二 重税

 †



 小西行長。

 豊臣秀吉の家臣であり、秀吉の九州平定ののち支配者のいなくなった南肥後を与えられた大名である。彼は宇土城を拠点として為政に努めたが、その領地に天草の地があった。


 元々天草は、切支丹の多い土地であった。

 というのも海を渡った直ぐそこの肥前島原半島を代々支配していた有馬氏が切支丹大名であり、南蛮貿易を行って儲けていたのだ。

 天草一帯を支配する大名はいなかったが、天草五人衆と呼ばれる各郡の有力者たちもそれに倣い、宣教師を招き地本民たちへの布教を許可する。その見返りとしての南蛮貿易であった。


 秀吉は切支丹禁教令を出すが、天草五人衆はこれに従わなかった。彼ら自身は秀吉に臣従したつもりがないので、彼らにとって命令を聞く必要が無い。

 小西行長自身も切支丹であったが、棄教令ではないので信徒であることを続けた。一方自身は宣教師に協力することはなかった。ただし天草一帯を支配するのに天草五人衆とぶつかり合うことを避け、ある程度の配慮はしていた。


 行長のこの態度を、禁じられ取り締まるべき切支丹を優遇し、地元の豪族たちに阿っていたと判断するべきか。或いは自らについては宗教と政治を切り離して考え、一方で他者がそうではないということを弁えた上で高度な政治判断を行うことができる人物であったと見るべきか。


 状況が変わったのは、関が原の戦いの後からだ。


 豊臣秀吉の死後、徳川家康との関係を深めていたにも関わらず小西行長は豊臣方西軍についた。結果、徳川軍に捕らえられ家康の命により斬首されている。


 南肥後は北肥後の領主であった加藤清正に与えられた。清正自身は関が原に出兵しなかったが、九州各地の西軍に付いた大名の城を攻略して回った功績が認められたのである――その死後、お家騒動が起こり加藤家は改易され、細川家が肥後に入るのであるが、それはさて置き、天草である。


 関ヶ原の後、天草は唐津藩初代藩主である寺沢広高に与えられた。


 父の広政と共に豊臣秀吉に仕えた広高は、自ら率先して範を示す事を旨として部下を率いていた。また機を見るに敏であり、良いと思ったものは取り入れ悪しと思ったものは直ぐに取り換えるところがあった。唐津の領主として様々な殖産に力をいれ領地を栄えさせた名君であると言われている。


 しかし、こと切支丹に対して広高は非常に警戒心を強めていた。

 それには理由がある。


 寺沢広高は、まだ秀吉が存命であった際、僅かな期間であるが切支丹であったことがあるのだ。


 秀吉は天正十五年にバテレン追放令を出している。切支丹の持つ宗教的結束力に対する制限をかけるものであり、切支丹による寺社仏閣の破壊行為に対する罰則であり、ポルトガル宣教師が日本人を実質的な奴隷として国外に連れ出していることに対する牽制でもあった。

 これは一定の効果を上げ、一部の切支丹大名が棄教している。


 しかし一方で南蛮貿易の実利は捨て難く、この追放令の強制力は緩いもので、一部宣教師の滞在や活動は大っぴらにはできないものの黙認されていた。天草五人衆が従わなかった禁教令がこれで、事実この時期天草一帯の切支丹文化は最盛期を迎えている。


 だが、一つの事件が起こった。サン=フェリペ号事件である。


 マニラからメキシコを目指して出港したスペイン籍のガレオン船サン=フェリペ号が台風に巻き込まれた。転覆を免れるために積み荷の多くを投棄しメインマストを切り倒して台風を抜けるが、満身創痍のサン=フェリペ号は殆ど舵も効かず、漂流の果てに土佐に流れ着いたのである。


 乗員たちは一時長曾我部元親に捕らえられた。


 この時官吏が「スペインは世界各国に支配地を設けている。サン=フェリペ号が日本にやってきたのも周辺の測量と侵略の下準備である」と言った言葉に対し、サン=フェリペ号の船長が世界地図を持ち出し、スペインが如何に大国であるか、日本が如何に小さな島国であるかを語り、「このような島国など不要」と言下に斬って捨てた――と言われる。


 この官吏と船長の遣り取りが事実であったかどうかは、森宗意軒には分からない。彼はかつて乗っていた船が難破し、漂流の果てにオランダ船に拾われ、サン=フェリペ号の頃は逆にオランダへと渡っている最中だったのである。


 のち日本に戻ってきた宗意軒が集めた情報によると、秀吉はサン=フェリペ号船長の発言に激怒した――そのことがきっかけとなって、改めて禁教令が発布され、取り締まりが強化された。こちらは先の追放令のように緩やかなものではなく、国内の切支丹を厳しく取り締まるものとなった。


