鬼の首級
バァンッ!
「アントン! アントンよ! 無事だったか!」
「はっ! 恥ずかしながら、帰ってまいりました!」
両開きの扉を勢いに任せて押し開き、平伏したままの男の元まで駆け寄り、絹製の豪奢な服に身を包んだ中年の男は、喜色満面の笑みを崩さぬまま、膝を折ってアントンと呼んだ男の肩を抱き、目尻に涙を浮かべる。
「よい。よいのだアントンよ。そなたが生きて帰ったことで最悪は免れたのだ。
他のことならばどうとでも解決できるが、そなたは替えがない。
よくぞ生きて戻ってきてくれた」
語り聞かせるような言葉に、アントンは感極まった風に更に頭を深く下げる。
「ありがたき幸せ……!」
豪奢な服の男はそれを見て何度も頷き、アントンを来客用のソファーへ促して、自身も向かいのソファーへと腰掛ける。
二人が席に着くと同時、燕尾服に身を包んで白髪の老紳士が銀の台車を押して現れ、手慣れた仕草で紅茶を注ぎ、音もなく二人の間のテーブルに配膳する。
豪奢な服の男は自然な流れで紅茶を口にし、落ち着いた様子で口を開いた。
「話を聞こうか。そなたの身に何が起こったのか、どのようにして戻り得たのか」
「はい。説明の前に、こちらを」
アントンは後ろに控える白いドレスを着た少女に、目で合図を送る。
少女は頷き、テーブルの脇、毛の長い真っ赤な絨毯の上に白い包みを置き、膝を着いて平伏する。
「この少女、ガバンディ様の魔術士の力なくして、私は生きて再びこの地を踏むことはなかったでしょう。彼女は私の命の恩人にして、今回の最大の功労者であります」
「ほう。少女で魔術士といえばあの娘か。魔術士よ、大儀であった。後で褒美を与えよう」
「身に余る光栄です」
「して、その包みは?」
「はい。魔術士殿」
魔術士は頷き、包みを開く。
「閣下の命令遂行の最大の障害にして、私を討ち破った怨敵。その
豪奢な服の男、ガバンディは、
見開かれた目には黒い瞳、僅かに陽に焼けた淡い小麦色の肌、漆黒とも言える黒い髪……額には鋭い一本の角。
「これは…………オーガだと…………!?」
「噂で伝え聞くオーガとは違い、人語を使い、高度な剣術を身に付け、魔法まで操っておりました」
アントンの説明にガバンディは絶句する。
「私はなす術もなくこのオーガの魔法によって倒され、虜囚の憂き目に遭いましたが、魔術士殿のお陰でこれを討ち取り、帰還することが適った次第です。
しかし脱出の折、私を逃がすために配下の者は敵兵の包囲を押し留め……」
「よい。無理はするな」
アントンの言葉を遮って
「魔術士よ、その方、いかにしてこのオーガを倒した?」
「は!私もオーガによって倒され縛についておりましたが、オーガにとって魔術士が有用であったのか、縛を解かれ、傍に置かれることとなりました。
その間に策を練り、準備を整え、オーガがアントン様を訪ねた機会に隙を突いて討ち滅ぼしました」
「……信じられん話だが、報告にも一致する。首級もある。疑う余地はあるまい。首級をこちらに」
「は!」
魔術士によってオーガの首級が差し出される。
ガバンディはそれを手に取り、手慣れた手つきで検分し、感嘆の溜息をこぼす。
「見事なものだ。夏の始めとはいえ、死して二日を過ぎようとしているのに腐食する様子もない。
かつてアントンが討ち滅ぼした飛竜の死骸のようではないか」
「恐れながら申し上げます。閣下、彼の飛竜といえど、このオーガの足元にも及びますまい。
帰還の途で魔術士殿より伝え聞いた話によりますと、アデリー・サロフェットを討つべく押し寄せたダニエル・ネイド・グロッシアの騎兵三百を瞬きの内に全滅せしめ、魔法によって丘陵を消し飛ばし、大地に大穴を穿ったとのこと。
神話の怪物を目の当たりにした気分ですよ」
この話も事前に報告は受けていたのだろう。
ガバンディは深く頷き、右手で顎を揉む。
「より甚大な損害が生じる前に
それには魔術士とその身内も、奴隷の身分のままでは不都合も生じよう」
この言葉に、魔術士は地に伏し声を大にして謝辞を述べる。
「ありがたき幸せ! まことに……まことに……っ!」
「よい。奴隷の身でありながら、我が導きによくぞここまで応えてくれた。その働きには礼を持って応えねばなるまい」
ガバンディはその傍らに控える執事に目配せをし、執事は頷いて部屋を後にし、さして間を置かずに戻ってきた。
「そのままでは示しもつかぬ。魔術士よ、そなたも席に着くがよい」
「は! ありがたき幸せ!」
ガバンディは鷹揚に頷き、執事はテーブル上の紅茶の全てを新しいものに淹れ直して、三人分を配膳する。
そこへ数人のメイドが焼菓子を携えて入室し、白磁器に盛り付け、茶器の傍らに次々と配膳していく。
