肆 森宗意軒

一 会話


 

  †



 お里は先ず、そこがどこであったのか判らなかった。

 元々寝起きは然程良くないのだが、今日は殊更酷いようだ。瞳を開いてもそこに映っている光景が理解できない。


 身体を横たえたまま、ぼんやりと上の方を見る――数分程そうしていただろうか、次第に靄掛かっていた思考が、ようやく正常に働き始める。


「……えっと」


 薄暗い、と言うのがまず得た思考だった。

 たっぷり寝たような気がするのに、未だ夜が明けていないのだろうか。視界の端の方に、ゆらゆらと揺れる灯り――松明の炎。

 松明の掛かった壁は、岩壁だった。不自然に白い色をしている

 その松明では周囲の闇を全ては払い切れない。お里のいる辺りまで、光が十分に届いていないので薄暗いのだ、と思い当たる。


 ……松明?

 灯台や蝋燭ではなくて?

 岩壁って……宮原村の庄屋屋敷の一体どこに、自然岩剥き出しの壁があっただろうか。


 そして松明の手前には、一面を塞いでいる格子――


 違和感を伴った思考は急速に明確なものになってくる。

 ここは一体、私は確か――


 思い至って、飛び起きた。


 自分は、そうだ。

 朝から山菜を採りに行ったのだ。そこで壮吉に一緒になって欲しいと言われたことをぐるぐると考えていたら、そう変な男が現れて、


「……捕まって、攫われた……の?」


 さぁ、と音を立てて血の気が引いていく。

 であれば、ここはあの黒衣の男の住処ということだろう。男が何者であるかは分からない。が、力尽くでお里を攫った上に牢に閉じ込めるとなれば、お世辞にも性質の宜しいとは言えない。

 

 逃げ出さねばならない。

 ここにいては何をされるかわかったものではないし、お里が攫われたのは宮原村から然程離れていない場所である。不逞の輩が村の周辺に現れることを信吉、引いてはお役人様に伝えねばならない。


 できることならばあの男に見つかることなく。


「……起きたか。よく眠っていたな」


「……ッ!」


 だがお里の決意とは裏腹に、身を起こしたお里に言葉を投げ掛ける者がいた。松明のある壁、その角を曲がって姿を現した。


 小柄な、老人であると思われる。確信を持って言えないのは、その顔に布を垂らしているからだ。灯りに照らされる髪が白いこと、声が枯れている感じ、袖から伸びる筋張った右腕――左腕は服の内側に入れているので、お里からは見えない――それらから判断したまでだ。


「あ、あなたは……」


 私を助けに来てくれたのかしら、などと都合の良い事は思わない。そうであればとても助かるが――この洞窟があの男の住処であれば、老人は男と繋がりがあると考えるのがよっぽど自然だ。


「名前を尋ねるなら先ず自分から名乗るべきじゃろう。礼を失していると思わぬのか」


「礼を言うのであれば、人を招くのは無理矢理にであってはならないと思います。それに人を寝かすのに……地面の上とか。布団くらい用意なさってから礼を語って下さるべきでしょう」


 言い返され老人はらしき男は虚を突かれた様だった。

 小さく笑うと咳払いし、「ならば儂から名乗ろうか」と言った。


「森宗意軒である。女、貴様の名は何という」


「……お里」


 睨み付けるお里を、宗意軒と名乗る老人はフンと鼻で笑った。転がっている岩に腰かけ、お里のことを眺める。這うような視線が身体に絡みつくようで、嫌悪感丸出しにするお里を宗意軒は面白そうに見た。


「其方、泣き喚かぬのだな」


「……?」


 言っている意味が理解できない。


「突然攫われ、このような場所で目を覚ませば大抵の娘は先ず泣く。喚く。父か母かの名前を叫ぶものだと思っていたが」


「……泣いて喚いて父と母の名前を叫べばここから逃がしてくれるんだったら、そうしますけど?」


「勿論逃がすわけがない」


「吝嗇」


「はっはっは。吝嗇と来たか。これでも弟子たちには寛大で心が広いと評判なのだがな」


 弟子たち。

 お里を攫ったあの黒衣の男はこの老人の弟子なのだろうか。それが正しいかはともかく、老人が弟子と呼ぶ存在が、他にも居る。


 にやにやと笑みの気配を浮かべて、老人が布越しにお里を眺める。ややあって、面白そうに口を開いた。


「お主、お里と言ったか。面白いな、貴様」


「……? 私のどこが面白いのかわかりませんが、お褒め頂き有り難うございます。尤も人攫いに面白がられても私は全く面白くはないですし、有り難くもありません。という訳で私を逃がしてくださるともっと有り難いです。お勧めですよ」