 先だっての禁教令にも関わらず大阪と京都で布教活動していたフランシスコ会の宣教師たちとその信徒ら二十四名が捕らえられることになった。これらは京都市中引き回しの上、長崎で処刑されることになるのだが、その身の回りの世話を任されていた二名もまた切支丹として捕らえられた。この二名は言い逃れすることなく、切支丹の教えに殉じることを選んだのである。


 寺沢広高は秀吉の朝鮮出兵において名護屋城普請や後方支援で功績があり、名護屋城周辺の上松浦郡一帯を与えられた。これが唐津藩の始まりとなるのだが、同時に豊臣家直轄地である長崎奉行にも任じられていた。この時期、広高は切支丹に改宗している。


 元々長崎は、日本で初めて切支丹大名となった肥前の大村忠純の所領だった。ただの寒村であったのを南蛮貿易のために拡大し、日本有数の貿易拠点としたのである。また養子として大村氏に入った忠純は政治的な後ろ盾が弱く、それを補う意味でも南蛮、引いてはイエズス会の後援を求め、長崎とその南の地茂木をイエズス会に寄進していた。

 

 つまり秀吉が直轄領とするまで、一時的に長崎は外国領であったのである。


 そんな土地柄であるので、当然領民に切支丹が多い。南蛮人も多く住居している。そんな彼らをよく知るために、寺沢広高が切支丹に改宗するというのは理解できる行動である。


 だが、根っから武将であり為政者である広高は切支丹を理解できなかった。

 あるいは、為政者であるからこそ拒絶したのかも知れない。


 サン=フェリペ号の事件とそれに続く切支丹処刑は広高が長崎奉行を務めていた時期に起こったのである。


 処刑の責任者となった広高の弟半三郎は、一行の中に僅か十二歳の少年がいることを憐れみ、棄教と引き換えに助命を申し出た。

 

 しかし少年は一時のこの世の生と永遠のあの世での楽園を引き換えにはできないと、毅然とした態度で棄教を拒否し、処刑された。


 これら一連の事件の後、寺沢広高は切支丹の教えを棄てている。


 武士でもないただの農民や大工たちが見せた切支丹の教えを元にした結束力や、そのために若い命を散らす狂信的な覚悟に、ある種の異常性を覚えたのだろうか。


 彼の心境について慮ることは難しい。

 だがこの事件が広高の、切支丹に対する考え方を決定的に変化させたことは違いないだろう。


 いずれにせよ、支配すべき領民たちに、死を飲み込ませる程強い結束の礎があることの危険性について、広高は思い至っていたのであろう。


 秀吉の死後、寺沢広高は関ヶ原の戦いにおいて東軍についた。その功績を以て、飛び地として天草一帯四万二千石を与えられることになった――


 と、ここまで掻い摘んで説明したところ、お里はきょとんとした顔で首を傾げた。


 よくわかっていない、と顔に書いてある。ただの農民にとって、秀吉や家康ならばともかく、寺沢広高など名前も聞いたこともない。地の果てにいたなんかお偉いさん、としか理解できないだろう。

 宗意軒は軽く肩をすくめると、


「要するに関ヶ原の後、天草の辺りを切支丹嫌いのお大名が、切支丹だらけの土地をもらった、とそう言うことじゃな。四十年近く昔のことじゃ」


「ほほう。それならよくわかります」


 切支丹嫌い――というか、切支丹を警戒していた寺沢広高が行ったのは、まず富岡城の築城である。堅城であり、天草の支配や外敵対策というよりも切支丹に対する備えとしての性格が非常に強い城である。


「そして、もうひとつ。天草一帯を改めて検地し、税をかけた」


 お里は首を傾げた。

 税とはつまり年貢である。


「お城を造るのはともかく、年貢を取るのは当然のことですよね。少ない方が嬉しいですけど」


「そう。当然のことである。そして大名にとってはその逆、税は多い方が嬉しいものよな。ところでお主、隠し田というものを知っているか」


「はぁ、まぁ……その、百姓の嗜みといいますか。それなりには」


 お里の目が泳いで、宗意軒は布の下で軽く笑ったようである。


 本途物成、所謂本年貢は米を始め特定の農産物による物納であるが、基本的に田畑でとれた物の四割から五割とされていた。


 隠し田とはその名の通り、お上に見つからないように山奥などに作った田畑のことである。検地によって登録された田畑の取れ高に対して税がかかるので、隠し田でとれる作物は一種の年貢逃れ、そのまま農民のものとなるわけである。当然だが年貢逃れは重罪なので、隠し田が見つかれば重い罰則が科せられる。