「魔術士よ。そなたの奴隷の身分は廃するが、誓約の紋はそうもいかぬ。それは心得ておるな?」
「承知いたしております」
魔術士は真剣な表情で肯定の意を示す。
ガバンディはそれを覚悟の意志の表示と受け止め、頷く。
「さて、アントンよ。そなたの褒美も考えねばなるまい」
ガバンディの言葉に、アントンは首を横に振って応える。
「滅相もございません。私は閣下の命を果たせなかったばかりか、虜囚として閣下の名誉と財産を損なうところだったのです」
この言葉にはガバンディも押し黙って考え込むしかなかった。
自身の贔屓目を自覚しているのか、顎を揉みながら思慮を巡らせている。
しばらくそうしていると、執事がガバンディに耳打ちをし、ガバンディはそれに頷いて返し、魔術士を真っ直ぐ見据える。
「魔術士よ、褒美が届いたようだ」
そう言い終えたと同時、扉が開かれ、銀の全身鎧に身を包んだ二人の兵士とメイド姿の女性に率いられ、赤い髪の少年が姿を現した。
魔術士は身を乗り出し、ガバンディと少年に向けて顔を何度も往復させ、ガバンディは鷹揚に頷く。
「褒美だ。受け取るがよい」
「ありがとうございます!」
魔術士は深く頭を下げ、勢いよく駆け出して少年を抱きしめた。
ガバンディもアントンも、その様子を
そして、アントンが思わぬ言葉を口にする。
「役者は揃いましたな」
ガバンディが|怪訝(けげん)な顔をアントンに向けたのと同時、室内が息苦しいまでの沈黙と緊張に支配され、ガバンディの眼前のアントンが一瞬にして冷や汗に包まれる。
ガバンディがアントンの視線を追い、辿り着くより早く、沈黙を破る声が響いた。
「動けば斬る。命が惜しくば、その場でじっとしていろ」
ガバンディの視線がアントンの視線に辿り着いたその先に立っていたのは、もはや見間違えようもない、その死を確かめたはずの……オーガ。
―――
突然遮られた視界。
よく見れば、それは灰色のシャツだった。
光沢を放つ黒いボタンで留められ、胸ポケットの縁に金糸で獅子のレリーフが刺繍されていて、一見すると地味だけど、どこか品のある上着だ。
でも、なんだろう。
冷や汗が止まらない。
ぼくを強く抱きしめる姉は熱いほど温かいのに、ぼくだけが凍えているような……だから震えているんだろうか。
「動くな」
耳を打つ言葉に震えが止まる。
呼吸も止まる。
ぼくを抱きしめる姉の腕から抜けていく力が、ぼくの不安を煽り立てる。
お姉ちゃん! 離さないで!
そう叫びたいのに、固まった体は動かない。
「命が惜しくば、その場でじっとしていろ」
何が起きているんだろう?
どうしたらいいんだろう?
お姉ちゃんなら何か知っている?
お姉ちゃんが何とかしてくれる?
ぼくはまたお姉ちゃんの重しになる…………?
違う。ダメだ。嫌だ。そうじゃない。そうじゃないだろう!
お姉ちゃんは何も言わなかった。
ぼくを責めたりしなかった。
ぼくがもっと会いたいとワガママを言えば、謝りながら抱きしめてくれた。
ぼくがいつも一緒にいたいとワガママを言えば、いつか願い事が叶うといいねと言って抱きしめてくれた。
いつまでも細いままの腕で、会うたびに傷の増える小さな体で、いつも、いつもいつも、いつもいつもいつも、ずっと、ぼくを守ってくれた。
知ってるんだ。お姉ちゃんが何をされているのか。
知ってたさ。お姉ちゃんがなんで耐え続けてたのか。
ぼくのせいで……ぼくが生きてる限り…………なら、今、お姉ちゃんを助けなきゃ!
「うわあああああああああああああああ」
ご主人様は言った。
ぼくは魔法が使えるはずだと。
魔術の先生は言った。
ぼくには魔術士になれる才能があると。
お姉ちゃんを自由にするために、必死に学んで、磨いた魔法を。
今、ここで使わきゃ!
『我が力、我が肉、我が命を喰らい、現れ出でよ地獄の炎。眼前の敵の血と肉と魂その全てを焼き尽くす業火とな』
カハッ
は?
え?
なん………?
息……………っ!
ヒュー……ォゴフッ
「その詠唱はダメだな」
あ……ダメだ…………立てない…………死ぬ…………何もできずに…………
「ごめん……おねえちゃん…………」
悔しいなぁ……あんなに頑張ったのに……
訳も分からないまま死ぬのは嫌だなぁ……
なんだ……? 角……?
最期くらい、お姉ちゃんの顔を見ながら死にたいのに……
「おまえ、あの詠唱だと、姉も巻き込んで殺すことになるぞ」
「…………ッ!?」
神様はなんて残酷なんだ
クソ!
クソ! クソ! クソッ!!
うああああああああああああああああああああ!!
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