五 灰

 

 先頭を行く弥一郎の首が、突如裂けた。


「……っ?」


 声すら出せず、弥一郎は混乱の極みにあった。急速に体から力が抜ける。視界が横になって、自分が倒れたのだと気付き立ち上がろうとするのだが、腕と足が地面をのたうつだけで力が入らない。身体が濡れている気がするが、なんだろう。赤い雨など何時降ったのだ? いや、赤? 視界が暗くなる。意識が遠く、どうして、寒い そう、探して――美代。


 突然首から血を吹いて倒れた弥一郎の身体に躓いて、壮吉は盛大に地面に転がった。天地がひっくり返った視界で、しかし壮吉は確かに見た。

 

 何もない空中から、匕首を握った腕が生えている。


 血の滴るその刃が、弥一郎の首を裂いたのだと直感で判った――が、次の瞬間腕から肩が、身体が、頭が現れる。まるで幕の裏から伸ばした手の主が、幕を潜って出て来たかの様だ。


「……貴様ら、一体どこに行こうというのだ? わざわざ我らを探しに、こんな山奥くんだりまで来たのだろう? だったらそんなに急いで帰ることはない。持て成す故、ゆるりとしてゆくが良い」


「持て成す……ちゃ、茶でも出してくれるとでも」


 尻餅をついたまま、壮吉が後ろに下がる。


「そうだな。だが生憎客人を持て成すための茶器が無い。だからその腹掻っ捌いて、胃の腑に直接注いでやろう!」


 ぶん、と突き出された匕首が宙を刺す。壮吉は必死に横に避けたが、背中を向けて地面に倒れこんでしまった。


 次は避けられない。壮吉は死を覚悟した。


「死ねッ」


「させるかっ!」


 しかし、壮吉へ止めを刺す一撃を阻む者がいた。一度は囲いを抜けた太郎である。壮吉に凶刃が届くまさにその瞬間、飛び込んで振るう刀が匕首を弾いた。


「ふん、貴様。順番に殺してやるから大人しく待っていろ。そうすれば少しは生きている時間が長くなるぞ」


 匕首の男は、太郎を見てそう言った――が、太郎はそれどころではなかった。匕首を持ち忌々しそうに睨み付けるこの男、頬に過り傷がある。先ほど谷の底にいて目のあった男であると気付いたからである。


 それはつまり、父平蔵を後ろから刺した張本人でもある。


 太郎は、男に向かって刀を突き付けた。


「お前……二度も三度も、俺の目の前で身内の背中を刺させるもんかよ」


「ふん? 貴様、俺に誰か刺されたみたいな言い草だな。いや……」


 少し考えるようにして、


「ああ! 島原で最後に会った、あの親子の倅の方か! 俺が後ろから刺してやったあの親父の! 俺にこの傷を付けた!」


 面白い、と男は嗤った。


「親子揃って俺に殺されるために、わざわざここまで来たか? ならばその通りにしてくれよう!」


 そう言って、男は太郎に匕首を突き付けた。


「――その通り、じゃねぇんだよぁぁああああああッ」


 その横合いから、男にぶつかってくる影があった。満身創痍の吾助である。

 不意打ちに傷の男は反応できない。大柄な吾助に担がれるような形で持ち上げられた。


「なっ、貴様、離せこの死にぞこない!」


「嫌なこった」


 傷の男が、手にした匕首を吾助の背中に突き立てる。溢れる赤い血が、穴だらけの服を赤く染める。


 太郎と吾助の視線が交わる。躊躇いは一瞬だった。二人は互いに踵を返し、動き出す。


「くそ、離せ!」


 吾助は死にかけているとは思えない膂力で、抱える男を離さない。そのまま駆け出し――


「まさか」


「そのまさかだ。てめぇ、島原の残党なんだろ? 自殺しちゃ駄目ってんなら、俺が手伝ったらぁ」


 躊躇うことなく、吾助は崖に向かってその身を投じた。ほんの一瞬だけ、逆さになった視界に脇目も振らず走る太郎と壮吉の背中が見える。吾助は満足に思って、目を閉じた。


「う、おおおおおおおおおッ」


 耳元で抱える男が叫ぶ。……うるせぇな、死ぬ時くらい黙ってろよ。


 吾助は孤児だった。庄屋の旦那に拾われて、丁稚として働いていた。恩ある旦那のその息子はひ弱なくせに尊大な態度だったが、頭が良くて沢山の本を読み、いろんな話を教て語って聞かせてくれた。ろくに字も読めない吾助にとって口うるさい兄貴のような、守ってやらなきゃならない弟のような存在だ。