「その態度よ。泣き喚くどころか儂の事を探ろうとしておるな。他と違って肝が太い女子よ」


 他と違って。

 つまり、自分と同じ境遇の人がいるということ。自分の他に誘拐にあった人がいる――話の流れからすれば、同じ年頃の女の子、だろうか。


「お主の様にできる者は、元服した男であっても中々できるものではないぞ。泣く喚くと来て、普通であれば次に暴れるものだが、それすら無い」


「……おお」


 思わずぽん、と手を打ってしまった。暴れる、と言うのは頭に無かった。

 ただ、それをしたところで無駄であることも直ぐに思い至った。


 今まさに白刃がこの身に襲い掛かろうとしている、と言うのならば未だしも、非力であることを良く知っている自分がちょっと暴れて一体何になる。

 

 それは、お里が半年ほどであるが信吉の家に身を寄せて知ったことだった。実家では殆どの事を自分で出来なければならないし、田植えのような重労働は村人総出でやるから、役割分担という言葉を実感したことは殆どない。


 身体の弱い壮吉はあれこれ家人たちに指示を出していた。本人は殆ど動き回らないのに、吾助やお里を通し、あるいは更に村人たちを使い倒している。それを不満に思っている人は殆どいなかった。


 ある時そのことを、村人に尋ねたことがあった。頭越しに命令されて不満は抱かないのかと。返ってきた答えは苦笑交じりの否定である。


「若様の言う通りにすると早いし、楽なんだ。田んぼ仕事にしても、新しい畑を拓くのも。最初は確かに不満だった。自分では稲刈りなんてできないくせに、って。でも、そのことに気が付いてからは文句なんてないよ。あの人の役割は指示を出す、俺の役割は体を張る。逆はできないから、それで良いんだ」


 この時お里は、適材適所と言う言葉を真の意味で理解した。

 以来、何をするにしても自らの役割というものを把握しようと努めている。


 そして今、お里が果たさねばならない役割は二つ。ここから無事に逃げ出すこと、信吉に人攫いの事を、できるだけ詳しく伝えること。


 泣いて喚いて暴れて、二つの役割が叶うのであればそうする。叶わないからそうしない――それだけのことだ。


 暴れてなんとかするというのは、もっと力がある人に任せればいい。


 勿論、本当は泣いて喚いて暴れて隠れて縮こまっていたいんですけどね! 


 と、本音を叫んだところでどうしようもない。

 けど暴れればこの牢屋、どうにかできないかな……いやいや、流石にそれはむずかしそうだ。加えて言えば、そんなことをすれば何か、致命的な事になってしまう気もする。暴れた果てに再び眠らされては、逃げ出す僅かな好機を見逃すことになりかねない。


「……置かれた状況を把握し、立ち回ろうとしておるな。肝が太くて地頭も悪くないとなれば、益々貴重だ。……女子であってもお主のような者がもう十人もいてくれれば、あの地獄も少しはましなものであったかも知れぬ」


 益々興味深そうに宗意軒が呟いた。

 つい、お里はその言葉に反応してしまった。


「地獄って、先の島原の事ですか」


「ほう、知っておるのか」


「私が行った訳では無くて、知り合いが徴兵されて……詳しく話したがらなくて。けど青い顔で、あれはこの世の地獄だった、って……」


 その知り合いとは吾助である。あの豪快で怖いもの知らずのような性格の男、島原に征ったとなればいくらでも自慢話をしそうなものだが、それが無いのだ。お里は何気なく他意も無く尋ねたのだが、返ってきた答えが「この世の地獄だった」だ。


 さらに他の者たちの断片的な話から、お里では想像もつかない程の惨劇の場であったらしい、ということは分かった。それ以上立ち入って聞くべきではないということも。


「ふん、幕府方から見ても地獄であったか……然もありなん」


 呟く言葉に、お里は不思議なものを見たような気がした。今までお里を攫った極悪人かと思ったが、僅かに人間らしい感情が透けて見えたような気がしたからである。


「そんなに、酷かったのですか。島原は」


「ん? 酷いものなんてものではなかったぞ。三万数千人の一揆軍に対して幕府は十二万を超える。いくら籠城戦であっても堪えることなどできはせぬ」


「えっと……え?」


 ただの農村の娘であるお里にとって、人というのは精々百とか二百人で大勢というのであって、万という単位を使って数えるものではない。目を丸くするお里に、宗意軒は面白そうに語った。