「寺沢広高は、切支丹たちを警戒していた。その力を削ぐため、重たい税を課したのだが、そのやり方が最悪でな。隠し田の逆を行ったのよ」


「隠し田の逆……ですか?」


「改めて検地を行い、存在しない田畑を計上した。天草四万二千石というのは偽りで、秀吉公の時に行われた検地では二万と千であったというぞ」


「え……はい!?」


 お里は絶句した。

 その意味するところを、正確に理解したからである。


「で、では天草の人たちは、とれた米とか、殆ど全部年貢として持っていかれたってことですか!?」


「うむ」


「うむって……死ぬ、飢えで死んじゃいますよそれ!」


「そうだな。死ぬほど苦しんだの」


「そんな……」


 検地に引っかからない隠し田が脱税であれば、その逆、存在しない田畑を検地したことにすれば、それは実質的な増税である。本年貢の割合が四割から五割とするならば、架空の田畑の分まで合わせて実際の取れ高の実に九割を納めなければならない。


 その通りに年貢を納めれば飢える。例えその意思なくとも納めることができなければ、年貢逃れとして重罪となる。


 天草諸島は、海に囲まれている分田畑となる土地が然程広い訳ではない。その土地も特筆するほど肥沃という訳ではない。勿論山を切り開いて新たに田畑とするのは重労働である。


 お里自身それほど裕福ではなかった、というか貧しい家の生まれである。年貢を納めるのには苦労していたが、天草の人々の苦しみはその比ではあるまい。満足に食えることなどない、筆舌に尽くし難い日々であったことだろう。魚介が獲れる海辺でなければ餓死が日常であったに違いない。


 あまりのことに言葉も出ないお里に、肩を竦めて宗意軒は続けた。


「ちなみに島原の方も、似たようなものだったらしいぞ。存在しない畑でだけでなく、何をするにも税がかかったらしい」


 島原半島は代々有馬氏によって支配されていた。


 豊臣秀吉存命の時代に当主であった有馬晴信は日本初の切支丹大名大村忠純の血縁上の甥に当たる。その縁があってか、彼自身も切支丹となり、南蛮貿易と共に領民に切支丹改宗を勧め宣教師の活動を許可していた。


 そのため島原半島、特に有馬氏拠点である日野江城と原城の周辺は数万人もの切支丹が居たと言われる。


 その息子である直純は、厳しくなった禁教令とそれによる領民の取り締まり、父晴信が巻き込まれ刑死に追い込まれた疑獄事件などに嫌気がさし、幕府に願い出て日向の国に転封を許可されている。


 有馬氏の後に大名として島原に入ったのは、大和国の松倉重政である。重政の父重信は右近と綽名され、かの名将島左近と並び称される武将である。その子重政は大和国五条二見城主であった時には仁政を敷いた名君であるに関わらず、島原にあっては後世においてすら暗愚そのものと評される人物である。


 先ず、重政は有馬氏の本拠地であった日野江城とその支城である原城を廃城とした。


 それ自体は一国一城令に基づくものだが、新たに本拠地として築城された島原城は本来の石高四万三千石に見合わぬ大城であり、領民はその普請の費用捻出のため大いに搾取された。その上この時行った検地で寺沢広高同様架空の田畑を計上し、領民から限界以上の搾取を行っている。


 また幕府への忠誠を示すため、江戸城改築に当たって俸禄以上の公儀普請役を願い出た。勿論その負担は領民の搾取へと転化される。


 初めの頃は南蛮貿易の利を見て切支丹に対して緩やかな取り締まりであったが、江戸幕府の切支丹弾圧が激しくなるにつれて態度が硬化し、やがてそれは弾圧を越えて拷問と呼べるものに変わっていった。


 そして重政は温泉地として有名な小浜で急逝するのであるが、嫡子松倉勝家もまた父重政の政治手法を踏襲し、更なる苛政を領民に敷いた。


 切支丹を示す焼き印を顔に押す、切支丹を雲仙地獄に連れて行き高温の湯の中に追い落とす、両手を縛り蓑笠を着せて火を着ける蓑踊り等々。


 また税の取り立ても厳しく、納めることのできなかった領民たちを切支丹同様拷問にかけることもあった。臨月の妊婦を六日間川に漬け、赤子もろとも死なせたという記録もある。

 

