三 追跡者



 †


 翌朝。

 一行は、涌蓋山の麓までやってきていた。二人目の行方不明者である美代の簪が落ちていたという場所である。確かに村の外れで、目の前にあるのは鬱蒼と茂った森と、その向こうに涌蓋山が見えるのみだ。


「では行こうか」


 そう言って、先頭に立つのは北里の猟師を生業とする壮年の男だった。名を弥一郎という、弓を手にした髭面の男である。山の中で人影を見たという本人だ。長の手配で一行を案内してくれることになった。


「礼などいらんさ。美代は俺の姪だからな。探してくれるというならこちらが頭を下げる思いだ」


 藪を掻き分けながら、弥一郎は言った。

 聞けば弥一郎の妹が美代の母なのだという。嫁は貰ったが子のできぬうちに亡くしてしまった弥一郎にとって、美代はまさしく娘だった。弥一郎と美代の父親は、時間の許す限り辺りを探し回って、今でも諦めてはいない。


 そんな会話をぽつりぽつりと交わしながら一行は森の奥へと進んで行く。奥へと進むにつれて低木が減り、足元の下生えが減っていく――代わりに頭上に茂る枝と木の葉で、ずっと薄暗い。時折ごつごつした岩や張り出した木の根に足を取られて転げそうになる。


 特に、元々体力の無い壮吉には辛い行程であった。が、こんな場所では背負子に乗る訳にもいかないことは本人も承知している。


「だがよ若様。山を探すと言ってもこうも広くちゃよう。どこから探せばいいものかな」


 森の中を見回して、吾助が言った。彼にしてみればちょっとした息抜きの愚痴のつもりだっただろうが、壮吉にとっては違った。それは明確な答えのある問い掛けに聞こえたからだ。


「弥一郎どの、この山に川か池は無いか。あるなら先ずはそこを目指そう」


 その言葉に弥一郎ははっとして頷く。


「心得た。あっちだ、行こう」


 猟師である弥一郎と吾助を先頭に、太郎と壮吉、殿を幸助という並びで一行は休み休みながらも森の奥へ、山の上へと進んで行った。


 弥一郎の先導で一行が向かったのは、涌蓋山の中腹にある小さな小川だった。

 当たり前の話だが、人は水が無ければ生きていけない。涌蓋山に何者かが住み着いているというのであれば、この小川の水を利用している可能性が高いのではないか、という予想である。


 大人であればひょいと飛び越えることのできる程度の、名前も無い小川へと辿り着いた時には、そろそろ日も高くなっての事だった。


「……どうだ、弥一郎どの」


 小川から少し離れた場所で、壮吉が尋ねる。太郎と弥一郎の二人で小川の周辺を調べて回っているところだった。全員で近づいて、人の足跡を荒してしまっては元も子も無い。


 ややあって、弥一郎が壮吉の方を見た。小さく頷く。弥一郎の指し示す場所を、太郎も注意深く観察してみれば――


「人の足跡、だな」


 水気を吸って柔らかい土に跡が残っている。


「弥一郎どのか、他の猟師たちのものではないのか?」


 幸助が尋ねると弥一郎は首を横に振った。


「まだ新しい跡の様に見える――多分今朝のものだろうな。少なくとも北里の猟師はこの数日、涌蓋山には入っていないはずだ」


「足跡はどっちに向かっている?」


「恐らく、あちら」


 弥一郎の指した方を探せば、また別の足跡が見つかった。今度の物は二人分。小川に向かってやってきて、同じ道程で帰っているようだ。


「最低でも二人、不審な者たちがいるということか」


「それで、あっちの方には何があるのか。山頂の方では無いようだが」

 足跡が向かった方向は、山の上ではあるが山頂に向かって一直線というわけではない。


「あっちには――地獄谷があるな」


 弥一郎の言葉に、一行は長老の言葉を思い出す。

 温泉が湧く地には、同時に地下から毒風を伴う場合がある。その風が溜まる場所に迷い込むと息ができなくなり昏倒し、死に至る。人に限らず雀や狸、或いは猪や熊でさえ。生き物の命を奪う谷、故に地獄谷と呼ぶ。