「ちょっと小高い丘から平地を眺めることを想像してみろ。そこから見渡す限り人、人、人の海……そんな感じに見える」


 人の海、と言われてもお里は生まれてこの方海を見たことが無いので、よくわからなかった。


「海が判らぬか。ならば山三つ分、木々の代わりに人が立っていると思えばよい」


「それは……」


 漸くお里にも、十二万というのが途方もない人数であることを実感できた。

 勿論三万に届かないとはいえ、一揆軍も恐ろしい大軍であることは間違いない。だが、幕府は彼らを確実に打倒すため、四倍以上の数でもって向かい合ったのである。


「その籠城……お城に引き籠って戦うってことですよね。守る方が有利って聞いたことがありますけど」


「その通りじゃな。一般的に、籠城戦では攻め手は守り手の三倍が必要と言われておる。ただし、守り手に絶対に必要なものが三つある」


 宗意軒は指折り数えながら語った。


「先ず大量の食糧と水」


 軍と一言で片付けると忘れてしまいそうになるが、それは戦闘を目的とする人間の集団のことを言う。つまり、食べないと飢える。三万人なら三万人分の、十万人なら十万人分の食糧が必要なのである。

 それも、毎日。

 籠城すればその確保が困難になる。予め大量の備蓄をしておくか、それらを入手する敵に見つかっていない隠し経路を用意せねばならない。


「次に、援軍」


 籠城の最大の目的は時間稼ぎである。

 直接ぶつかっても勝てないから、守りに入って時期を待ち、事態が好転するまでただひたすら耐え忍ぶのである。

 その好転の機とは、援軍だ。

 攻め手の後背を突くことで、膠着した状態を動かす。内外で呼応することができれば言うこと無しだ。一気に状況が有利にひっくり返ることもありうる。或いは敵の敵は味方ということで、攻め手の手薄になった本拠地を別の勢力が攻め入ったりすることもありえる。


「最後に、士気」


 籠城となれば、常に敵に囲まれている状態になる。

 あっちを見ても敵、こっちを見ても敵となれば心中穏やかでいるのは難しい。戦場の緊張感、生命を脅かされる恐怖、本当に勝つことのできるかという不安。籠城している間、これらの感情に常に曝されなければならない。その上で日々の防御戦をやり過ごさなければならないのである。


「島原にあっては、その全てが欠けておった。原城に籠った後、儂は直ぐに気が付いた。このままでは勝てぬ。だがもう、どうしようも無かった」


 そもそもの話、一揆軍とはつまり、数が多いだけの農民の集まりである。

 数の暴力は侮れない。が、頼みとなるのはそれだけである。


「……そもそも、どうして一揆とか、起こったんですか?」


 お里の放った素朴な疑問に、老人は自嘲気味に鼻でふっと笑うと、一言だけ答えた。


「国をな、造りたかったのよ。切支丹が切支丹として、笑って生きていける――そんな国を。いや、国でなくとも良かったのだが……」


 特別な事でも何でもない。

 ただ、それだけのことであるのに、彼らはそんな、当たり前の事すらできなかったのだ。

 だから暴発した。


 あの島原の大乱を簡単に説明すれば、たったそれだけで済む。

 とはいえ、何もかもが上手くいっていたとして、お題目と掲げていた『神の国』は果たして実現していたのだろうか。恐らく、答えは否だ。


 目を閉じれば、原城を囲む一面の幕府軍の姿を思い出すことができる。

 そして原城にひしめく一揆軍の姿も。

 ……一揆軍三万人と嘯いてみたものの、その実態は農民兵であり、女子供老人すら含んだ数である。


 籠城は守る方が有利であるのは、事実である。  

 非戦闘員含む三万という数の暴力が侮れないのも事実である。


 しかし幕府軍はその四倍の人数を用意した。必要であれば更なる援軍もあったことだろう。そこに、幕府が如何に本気で一揆を相手取ったのかが見て取れる。


 もし――もし仮に、何もかもが上手くいっていたとしたら。


 あの一揆は、島原の切支丹と天草の切支丹がそれぞれに行動を起こし、島原で合流した。島原側の初期の計画では、勢いをもって島原城を攻略し、公的な南蛮貿易の拠点である長崎に移動しこれを占拠。南蛮――つまりポルトガルあるいはオランダと連絡を取り合い、支援を受けてそれをもって幕府に独立を交渉する――と、そんな流れであったはずだ。


