正しかったことを証明された驚きが一つ。

 自分が知らないはずの相手から、発音も完璧な自分の名前を呼ばれた驚きが一つ。

 2つの驚きに目を白黒させ、彼は思わず問いを重ねる。



「なんで、ぼくの名前を?」



 その問いに、姿なき声は教え諭すように応答する。



『私は君でもあるからね』



 首を傾げ、考え込む威焔。

 思い当たることがないわけではなかったが、確信に至らないと考えた時、姿なき声はその考えを読み取ったように言葉を紡ぎ上げる。



『そう。私は神と呼ばれたりもする。ただ、君が知っているどんな神話、宗教も、私を正しく語っていない。私は全てであり、全てを愛している。誰かが語った神のように、救う者を選ばないし、裁かない』



 優しく語りかける声に、得心がいったと威焔は頷く。

 記憶にはないのに「自分はこの存在を知っている」と確信させる不思議な感覚が、彼を安堵させている。

 それに、声の主の「私は全てであり」という言葉には覚えがあった。



『八百万の神の国が故郷だもんね?』



 頭に響く言葉に、威焔は苦笑いを浮かべる。

 思い起こされたのは、炎に包まれた荒屋あばらやで父が口にした悔恨の情――「おまえを元の世界に返す約束は、果たせそうにない」と語った苦渋の声。

 彼の父が口にした『元の世界』が、声の主の言う『八百万の神の国』を意味した。

 彼がその国で生活した時間はとても短いものだったが、彼が当時を過ごした鬼の集落でも、近隣の人里で信仰されていた『八百万の神』、万物に神が宿るという教えは生活の端々に息衝いていた。


 彼の苦い胸中をおもんばかってか、それとも別の意図が有ってか、声の主は話題の切り替えを図ろうとする。



『さて、ちょっと巻きで行こう』



 頭に響いた声には僅かに焦りの色が見え、それに気付いた威焔は同意して応じる。

 声の主は「ありがとう」と一言置いて、やや早口に話を始めた。



『ではまず、簡単に現状の説明をしよう。ここは本来"死後の世界"に当たる。でも、君はまだ生きている』



 威焔は「死後の世界」という言葉で、世界が滅びたという事実を認めた。

 同時に、「まだ生きている」という言葉で、父の呪いの強固さに感心してしまった。

 それにしても、と彼は思う。



「面倒くさい状況だねぇ」



 声の主――神がどんなルールで生と死を別けて定義しているのか分からないが、何か問題があるから急いでるのではないかと威焔は考えた。



『そうでもないよ? でも、私との約束は果たせないし、アイコさんとの約束も果たせないでしょ?』



 威焔の考えとは裏腹に、神は事も無げに応じる。

 「私との約束」とやらには心当たりはなかったが、愛妻との約束を持ち出されると、困るのは自分なのだと納得するしかなく、神はそんな自分に救いの手を差し伸べようとしてくれているのだと思い至る。



『私との約束は?』


「記憶にございません」



 威焔の思考を読んで放たれた問いはどこか子どもじみていて、しかし親しみの込められた声だったので、威焔もまた親しみを込めて彼なりの悪ノリで応えた。

 音を伴わない喜びの感情が頭に届き、空気までも小刻みに揺らす。



『さて、君の"これから"に、提案があるんだ』



 雰囲気が気持ち軽くなった神の声が頭に響き、威焔は話の流れから生者の世界に転移する内容なのだろうと察した。

 察しはしたが、不安もあった。

 生まれ故郷の世界は、彼が生きていた時からかなりの時間を経ているはずで、すると彼にとって故郷と呼べる場所は無くなっている気がしていた。



『そうだね。だいぶ時間が経ってるし、今のあの世界では、鬼の君はとても生きづらいだろう。アイコさんとの約束も果たし難いと、私も思うよ』



 妻との約束が果たし難いと言われれば、彼に思い当たる可能性は一つしかなかった。



「ずいぶん前に鬼は滅んだってこと、か」


『残念なことにね』



 威焔の頭に響いた声には哀惜の念が色濃く漂っていたが、威焔自身はその可能性を考えていたし、帰りたいと思う気持ちもなかった。

 なので、神の言葉に落胆することもなく、むしろ清々しささえ感じている。



『君の血と魂にゆかりのある存在を、感じ取れるかい?』



 俄かに響いた声には焦りの色が滲み、彼を急き立てる。



『君は命の根源を知っているし、その根源を通じて召喚する術を知っているでしょ?』



 彼にはどちらも心当たりがあった。

 彼の腕を媒介に、闇の中で生命を生み出した魔法は、召喚魔法の亜種に当たる。



『さあ、探してみて』



 目を閉じ、神に急き立てられるままに『ゆかりのある存在』を探すと、確かにそれはあった。

 白く光り輝く川、果ての見えないその流れの遠くの方に、条件を満たす魂が3つ。



『間に合いそうだね。君をそこに召喚するといい』


「逆召喚?」



 急き立て続ける神の声に対応するため、彼は可能な限り思考を加速させてはみるが、思いもよらぬ言葉に、つい問い返してしまった。

 召喚魔法に距離は関係ない。

 条件さえ整えば、異界の存在も術者の元に・・・・・召喚できる。

 しかし、術者を対象の元に召喚させるとなれば、それはもはや召喚魔法という枠を越えてはいないだろうか。

 神はそんな彼の疑問を汲み取り、



『転移とも呼ぶし、神隠しとも呼ぶね』



 そう言って、転移の魔法構築イメージを威焔の頭に映し出す。

 それは威焔の知る召喚魔法とほとんど大差ないもので、よりシンプルに洗練された美しい術式だった。



『さ、急いで。その光が最後だから』


「分かった。よう分からんけど分かった。……行って、どうしたらいい?」



 急がせるには理由と目的があるのだろうと彼は考え、その疑問をぶつけてみたが、神の答えはあっさりしたものだった。




『君の望むままに』




 畏まるでもなく、当たり前だろうとでも返すかのような、朗らかで簡潔な言葉が威焔の胸を打つ。

 考え過ぎだと笑われたような気分になるが、悪い気はしなかった。



『君が前にいた世界が例外だっただけだよ。

 あんなことはもう起こらない。

 だから、好きに生きるといい。

 それが私と君たちとの唯一の約束なんだから。

 ……と、一つだけサービスしておくよ。

 すぐに必要になるからね』



 捲したてる神の声に続き、威焔の頭に大量の言語と文字の情報が流し込まれ、瞬く間に既存の情報と結び付けられていく。

 超負荷は脳を焼き切らない程度に抑えられてはいたようだが、頭痛と目眩めまいで一瞬気が遠退く。

 辛うじて保ちこたえ、顔を振って気を取り直すと、威焔は改めて神に礼を述べ、転移の準備に取り掛かった。



『ふふ……いってらっしゃい』


「いってきます」



 ここが死後の世界であり、神が「いってらっしゃい」と送り出すのであれば、自分はいつか死ねるのだろう。

 そうした理解は、威焔に父との約束を果たし得る可能性を示し、否応なく新しい世界への期待を膨らませる。

 呪いを解く鍵は未だ不明なままであったが、神の言葉は強い励みとなって、呪いが解けない不安を払拭した。


 転移先の対象を捉え、魔法の構築を進める。

 その胸には未だ見ぬ新天地への不安を抱えて。

 それ以上に、自分ではない誰かとの出会いへの期待を膨らませて。



 構築が完了した魔法が発動し、彼は新たな旅立ちへと送り出された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る