三 青焔魔降臨



 †


 名を呼ばれた森宗意軒は、ゆっくりと顔を太郎へと向けた。どこか呆けたような、視点が合わないような、そんな顔である。


 余りの覇気の無さに、太郎が怪訝な顔をした。田崎刑部を始め部下の殆どを失い、念願であった南蛮悪鬼の王召喚を邪魔立てされて、よもや年相応に呆けたかと思ったところに、反応があった。


「く、くくっ」


 それは、引き攣ったような笑みである。喜びに満ちた笑い声だった。


「く、くひひっ、ひひひっ、ひぃ、ひひひひっ、ひははははは、ははははは、ははははははははは、はぁーっはっはっはっはっはっ!!」


 我慢しきれずに漏れた笑い声は、直ぐに呵々大笑となった。が、込められている喜色は常人のそれではない。異質で歪で邪悪さで満ちている。それは、悪事を妨げられ追い詰められた者の上げる声ではなかった。


「なんだ……」


 突然笑い出した老人に、太郎の方が狼狽を覚える。だからだろうか。少し離れて事態を見守っていたお里の方が先に気が付いた。あるいはそれは、囚われていた時森宗意軒と僅かながらも言葉を交わしたからかも知れない。


「太郎さん――何か変……足元!」


 太郎もその言葉で気が付いた。


 森宗意軒の足元――黒い靄が、蟠っている。蠢き、溜まり、澱んでいる。

 その黒い靄に押されて、森宗意軒の周囲だけが炎に取り囲まれて、いないのだ。

 

 太郎が授けられ振るう降魔の独鈷剣が纏うのは、ただの火炎ではない。


 不動明王は仏界と人界を隔てる天界にあって、人界の欲望や煩悩、あるいは邪気が仏界に波及しないように焼き尽くす火生三昧という神焔烈火で満たされた結界に座しているという。その浄化の炎そのものが、独鈷剣を通じて現界しているのである。


 邪悪な悪鬼の力を元として湧き上がる黒い靄など、神の浄化の炎を押しとどめることなどできる筈はない。むしろ枯葉の如く勢い良く燃え移り飲み込まれ、あっという間に燃え尽きて然るべきであるというのに。


 太郎や伽羅がその疑問に思い至ったと同時に、宗意軒の足元の靄がその密度を増した。まるで湧き出る泉が如くとめどなく、勢いよく吹き出し、炎を逆に飲み込んで行こうとする勢いだ。


 そして、狂ったように笑う老人がぴたりと笑うのを止めた。


 無言の空間が――両者の間に横たわる。


 身構え、森宗意軒の一挙手一投足に注意を払っていた太郎の耳に、突如拍手の音が届いた。


『見事――ええ、見事でありました』


 森宗意軒の、背後から。

 白い手がのぞいている。

 その両手が打つ拍手……その両手の持ち主が発した言葉。


 半ば黒蛇と化した今でも小柄な森宗意軒の背後、その一体どこに隠れていたのか。


 白い手、白い肌、白い顔――白い宣教師の服を纏った、白髪の、痩せた、長身の男。

 全てが真っ白な男が、森宗意軒の後ろから現れた。


『神助を得たとは言え只人の身で、我が祝福を受けた使徒たちをこうも圧倒できるとは……その心力、見事というしかないでしょう。


 笑みを浮かべた男が、太郎たちの方を見た。


「……ひっ」


 お里の引き攣った呻き声が、太郎の背後から聞こえた。太郎もお里程ではないが驚き、恐怖を覚えた。

 なぜなら真っ白な男は――その瞳まで真っ白だったからである。だがその瞳が湛える何かが、太郎やお里の心を不安にさせた。


 喜怒哀楽といった、わかりやすい感情ではない。


 憎悪や狂気といったものでもない。

 言葉にはできない、だが見ているだけで酷く心がざわつく。不安を覚える。心臓を締め付けられるような感じがする。ただとにかく、それが良くないものであるということだけを直感するのだ。