 長崎の占拠までは、もしかしたら上手く行ったかもしれない。

 が、そこから先の展望がどうにも良くない。


 ポルトガルは果たして交渉に乗ってくれるのか。

 幕府はそれを見逃してくれるのか。

 長崎の占拠で十二万の幕府軍が五十万に膨れ上がったとしても不思議ではない。幕府にとって、政治的重要度は島原半島の片田舎である原城どころの騒ぎではないのだ。

 

 かつて南蛮――西洋はオランダに渡ったことのある宗意軒は、西洋というものを誰よりも詳しく把握していた。あれから三十年以上経っているが、大きな流れは変わっていないだろう。


 西洋諸国の本質は利権主義である。要するに、金であると宗意軒は思っている。

 千年もの間互いに争う西洋諸国は何時だって自国の国力を伸ばし他国の国力を下げることを考えている。


 だからこその大航海時代。


切支丹カトリックの普及が目的というのは嘘ではないが、全てでもない。そしてイエズス会とその宣教師たちはポルトガルやスペインと言った海洋貿易を行う国々にとっての尖兵でもあるのだ。


 南蛮にとっても、成功するかどうか分からない一揆よりも幕府側を支援していた可能性が高い。よくて両者と取引するか、だ。少なくとも一揆軍を一方的に支援してくれるとは思えない。


 仮に西洋諸国のどこかが一揆を全面的に支援してくれるとして、連絡があちらに届くのに二年弱、兵士を載せた軍船が戻ってくるのに更に二年だ。


 どう考え立って間に合わない。


 もっと言えば、陸地で国境の繋がる西洋は複雑怪奇な国際情勢を有している。戦国時代の日本と同じく何時だってどこかとどこかが戦争をしている。果たして国力を割いてまで東の果ての信徒たちを援助してくれるとは思えなかった。


 結局のところ、どこかで躓いていたことは間違いない。


 ならばいっそ、原城に集った切支丹全員を南蛮に運んでもらうとか?

 ……一部の宣教師たちは切支丹たちを半ば騙し奴隷として国外に連れ去っていた。三万人の一揆軍は三万人の奴隷となって、マニラ、インド、モロッコ辺りで扱き使われることになっていただろう。


 あの戦いは――切支丹の決死の思いを込めた一揆は、詰まるところ何をどうしても、行きつく先はあの地獄か、似た地獄かでしかなかった。あり得る未来の中で最も凄惨であったかもしれないが、選べるとしてももう少しましで、その分悲惨であるかくらいの違いでしかない。


 最初からわかっていたことだ。

 どこまでも救いようのない話だった。

 それでも彼らは、その道を選んだ。選ばざるを得なかったことを、森宗意軒は良く知っている。


 なにせ、当の森宗意軒こそが長年を費やしてそこへと彼らを、それとなく導いたのだから。 


 考えに耽っている宗意軒に、お里は不思議そうに声を掛けた。


「国って、作れるものなのですか? 村ならまだしも……」


「さぁ、どうなのであろうな。全くの新天地に渡ることができれば、あるいは可能であったかも知れぬ。もっと少ない人数ならどこか山奥に潜って、小さな隠れ里を作ることもできたかも知れぬ」


「それをすることはできなかったのですか」


「新天地とはいったいどこにある? 海の向こうか? 三万もの人々をどうやってそこへ運ぶ? 船か? 一艘では足りぬぞ。そこらの川船でも話にならぬ。それに三万もの人がおる隠れ里など全く隠れきれておらぬだろうよ」


「うぐっ……」


 言い返されて、お里は黙り込んだ。


「ま、お主の疑問は尤もよ。儂らは、それをせねばならぬほど追い詰められていたのだ」


 例えば――と、宗意軒はお里に尋ねた。


「お主、田んぼで採れた米の九割を年貢として持っていかれて、生きていけるか?」


「そんな、いくら何でも無理ですよ」


「九割は言い過ぎたかも知れぬな。だが近いくらいのものを天草の人々は持っていかれていたのだ。島原の切支丹も似たようなものだったそうだぞ」


 お里は絶句した。


「でも、なんで、そんな……」


「天草の民の悲哀を、知りたいか? ならば少し、語ってくれようか」


 岩に腰かけた老人は、口を開いた。

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