「……卵が腐った様な匂いがする場合が多いというが、絶対ではないそうだ。そこら辺はどうなんだ」


 壮吉の問いかけに、弥一郎が答えた。


「そこの地獄谷に限って言えば、臭い匂いは殆どしないな。ただ、木々が立ち枯れたり殆ど生えていないから近づけば直ぐ判る。地獄谷周辺の岩場は妙に色が白いのも特徴だ。風が無い日には絶対に近づくなと師匠に教わったが、事故が怖くて俺たちは元から滅多に近寄ることは無いな」


 実際、誤って獲物を追い込んでしまって諦めたことも多いそうだ。


「ただでさえ人気の無い山の中で、更に近づく者のいない地獄谷か」


 太郎の言葉に壮吉が頷く。毒の風をどうにかすることができるのであれば、疚しい者にとって隠れ場所としてうってつけだろう。


「とにかく、そこを調べてみる価値はありそうだ」


 否を唱える者はいない。


 弥一郎の案内で、地獄谷を見晴らすことができる場所に向かって一行は歩を進めていく。


 そんな彼らの背を見送る、一対の瞳があった。

 高い木の枝に止まった、一羽の鴉である。

 鴉は甲高い声で鳴くと、枝を蹴って飛び去った。鴉が向かうのは、地獄谷の方向――








 太郎たち一行が涌蓋山に分け入る、その少し前――宮原村から少し行った山の中に、お里もまた入り込んでいた。つい先日転んで足を挫いたというのに、懲りずに山菜採りである、が。


「はぁ」


 気が付けばまたため息。


 いけないいけない、集中しなきゃとお里は自らの頬っぺたをぺしりとはたき、山菜採りに意識を集中しようとする。蕨の群生地で二、三本を採って籠に穂織り込んだところで、再び――いや、もう何度とも数えきれない程繰り返したため息がま

た、漏れて出た。


 ため息の数だけ幸せが逃げていく、と聞いたが、それは本当だろうか。

 本当だとしたら、昨日から今朝にかけて、お里は実に大量の幸せを逃がしてしまっていることになる。


 ため息を吐く理由は考えるまでもなかった。他でもない、壮吉からの結婚の申し出である。


 破格の申し出であることは、分かっている。

 降って湧いたような幸運であることも重々承知している。

 

 両親はとっくに鬼籍に入ったから後ろ盾となってくれる人はいない。元々貧乏で借金まで背負っているので結納品を持ってくるどころの話ですらない。


 それらの事情から、自分は結婚など夢のまた夢と思っていた。


 ……死んだ父と母は、仲睦まじかった。決して裕福ではなく楽な暮らし向きではなかったが、どこかおっとりとした二人は、まるで陽だまりのような幸せを一人娘のお里に与えてくれたのだ。


 いつだったか、母が言っていた。誰と結婚するのでもいいけれど、お父さんが私にしてくれるように、あなたの事を大事にしてくれる人を選びなさいね、と。


 そこへ行くと、壮吉というのは結婚相手として申し分の無い相手だ。

 

 お里の事情を承知している。借金はその貸主の息子なのだから結婚すれば無くなるも同然。辺り一帯を束ねる庄屋の跡取りである。


 そしてどうやら、お里のことを憎からず思っていてくれているらしいことは、半年ほど同じ家に暮らして薄々感じてはいた。


 言葉がきつく常に仏頂面ではあるが、悪い人では無い。身体が弱いということはあるが、致命的と言うほどでもない。


 再び、ため息。


 本来であれば、喜んで飛びつくべき申し出だ。考えるまでもない、というか考え得る限り最高の玉の輿である。


 返し切れそうもない借金を抱えた小娘である。この機を逃して、誰かと一緒になることができるなど思いもしない。


 歳のことも、ある。一昔前のお大名の娘であれば、早ければ十二かそこらで結婚することさえある。男児が数え十五で元服とすれば、女児は月の物が来れば――つまり子どもが産めると見込まれれば成人だ。


 勿論それは政略的な問題も絡む、極端な例ではある。


 いくら何でも十二は早すぎるが、それでも農村であっても十五か六か。普通ならばそれくらいでどこかに嫁ぐものだ。遅くて十八くらい。二十歳ともなれば薹が立つ、と言われて敬遠される。