 ギャアギャアと音がする。

 見れば、一斉に鳥という鳥が飛び立つところだった。空に浮かぶ大きな満月に、無数の鳥の影が浮かぶ。周囲どころか、この山に棲む全ての鳥が逃げ出したのではないだろうか。


 太郎は、竜の姿の伽羅をみた。

 伽羅は、険しい雰囲気を迸らせ、白い男を見ている。


『なぜ、貴様が……儀式は失敗したはずだ!』


 竜の怒声。

 白い男は、しかし涼風にすら感じていないような態度で肩を竦めた。


『失敗? 失敗どころか……召喚の儀式がとっくの昔に終わっていないと、どうして思うのですか?』


『なっ……!?』


 その言葉に、伽羅は虚を突かれた。


『ふふふ……四万をも超える人々の血と肉と、その魂。生贄に奉げられればどんな大悪魔であっても、流石に召喚に応じるというものです』


 一瞬太郎は、何を言われたのか判らなかった。

 その太郎の頭上に、伽羅の重々しい言葉が聞こえてきた。


『……島原か。島原での戦いで失われた命を、糧としたのか貴様――!!』


 島原の乱では三万七千もの切支丹たちは悉く死に尽くした。


 そしてそれを成した幕府軍も無傷であったわけではない。十二万人の幕府軍の内、八千人もの将兵たちが傷つき、血を流し、或いは命を落とした大戦である。

 そしてその中には、太郎の父平蔵もそこで戦死した。他ならぬ、目の前の森宗意軒とその弟子田崎刑部の手によって。


『ええ。非常に美味でございました。神の国を求めて懸命に生き、最期は死を望んで進んで殺される切支丹たちと、狂信的な彼らに殺されてしまう幕府の人々の無念……おっと失礼。ふふふ、思い出すだけでつい、涎が』


「お前……なにを言って……」


『ふふ。太郎、と言いましたか。あなたの御父上、平蔵殿の魂も私が頂いた、と言ったのですよ。ほら、このように』


 白い男が、掌を太郎に向けた。

 その手がごぽりと泡立ち形を変える。そこに現れたのは、確かに平蔵の顔――

 それを見た瞬間、太郎の怒りが一瞬で沸点を超えた。


「き、さまぁあああああああああッ!!」


「太郎、待ちなッ!」


 お紅の静止の声も耳に届かない。

 蹴り脚は地面をも砕く威力で太郎の身体を前へと跳ね飛ばした。大上段に振りかぶる神剣は業火を纏い、渦巻いている。

 その渾身の一撃を、白い男は事も無げに、


『ふふん』


 鼻歌交じりに、片手で受けて見せた。

 ざくりと降魔の独鈷剣が男の腕を半ばまで切り裂き、止まった。


『ほう、中々の威力です。が、良いのですか?』


 睨み付ける太郎に、男が微笑み交じりに尋ねる。


『今のであなたのお父上が傷ついたのですが……それでも?』


「なっ!?」


 ……お、あ、たろぉ……お……なにを……ああ、いたい、いたいぃぃ……


 白い男の腕に浮かぶ平蔵の顔が半ばまで断ち割られて、呻き、血を流し、か弱い悲鳴を上げている。神剣の炎が燃え上がり、焼けていく。


「お、おやっ、親父!?」


『あーあ、あなたは酷い人ですね。実の親を叩き切るなんて』


 実に嬉しそうに――心の底からの満面の笑みの形に顔を歪めて、男が言う。正面で向かい合う太郎を蹴り飛ばすと、地面に尻もちをついた太郎に向かって言う。


『改めて初めまして。私が悪魔王が一柱、サタン、と申します。よろしくお願いいたします……おっと、そうだ。これはお近づきのしるしに、どうぞ』


 さくっと、白い男――悪魔王青焔魔はぱっくりと切り裂かれた平蔵の顔が浮かぶ自らの腕を切り落とした。それを太郎の方に放り投げる。

 神炎に焼かれ呻き続ける平蔵が、太郎の手元に落ちてきて、


「親父、親父……うわ、うわぁあああああああっ」


『ふふふ、あははははは、はーっはっはっはっ、いい顔、何ていい顔だ。ははは、素晴らしい。わざわざこんな東の果てにまで呼ばれた甲斐があったというものだ。でかしたよ、森宗意軒』


 青焔魔が、そこで森宗意軒の方を向いた。

 森宗意軒は恭しく膝をついて頭を垂れた。


『十二人の処女を奉げるという約束は守れなかったが、まぁいい。眷属すら私の贄に奉げるというその根性も気に入った。予ての約束通り、一つだけ貴様の望みを叶えてやろう』


「……では、殺戮を。蹂躙を。破壊を。混沌を。滅亡を。南は薩摩から、北は蝦夷まで。この島国にあって徳川幕府の威光が僅かにでも届く地に住む者の悉くを、老いも若きも、男も女も、富豪も貧民も、貴尊も賤俗も、武家も公家も、大名も百姓も、切支丹も仏教徒も、誰も彼をも、一切合切の区別無く、全ての人々を、殺し尽くして頂きたい」


