四 黒衣の者たち
†
半刻程山の中を歩き回り、弥一郎の案内で太郎たち一行は地獄谷の傍までやってきた。やや時間がかかったのは万が一にも見つからないよう遠回りしたためだった。
地獄谷を見下ろすことのできる位置に身を潜め、先を窺う。弥一郎の言うとおり、他と比べて細く立ち枯れかけた木々の向こうに、白い岩で囲まれた谷がる。谷の中と周辺は木は勿論雑草や蔓さえ生えていない。深い山奥にあって、その場所は見るからに異質な空間だった。
生きとし生けるもの全てを拒んでいるかのような。
そんな益体も無いことを頭の片隅に覚えながら、太郎は息を潜めて地獄谷を見回す――程なくして、奥の方から一人の男が現れた。
黒衣。
他の誰かが息を飲む気配がした。ほんとに居た、と呟いたのは幸吉か。
太郎もまた息を飲んだ。が、その理由は恐らく異なる。
太郎には、あの黒衣に男に見覚えがあった。右頬に大きな過り傷。
一年前の島原で、太郎の父平蔵を後ろから刺した男。見間違える筈も無い。
思わず立ち上がりかけたのを、吾助が肩を掴んで抑えつけた。
何をする、と罵声を浴びせようとした時、吾助の手が太郎の口を押えた。
「何考えてンだ馬鹿! 見つかりたいのか!」
必死の形相で睨みつけられ小声で怒鳴られ、ようやく今の状況を思い出す。一瞬で頭に昇っていた血がサァッと引いた。吾助が止めてくれなかったら、とんでもないことをしでかしていたかも知れない。
すまない、と目だけで合図すると無言で頷かれた。
「……どうした太郎」
壮吉に問われ、決まり悪くも太郎は答えた。
「あの男、島原で見た。間違いない……親父の仇の一人だ」
「……!」
太郎の父平蔵が島原への出兵の折、戦死したということだけは吾助と壮吉も聞き及んではいた。が、それ以上のことは太郎も信吉も話してはいなかった。
「仇の一人、ということは他にいるということか」
「ざっと、十人ちょっといたはずだ。森宗意軒とかいう老人に従っていて、島原から逃げた。その直前に親父と争って……」
太郎の簡潔な説明に、壮吉が頷く。
「島原から逃げて、この山に潜んだか。……今でもその十何人かが固まっていると見ておくべきだろう。森、と言ったか? その老人が確認できれば良いんだが」
壮吉の中で、事態はとっくに彼の手に負い切れないものになったと判断していた。彼は切支丹のことを詳しくは知らない。南蛮から伝わった邪宗で、島原に集った切支丹たちが幕府に対して一揆を行い、鎮圧されたというくらいか。
……邪宗集団の生き残りが? 人を攫う? それも若い女ばかりを?
嫌な予感が膨らんで仕方ない。
「……あの地獄谷の奥の方には、洞窟がある。俺は入ったことが無いが、師匠の師匠が言うには恐ろしく深いそうだ。そこだったら或いは、十人くらいが雨風凌ぐ程度の生活はできるだろう」
弥一郎の言葉に、一行が谷の方を見た。この位置からでは、その洞窟とやらは確認できない。その洞窟が見える位置に移動するべきか。太郎がそう提案しようと思った時、
男と――谷にいる男と、目が合った。
この距離であるというのに、太郎たちは藪と岩の陰から窺っているというのに、確かに目が合って、
男はにまぁ、と顔を歪めた。獲物を見つけた獣の笑み。直感的に悟る。
「マズい、一旦出直そ……――ッ!」
太郎が背後の壮吉にそう言おうと振り返った時。壮吉の更に向こうに、黒衣を纏った男が見えた。奴等の仲間。刀を抜いて、こちらに忍び寄っている。
「後ろッ壮吉」
全員がバッと振り返る。
黒衣の男は、既に間近に迫っていた。
振り上げた刀が、閃く。
「幸助――ッ!」
「おっ……わぁああ」
飛び込んだ吾助が幸助を突き飛ばした。間一髪で幸助は凶刃から逃れることができた。ごろごろと斜面を転がって行く。
血飛沫。
幸助の代わりと吾助の左腕が、斬り飛ばされていた。
「いっ……ぎゃあああああああッ」
吾助の絶叫。