 借金や両親がいないことを抜きにしても、お里は行き遅れ――ともまだ言えないが、本来そろそろ焦って然るべき年齢なのである。


『倅が唐突に済まないな……だが、お里。せっかくだからこれを機に、ちょっと考えてみてくれんかの。いや勿論、あの唐変木のことを嫌いでないのであれば、だが』


『そうよお里ちゃん。あの子は滅多に欲しいものがあるなんて言わないもの。それなのに、あんな……これは相当貴女に惚れてると思っていいわ。もし心に決めた人が居ないのであれば、どう? あの子気難しい様で実は手のひらで転がし易いのよ。この人と一緒。尻に敷く方法幾らでも教えてあげるから、一緒にこの家の財産を好きにしちゃいましょうよ』


『慶ちゃん旦那目の前にして何言ってんのォ!?』


 と、言うのが壮吉たちを見送った後に、信吉夫妻の掛けてくれた言葉である。……幼馴染同士で結ばれた信吉とお慶は、夫婦である以前に互いに気安い仲である。幼い頃から弱みを握られているそうで、信吉はお慶に頭が上がらないのだ。時々その片鱗を見せられては周りの方が「はいはいご馳走様」と言いたくなる。


 そして有り難いことに、二人は壮吉ではなくお里の心を優先してくれた。『お里さえよければ、いいか、大事なのはお里の気持ちだからな』『嫌なら断ってくれて全然構わないのだから』としつこい位念を押された。


 自分の息子のことである。それなのに自分の方を優先してくれるとは。――信吉の立場であれば、倅の嫁に来いと命令しても構わないというのに。本当に人の良いというか、正直人が良すぎていっそ変ですらある。そう言えば信吉はお里の借金のことを忘れて……いやいや、そんなまさか。


 まさかね?


 そんな人柄であるからこそ信吉は庄屋として小国の人々に慕われているのだと思う。

 信吉の人柄はさておき、目の前の問題は壮吉とのことである。 


「……もしあれが、太郎さんのいる場でなければ、はいって言っていたかもしれないんですけれどねー」


 お里が太郎に密かな想いを抱いている。そのことを知っているのは、お里本人以外に存在はしない。


 もしそれを知っていれば、矜持の高い壮吉があの場で結婚のことを言い出すことは無かっただろう。


 ……と、お里は思っているが実のところは逆だ。太郎が居たからこそ壮吉は形振り構わぬ先制攻撃を放ったのだが、それこそ本人以外に与り知らぬことだ。


 因みに器量良しのお里を狙っている年頃の男は、実は宮原村に結構な人数いたりする。お里が庄屋に奉公に出ている経緯も知られているので、お里に惚れた独身の男たちは現在、逆持参金として金十両を稼ぐために必死になっている。勿論壮吉が本気になっている時点で報われぬ努力なのだが。


 壮吉の思惑もさておき、お里のことである。

 お里が太郎と初めてあったのは、五、六年程も前だろうか。まだ少年とも言える歳の太郎が、小田村にやってきたからであった。


 その時から既に人並み外れた膂力を有してい太郎は、今と同じく荷駄運びとして小田村を訪ねた。お里の父の作った炭を宮原村や田ノ原村、あるいは北里村へと運び、別の物を持ってくる。生まれてから死ぬまで自分の村から一歩も出ることのないような生き方をする者が殆どのこの田舎で、太郎はどこか違う風を纏っていたように思う。


 気がつけばお里は、年に数度太郎がやってくるのを待ち遠しく思うようになっていた。村を回ることで仕入れた土産話は田舎にあって大変な娯楽だったし、話をしてと纏わりついても怒らなかったし、他の行商人たちと違ってお金の誤魔化しをしない真面目なところを父も気に入っていたし、歳を経るごとにどんどんかっこ良くなっていくし、吾助より小さいのにがっしりした背中は力強くて頼りがいがあるし、心地の良い声をしているし、実は良く見たら顔も良かったりするし、人柄もとても良いし、周りの人からの信頼も篤いし、お里のことを背負って運んでくれたし、あの時見た光景はとても気持ちの良いものだったし、私の作った握り飯を美味しいって言ってくれたし、それに、それに……。


「……要するに、太郎さんに惚れてるんですよね、わたし」


 それも割と、昔から。


「私、結婚、するのかしら?」


 誰と?