 それは狂人の願いだった。

 それこそがこの狂人の願ったことだった。


 敬愛し生涯を通じて仕えようと思った小西行長がこの世を去った時、老人はその傍にいることができなかった。

 人生の目的を喪って、天草の外れに庵を構え、世捨て人の生活を送りながらぼんやりと考えていたこと――如何に、この徳川の世を引っ繰り返すか。


 普通に考えて、個人が成しえる筈も無い大望である。

 例えば幼子が木の枝を振り回して「いずれは自分も武功で以て立身出世を」と願うのとはわけが違うのだ。


 万を超える大軍を用意する――否。

 かつて小西家にあって各地を転戦していた森宗意軒は、軍というものを良く知っている。その維持にどれ程の金が必要が知っていて、それが個人でどうにかなるものではないと理解している。

 

 徳川に不満を抱く大名に一揆を促す――否。

 どの大名もそのような余力は残ってはない。また豊臣家家臣たちを糾合するのも現実的ではなかった――もう既に、大阪で二度の戦いの末、徳川と豊臣の決着はついてしまっているのである。


 ならば徳川の将軍を暗殺する――否。

 彼個人にそのような技術は存在しない。呪い殺すにしてもそこらの百姓に呪いをかけるのとはわけが違う。名のある高僧たちによる防御が成されているし、もしもそれができたとしても、次の将軍が選ばれるだけである。


 そう。森宗意軒は、徳川家を潰したいのだ。


 家康は勿論だが、その子々孫々まで根絶やしにしたいのだ。個人をいくら攻撃したとしても、他を取り逃がしては意味が無い。


 もっと、こう――何もかもを。悉くを。


 そう考えた時、ふと天災を起こす、ということを思いついた。

 だがただの災害では意味が無い。局地的に街の一つ二つ壊滅しても駄目なのだ。


 ならば天災に匹敵する何かを――自らの意のままとなる何かを呼び寄せることができたなら?


 例えば南蛮の聖書にある、地の獄に存在するという天に楯突く悪魔……とか。


 以来二十年を、そのために費やした。


 半ば自棄になっていたのは否定できない。上手くいくと考える方が可笑しいと彼自身思っていたが――刑部と共に行った黒ミサで、青焔魔からの応答があった時には腰を抜かしそうになったものだ。


『ふふん。まさか本当にそれを願うとはね。全く――人の欲とは限りなく度し難く、だからこそ面白い。こんな東の果てにまでやってきてみて正解だったというものだ』


 楽しそうに顔を笑みの形にし、青焔魔は言う。


『良いだろう、森宗意軒。貴様のその願い、私が聞き届けた』


「おお……」


 森宗意軒の、最早人ではない顔に喜びが宿る。積年の願いがついに成就する時が来たのだ。


 森宗意軒と名乗る老人のこれまでの人生は、得て希望に満ちていく前半生と失い失望し続ける後半生にはっきりと分けることができる。


 彼は河内国に生を受けた。幼名を傅之丞という。父は西村孫兵衛といい、森長意軒と号していた。


 生家は代々神職である。生来より神という超常の存在に触れ、慣れていたということは後々の彼の人生を大きく左右することになる。神という存在は、決して人間に都合が良いばかりではない――祟り神という人に仇成すばかりのものもいれば、人を助ける一方で裏返って祟り神になることもあるということをよく知っていた。


 長じて傅之丞は三左衛門と名前を変え、武士となって小西行長に奉公へと出た。この時、小西行長は利発で良く仕えてくれる三左衛門のことを非常に気に入って取り立てている。三左衛門自身もその思いに応えるべく骨身を惜しまず働いた。

 

 彼に転機が訪れたのは、文禄の役の時である。

 日本の支配者となった太閤豊臣秀吉による、大陸への出兵である。主に九州と西日本の大名を中心に編成されたその派兵に勿論、直臣にして南肥後の大名に封じられた小西行長も参戦した。それは北肥後に封じられた加藤清正と競い一番槍を申し出る積極的なものであった。

 三左衛門は、小西家の荷駄や兵士を運ぶための船宰(船頭)を任されていたのだが――ある日の晩、対馬を経由して朝鮮半島に渡る際に、嵐に合い船は難破し、三左衛門は三日間の漂流の末、南蛮船に助けられたのである。