再び閃く刃に、今度は太郎が反応できた。すかさず抜き放った刀で男の一撃を弾き返す。そこに、壮吉が拳ほどもある石を投げつけた。顔に命中、男はたたらを踏んで後ろに下がり、呻き声を挙げた。
その右腕に矢が突き立った。弥一郎の放った弓矢だった。普段から命のやり取りをしている猟師である。突然の混乱にあっても狙いすました一矢、男は刀を取り落とす。
「そこ――」
走りこんだ太郎が、刀を振り被り、黒衣の男の頸を切り裂いた。赤い血が迸る。手に残る、人を斬る感覚。一年ぶりのそれに内心で身震いする。
「か、ひゅ」
黒衣の男はそんな呻き声を残して、倒れた。
壮吉は目の前で起こった惨劇、その中で咄嗟に動いて石を投げつけたことに呆然としていた。これが戦い、殺し合い。幼い頃、自分はこんな恐ろしいものに憧れていたのか。
しかし、放心している場合ではない。痛みに呻く吾助の声が意識を引き戻す。
「吾助、吾助! しっかりしろ!」
壮吉が吾助の傍に駆け寄る。吾助は顔を真っ青にしながらも腰帯を腕に巻き付け、止血しようとしていた。
「立てるか、吾助。逃げるぞ。幸助は」
吾助の止血を手伝いながら、辺りを見回す。斜面の向こうから幸助がふらふらとやってきた。転がった時にぶつけたのか、脇を抑えている。服に血が滲んで――いや。
そこで、幸助が口から大量の血を吐いた。
糸の切れた人形のように、その場に崩れて落ちる。倒れた幸助の背中には、深々と刀が突き刺さっていた。
「幸助!」
叫んで、太郎が幸助に走り寄ろうとした時、
「待て! まだいるぞ!」
弥一郎に服の裾を掴まれた。その言葉に見れば、倒れた幸助のその向こうに、また別の黒衣を纏った男が、三人。
「それにあれは……もう助からん」
咄嗟に太郎は弥一郎の言葉を否定しようとしたが、できなかった。幸助が最早手遅れなのは素人目にも瞭然としていたからだ。
「こっちにも……」
壮吉が呟く。幸助の側から近づく三人とはまた別に、更に四人の黒衣の男たちが近づいてきていた。当然、男たちの手には刀や槍が握られている。
太郎と弥一郎が壮吉と吾助を庇いながらも後退するが、すぐ背後には崖。
崖の下は命を毒の風に満ちた地獄谷。
刀を構えるも、絶対絶命の状況に置かれていた。
「太郎」
小さく、弱々しく囁く呼び声。失血で顔を真っ青にした吾助が太郎を真っ直ぐ見ていた。残った右腕で村から持ってきた刀を抜こうと、鯉口を弄っている。
「……俺が突っ込むから、そこから逃げろ」
「吾助、それは」
「ヒョロヒョロは黙ってろ。ンな言ってる段じゃねぇんだよ」
壮吉の言葉に、吾助が脂汗を垂らしながら睨み付けた。普段だったら絶対にしない言葉遣いと視線に込められた意思に、壮吉は黙り込む。
この状況下にあって、吾助は囮になると言っているのだ。
切支丹一揆の生き残りで、誘拐集団と思われる者たちに囲まれている。奴らは殺しをなんとも思っておらず、事実幸助は刺されて冷たくなった。
この状況を突破し生き延びるには、誰かが足止めになるしかないだろう――そして、その役目にうってつけなのが、
「俺が一番だろうがよ。迷ってる暇なんか無ぇぜ」
「……おう」
覚悟を決めるしかない。壮吉と弥一郎も身構え、いざ飛びかかろうとした瞬間。
にやにやと薄気味悪い笑みを浮かべた男たち。その背後から、声がした。
「ふむ、タダイが殺されたか。もう間も無くで我が大願成就であったのに、嗅ぎつけられるとは。ちと派手に動き回り過ぎたかの」
男たちの間から出てきたのは、小柄な老人である。
手にする杖の頭に、空から降りて来た鴉が止まり、ギャアと鳴いた。
周囲に立つ黒衣の男たちの態度から、老人が奴らの首魁であることは容易に知れた。が、壮吉や弥一郎は身動きが取れなかった。目が、老人に吸い付くように離れない。老人の纏う空気が、余りにも異質であることを感じ取ったからだ。
老人は太郎が頸を裂き倒れ伏した男を一瞥する。
「地獄で待っていろ、タダイ。我らが大願成就の暁には地獄の蓋が開き、貴様も現世に舞い戻ることができるであろう。それまで暫しの別れよ」