 だからまぁ、その弟のような壮吉を守ることができるんだったら、こういうのも悪くはないか。


 ああ、でも結婚くらいはしてみたかったか――

 強い衝撃を全身に受けて、吾助の意識は闇へと消えた。




 遠ざかる悲鳴と、何かが地面に叩きつけられる湿った音。それを背中に聞きながら、しかし太郎は振り向かない。


「壮吉、走るぞ」


「お、おう!」


 今更否やも何もない。吾助が切り開いてくれた道である。

 これが最後の好機だった。北里の村へ向かって――



「……どこ え いく」



 軋むような、背後からかけられた声に、駆け出そうとした太郎は動きを止めた。壮吉も同じだった。事態は理解している。黒衣の男たちは、まだ何人も残っている。今駆け出さねば取り囲まれてお終いだ。吾助が懸けた命も無駄になる。


 だが、動きだせなかった。


 背後から掛けられた声に、それだけの力があった。


 殺気? 違う。

 敵意? 違う。


 太郎の振り返った先に、ソレはいた。


 先ほど、弥一郎の放った矢によって頭を貫かれたはずの――


「森、宗意軒……」

 

 目に、矢を突き立てたままの老人が立って、いた。

 笑みすら浮かべて。


「……うっ? うげっ、えっ、えぁっ」


「壮吉!? どうした、おいっ」


 膝をついて、壮吉が喉を押え、吐いた。


 どうした、などと問いながらも太郎は気付いていた。宗意軒の放つ、禍々しいまでの空気だ。駆け出す足を止めたのと同じものに中てられて、蝕まれた。太郎だって文字通り、その空気を肌で感じている。


「はぁはぁはぁ」


 宗意軒は、笑った。


「ぬ、いかん な。あた まをうが たれたせ いか こえが」


 目に刺さったままの矢を掴み、引き抜く。


 赤――いや、黒い血が迸る。

 目玉の刺さったままの矢を掴んで顔面を黒く血で染めて、宗意軒は笑った。


「くはは、これが儂の目玉か。これだけ長く生きてきて、自分の目玉の裏側とは初めて見たぞ。貴重な経験という奴だ、なぁ」


 老人がそう語ると、周りにいた黒衣の男たちも笑う。浮かべた彼らの笑みに誤魔化しや嫌悪感など浮かんでいない。


「お前、それ……痛くないのか……?」


 頭の片隅で我ながらなにを言っているのかとちらりと思ったが、口にしたのはそんな質問だった。


 宗意軒が、太郎の問いにきょとんとした顔を見せた。


 そして、手にしていた串刺しの目玉に齧り付く。口の中でぶちゅっと音がしたのが太郎の耳にも届いた。ぐちゃぐちゃとわざとらしく音を立てて咀嚼し、た老人は自分の目玉を嚥下し、笑う。


「痛いかどうかは、自分の身をもって知るのも一興だとは思わぬか」


「お、思わない」


「そう言うな、若い者が遠慮などしなくとも良いのだぞ」


 宗意軒がそう言った瞬間だった。

 突然、宗意軒の顔が燃えた。


「なっ、は!?」


 溢れ、流れる黒い血が発火したのだ。


 炎というにも不思議なほど赤い炎。それは色を変えて黒い輝きを湛える、濁った色の炎となった。

 黒炎が宗意軒の顔半分を焼く。血が垂れて汚れた着物も燃え上がった。


 半身を黒い炎に取り込まれた宗意軒は、それでもにやにやと笑みを崩さない。炎の勢いはどんどん増して、宗意軒はより笑みを深くし、ついには耐えきれないと哄笑した。顔面を、左半身を炎に包みこんだまま熱がるわけでもなく、ただ高々と笑っていた。