 助けてくれたのは、オランダ籍の船であった。

 僅かにポルトガル側から僅かに漏れる情報から、日本の朝鮮への派兵を知って情勢を探りに日本海まで出張っていたらしい。そこで海に浮かんでいる三左衛門を拾ったのだ。

 当時の南蛮――西洋は大航海時代の真っ最中である。喜望峰を越えてインド、アジア、そして明との貿易が目的だ。かつてシルクロードという陸路でしか存在しなかった交易は、新たに海の路を経て益々活発になっていく。のちに重商主義という言葉を与えられるこの時代、欧州各国はこぞってインドやアジアとの貿易に明け暮れていた。それは後に世界各地に植民地を作る帝国主義へと発展していくのだが――


 さておき、九死に一生を得た三左衛門である。

 全く言葉が分からないなりに水夫として働き西洋の文化を学んでいく。彼自身は切支丹ではないが、一方で主君小西行長の為、西洋の情勢や宗教事情を得ることが必要であると考え、そのままオランダへと渡った。

 その当時のオランダは独立戦争の真っ最中だった。元々オランダは神聖ローマ帝国の影響下にあったが、帝家ハプスブルグの分裂と共にネーデルランド連邦共和国として一応の独立をするものの、オランダ継承を唱えるスペインとの戦争があり、財政、外交、交易、カトリックとプロテスタントの対立。三左衛門がオランダの地に降り立ったのは、そんな複雑怪奇な事情がある時期であった。


 切支丹――これはスペインとポルトガルに強い影響を持つイエズス会ひいてはカトリックの教えである。そしてオランダではプロテスタントが影響を強めていた。それらの違いを学ぶため少数派となりつつあるカトリックの集まりに参加する三左衛門は、更にその中でも異端の教えを追い続け、やがてある集団、異端中の異端の教えと出会った。


 神学と真っ向から対立し神を否定する悪魔崇拝――。


 人に仇なし、人を陥れ、悪徳に誘引する悪魔という存在。

 しかしそれは三左衛門にとって、不思議であった疑問を解消するものである。日本神道の様な多神教にあって神とは善性のみの存在とは語られない。人間と同じく間違えたり人に仇し、時に誘惑する存在である。

 絶対善性、完全なる存在である神の、分離した一面であるとすら思えば三左衛門に否定や拒絶の考えなど存在しない。むしろ神学に欠けている教えとして日本に持ち帰るべく、貪欲に学び、吸収していく。

 

 神と悪魔について十分に学び六年ほどをオランダで過ごした三左衛門は、複数の貿易船を乗り継いで日本へと舞い戻った。意気揚々と日本の地を踏んだ三左衛門を待っていたのは、小西行長刑死の報である。関が原の戦い、その三年後のことである。三左衛門は間に合わなかったという自責と後悔の念を抱き、その後の人生を生きていくことになる。


 主君である小西行長を処刑し首を晒した徳川家を恨む三左衛門は、暫くの間高野山に僧として潜伏し機会を伺う。

 程なくして豊臣家と徳川家の決戦となる大坂夏の陣が起こり、三左衛門は真田信繁の陣で客将として参加した。しかし奮戦むなしく豊臣家は敗北し、三左衛門は落ち延びることとなった。


 肥後へと辿り着いた三左衛門は半ば世捨て人として天草に隠れ住むことを選んだ。この頃から父の森長意軒の号から取って、森宗意軒を号するようなる。


 宗意軒はその経歴から、様々な知識を身に着けていた。


 戦国時代を直接知る者として軍学や刀槍術は実戦に基づいた実用そのものである。小西家で物資運搬に携わっていたことから兵站に関わるあれこれ。南蛮船に乗っていた経験から操船と航海術。大砲の運用知識。南蛮の文化は伝聞どころか現地で体験してきた。切支丹の教えについてはカトリックとプロテスタントの両方を、そして実家の生業である神道について、更に高野山に潜んでいた際に学んだ仏教についての教養を身に着けているなど、その知識と経験多岐に渡ること、この日本を見回して他に並ぶ者がいる筈も無い。


 彼一人で軍事、政治、経済、流通、航海、神道、仏教、切支丹宣教師とそれぞれの専門家とその分野で議論することができるのである。


 彼が望めば、全国どの大名の元であっても――あるいは憎き徳川家であっても仕えることはできただろう。それだけの知識を森宗意軒は持っていた。だがそれを、森宗意軒は世のために役立てたいなどとは思わなかった。


 この頃既に彼は、狂っていたのだろう。貧困に喘ぐ天草の人々を横目に願うのは一つ。




 この日の本の破滅である。











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