と、何やらタダイと呼んだ死んだ男に向かって何か呪文を唱えた。
手にした杖の先に、小さな火が点る。老人がその杖の先をタダイの身体に押し付けた。瞬間、
「――なっ」
業火。
爆発するかの如き勢いで炎が膨れ上がり、タダイの遺体を包み込んだ。真っ赤な炎に抱かれ、一同の眼前で見る見るうちに焼かれ骨となり、やがてその骨も炎の中で脆く崩れ去っていく。太郎たちが押し寄せる熱波から身を庇ううちに炎は勢いを急速に弱め、そして消えた。タダイと呼ばれた男の亡骸は、骨すら残らず灰になり、すぐに風に吹かれて散っていく。
壮吉は呆然として言葉も出ない。一体今のは何だ。何が起こった。
人ひとりの肉体を、灰も残さず見る見るうちに燃やし尽くした。目の前で起きた出来事を理解できない。
「……森、宗意軒」
「ほう! 小僧、儂の名をどこで知った?」
太郎の呟きに、老人が首を巡らした。
「答えよ、小僧」
宗意軒の瞳に射すくめられて、太郎は心臓を鷲掴みされた思いだった。
「し、島原で――」
「ふん。島原……島原か。影武者を残したというのに、上手くは行かぬものよな。しかしその名を知っている者は最早少ない。この場のみならず我が名まで知られているとなると――」
にまり、と笑み。
しかし太郎を見つめる瞳はどこまでも冷たく、同時に深く燃え盛る憎悪を湛えている。
「絶対に殺さねばならぬなぁ」
背筋が凍りつく、という比喩を、一同はこの時実際に体験した。心臓がすぼまり、血が凍りつき、体温が一気に失われるような感覚。
太郎はこの時直感した。森宗意軒というこの老人、幕府に邪宗の徒と烙印を押された切支丹の中にあっても異質で尚異端であると知った。
あの時の切支丹たちは最早後が無く絶望の中で自棄になってはいたが、どこか透明な、真摯な何かを抱いていた。
が、この老人にはそれが無い。
もっと汚れて濁った何かを、決して大きいとは言えないその身体から発しているのだ。太郎が見て来た、島原の切支丹とは一線を画す異質さを帯びている。
その異質の存在に向かって、弥一郎が動いた。早業というしかない見事な動きで、一瞬で弓に矢を番え、そして放った。
十歩ほどの距離。老人の迫力に飲まれていたが、狙い違うことなく放たれた矢は一直線に老人の顔に飛び込んだ。
そして、その左の瞳を貫いた――
「ぐあっ」
「な、導師!」
周囲の視線が一瞬逸れた、その瞬間。
「うるぅぅぅうううああああああああッ!」
獣の如き咆哮が轟く。手負いの獣、吾助の叫びだ。
飛び出した吾助は目の前にいた男に斬りかかる。血飛沫。咄嗟に飛びのいたか、男の胸元に大きく刀傷が開く――が、致命傷ではない。
「ひぎっああああッ」
別の男もまた悲鳴を上げた。弥一郎の弓である。
「壮吉、走れ――ッ」
太郎は壮吉の腕を取ると、強引に立たせて引っ張った。黒衣の男たちの中へと突っ込んで行く吾助の背を追う。
「貴様ら逃がすかっ」
横から斬りかかられた。閃く刃を弾き、がら空きの腹に蹴りを返した。
「うおおおおっ」
叫び、片腕で刀を振り回す吾助の横に、隙が出来た。突破できる。
「行け、太郎!」
弥一郎を先頭に、壮吉と太郎がその隙間へと突っ込んだ。
「このっ……死にぞこないがっ」
黒衣の男の一人が、手にした槍を吾助の身体に突き刺した。だが、吾助の身体はビクリともしない。
「たまにゃあ……このでけぇ図体も役に立つなぁッ」
力任せに、槍の男の肩に刀を叩き込む。
「吾助ッ」
「さっさと行け、ヒョロ助――」
肩越しに振り返る吾助、その目に浮かぶ小さな笑みを壮吉は確かに見た。千万の思いが壮吉の胸に去来するが、それに飲まれている場合ではない。
男たちの囲いを抜けた、と思った瞬間。
先頭を行く弥一郎の首が、突如裂けた。
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