「……化け物」


 壮吉の呟き声が聞こえた。

 太郎も余りの事に、言葉を失った。

 炎に塗れていた宗意軒の、顔。身体。


 焼け爛れている――そんな当然のことであれば、どれだけわかりやすかったことか。


 所々を、つるりとした、黒い鱗に覆われていた。

 まるで、蛇のような。

 いや、蛇そのものの――失ったはずの左目が蛇のそれとなって再生している。

 炎を纏いながら宗意軒は、鱗に覆われ変質した左半身を見て、殊更嬉しそうに、笑った。


 顔半分が蛇になった老人の笑顔。


「……俺は一体、夢を見ているのか?」


 呆然と呟く壮吉に、太郎は心から同感したかった。


 夢なら目が覚めれば全てお終いだ。怖い夢見て寝しょんべん垂れたというなら恥をかいただけで済むではないか。なんだったらいい歳こいて、と笑い話にでもすればいい。


 それで済むなら、今ならどんな悪夢だって歓迎したい気分だった。


「さて……」


 炎を纏った腕をひとしきり眺めて、老人は太郎たちを見た。

 ごう、と音を立てて火炎が渦巻き、巨大化する。


「…………ッ!」


 熱気が太郎の頬を撫でた。どう考えても尋常ではない炎の熱を浴びたというのに、太郎が感じたのはむしろ凍える程の冷たさである。熱いのに冷たい、身体の表面を炙り骨まで凍み入るような熱。


「もう少しなのだ。次の満月で、全てが終わる。いや、地獄が始まると言うべきかの? 邪魔されては困るのじゃ。一足早いが、我が盟約の悪魔にその魂、捧げ奉るとしよう」


 巨大な――大木すら飲み込みかねない程巨大な火炎の玉。魂すら焼き尽くす地獄の業火。


 それが、太郎と弥一郎に向かって放たれた。

 無駄と思いながらも、咄嗟に太郎は傍らの壮吉に覆いかぶさった。


「……く、うぁあああああああああああッ」


 そして、着弾。

 業火が巨大な火柱となり、二人の身体を焼き尽くす――


「く、は、はは、ひ、ははは、はははははは、ははははははははは、これが、あの方の、あのお方の力っ! これがあれば、ひゃはは、幕府など容易い……ひひ、日ノ本など……丸ごと、さ、サタン様に……ひぃっひっひっひっ」


 身体の半分を蛇に換えた老人と、黒衣の男たちが狂ったような笑い声をあげる。

 僅かな間に炎は消え去り、下生えの草は勿論太郎たちの骨すら残っていない。


 半ばから折れ、煤けた刀の刃だけが墓標の如く突き立っていたが、それも形を失うように崩れて、真っ白な灰と共にそれも風に吹き散らされてしまった。




  †



 そこに草木を掻き分けて、一人の男がやってきた。


 禿頭。黒衣。命令を受けて暫く隠れ家の洞穴を留守にしていた男である。何やら争いの気配がしていたので隠れて様子を窺っていたのだ。


「何やら争っていた様だが……終ったのか」


 男は別の黒衣の者に話しかけた。


「ああ、バルトロメイか。何、我らの事を探っていた者どもを狩り立てただけだ。それよりも、見ろ」

 

 促されて、バルトロメイと呼ばれた男は自身を指導する老人を見る。その変わり果てた姿を見て、喜色に顔を染めた。


「おお、導師様――なんと、素晴らしいお姿に」


 他の黒衣の男たち同様、宗意軒の今の姿を見てもバルトロメイに嫌悪の感情など微塵も無い。むしろその変化を歓迎している。


「む、バルトロメイか。戻ったのだな。……して、首尾はどうか」


「はっ」

 

 バルトロメイは膝をついて脇に抱えていた荷物を地面に置く。他の黒衣の者たちが麻袋から中身を露にすると、それは気を失った年頃の少女であった。若く、美しい。それもそのはず、男たちは知らなかったが、彼女は小国郷で最も美しいと評判の少女である。


「ふむ――美しいな。この者であれば、サタン様も喜んで頂けるであろう」


 宗意軒は、笑った。 


「次の満月だ」


「おお、それでは、明後日の晩に」


「うむ。儀式を執り行い、日ノ本を獄炎の底に沈めてくれる――ついに、悲願成就の時である」


「お、おお――」


 黒衣の男たちが、喜びに打ち震える。静かな熱狂が満ちていた。


「さぁ行くぞ我が弟子たち、地獄の十二使徒たちよ。儀式の準備を進めるのだ」


「は!」


 最早人ならざる姿となった宗意軒の言葉に、黒衣の男たちは動き出した。


 バルトロメイは気絶した少女を――お里を担ぎ上げ、地獄谷の隠れ家に拵えた牢へと連れて行った。

 





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