 ……できれば、太郎と。


「私、結婚、できるのかしら」


 太郎と?


 借金があるのに?


 太郎は誠実で人の良い男だが、裕福ではないことはお里も知っている。そんな太郎に、さあお願いしてみよう。


『是非私と一緒になって下さい、漏れなく借金十両が付いてきますけど、貴方以外に考えられません!』


 嫌がらせか。

 太郎の引き攣るような笑顔が目に浮かぶようだ。


 では、お里が知る小田村と宮原村の年頃の男たちの中で、今の問い掛けに躊躇いなく頷いてくれる者がいるとすれば、それは――やっぱり壮吉なのである。


 太郎ではない。


 延々考え続けた挙句、分り切った答えに行きついたお里はまた盛大なため息を吐いた。

 父親のためにした借金だ。後悔はしないつもりだったが、あの時は後のことを考えていなかったしまさかこんな、信吉が良くしてくれたので花街に行くことも無くなるとは思ってもいなかった。


「あーあ、それで欲がでちゃったんですよねぇ。借金、どうにかできないかな……」


 ため息と一緒にぽつり、と愚痴を呟いてみる。

 誰に聞かれることも無かったはずの呟きはしかし、宙に消えて無くなることはなかった。


「ふむ、よくわからんがその若い身空で、其方は借金を抱えているのか」


「へ!?」


 ぴょんと驚き飛び跳ねて、お里は声がした方を振り返った。

 そこに、藪を掻き分けて出てくる男がいた。黒い法衣を纏っているが、髪を剃っているいるわけではないから坊主ではなさそう……というか、


「良ければ自分が相談に乗ってやろう。或いはその借金、なんとかしてやることができるかもしれない」


「え、えーっと、そうですね……あはは、でも、その。見ず知らずの人にそんな、申し訳ないと言いますかですね」


「気になさるな。これでも俺は金がある」


 そんな風にはとても見えません! と心の中で叫ぶ。


 坊主ではない、という話ではない。怪しい。正直、物凄く怪しい。


 だって、なんか、こう……目が。お里を凝視しているというか、そう。


 狙っている。


 ぎゅう、と心臓が縮みあがった。


「えーっと、その……は、母から知らない人とお喋りしちゃいけませんって言われてましてっ」


 咄嗟にお里は、踵を返して駆け出した。


「そう遠慮するでないッ」


「いやぁッ!」


 背負っていた籠を投げつけ藪を掻き分けて走る。

 だが、然程進まないうちに腕を掴まれ、力任せに引っ張り倒される。


「ひっ、いやっ!」


 強かに尻を打ったが、それどころではない。手当たり次第に地面にあるものを投げつけるが打ち払われて両手を掴まれた。


「いやっ、来ないで!」


 恐怖に引き攣った顔で、お里は男の顔を見た。


 その瞬間、男の目が怪しく光ったような気がした――すると突然、お里の全身から力が抜けた。何故か酷く強烈な眠気が襲ってきて、意識が遠くなる。


「……たろ ……さ」


 そしてお里の意識は途切れてしまった。

 身を地面に横たえたお里を見下ろし、黒衣を来た男はへの字口にため息を呟く。


「……全く、手間のかかる。導師さまであれば一睨みで済むのだが……むう、精進が足りぬな」


 黒衣を着た男は、手早くお里を縛り上げると用意していたズタ袋を被せ、担ぎあげた。最近周辺の山で、不穏な気配がしている。


 黒衣の男は気配を消して、北へと向かって山の中を走り出す。人ひとりを担ぎ上げているというのに力強いその身のこなしや足取りは、どこか獣じみたものだった。人ではありえない程の速さで、男は森の中を駆け抜けていく。





 ――男は時折辺りを伺い用心を重ねて気配を探っていたが、その背を隠れて追う一組の男女がいることに男は気付くことは、できなかった。



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