 島原では本年貢以外にも様々な税が存在した。


 結婚すれば結婚税、出産すれば出産税、誰かが亡くなれば埋めるための穴に穴税、果ては家に棚を作れば棚税、囲炉裏を作れば炉税、畳の数だけ畳税。窓の開け閉めにすら税を課した、とまで言われる。


 聞いたことのない税の数々。余りの酷さに、お里は開いた口が塞がらない。


「えっと、冗談……ですよね」


「儂も流石に窓税は冗談だと思ったが……島原の者たちが言っていたのだ。事実なのではないか? それでも、貧しくとも張り詰めた糸のような危うさで人々の生活は成り立っておった。実際に隠し田もあったのであろう――が、天の恵みばかりは人の努力でどうにかなるものではない」


 一昨年の事である。

 九州西部一帯が旱魃――極端な雨不足となり、壊滅的な不作となった。


 島原も、天草も。


 あるだけ納めても予定していた年貢に足りない。なれば取り立てという名の拷問と飢えで死ぬのが目に見えている――年が越せない、という言葉が比喩ではなく、現実のものになったのである。


「えっと、それって、年貢を待ってくれたり……」


「不作で年貢を免除してくれるような心優しい領主が、本来の倍も年貢を課したり窓税なんてものを作ったりすると思うか?」


「……思いません」


「それで、ついに張り詰めた糸が切れた。いや、溜まりに溜まった鬱憤が噴出した、というべきじゃろうか」


 なにせ四十年だ、と老人は呟く。


「四十年……」


「関が原から、三十と七年か。とにかくそれ位の間、人々は我慢した。信じる神を奪われ禁じられ、ありもしない田の分まで年貢を要求され、従わなければ拷問じゃ。腹一杯飯を食うこともままならずいつもひもじい思いをし、子は空きっ腹に泣く。儂はむしろ、余りの我慢強さに称賛すら覚えるわい」


 政治的な話のあれこれを、お里はちゃんと理解できたと言えない。

 だが天草と島原で強いられた苛政の余りの酷さとそれに晒され続けた領民たちの気持ちを思うと、


「娘。なぜ、泣く」


「そりゃ、泣きますよ。だって余りに酷い……」


 飢えて死ぬか、お上に逆らって死ぬか。

 一揆という手段を選ばざるを得なかった人々の苦しみを思って、お里は涙を拭った。


 老人はしばらくそれを見て――少し待って、お里に声を掛ける。


「おい、娘。貴様は優しいな」


 お里は顔を上げた。

 

「そっち、奥の方を見てみろ。面白いものがあるぞ」


「え……ひっ!」


 薄暗がりの中に、岩ではない何かがある――白い何かとたくさんの布切れが積み重なったそれが一体なにか、お里には一瞬判らなかった。


 目を凝らして、よく見る。


 それらは女ものの服を着た、白骨の、


「ひ、し、死体……!」


「娘。島原は地獄であったぞ。怨嗟の渦巻く地獄があったぞ。虐げられ続けた百姓たちの恨みで満ち溢れた地獄となった。その中で儂は決めた――」


「き、決めたとは……なにをですか?」


「こうする、と」


 最早何もかもを、こうすると。


「殿が望んでおった世の中は、最早望むべくもない。切支丹たちが一体何をして、四十年もの長きに渡って虐げられねばならなかった。その挙句が、あの地獄よ。なれば、もう、良かろう。幕府が、選んだのだ。あの惨たらしい地獄を。か弱き農民を悉く殺し尽くしたあの地獄を。なればもう、この日の本全てを悉く、こうしてくれよう。日の本全土を地獄の怨嗟に満ち満ちる地とし、川という川を血潮に染め、山という山を死体で埋め尽くしてしまおう」


 江戸の町まで。いや江戸の町さえ。そして江戸のはるか向こう、蝦夷の地すらも。


「そうすればかの将軍様も、幕府の重鎮どもも、地獄の底で我らが悲哀を少しは思い知ってくれることであろう」


「そ、そんなこと……で、できるはずが……」


 顔を青くしたお里に、宗意軒は初めて顔を覆っていた布を取った。


「ひっ!?」


 黒く光沢を帯びた鱗でその殆どを覆われた顔――蛇のそれとなった、両目。

 深く、暗い、闇の色をしたその瞳の奥で、ぐるぐるとどす黒い憎しみが渦巻いている。


「できるさ、できるとも。儂は人であることを棄てた。あの貴きお方の御力の一端よ。その力で以ってすれば、造作も無き事」


「く、狂ってる」


「ふん、当の昔に。――娘、貴様は明日の晩、あのお方に奉げる生贄になってもらう。そして地獄の蓋がついに開き、徳川終焉が始まるのだ……」


 哄笑を残して、人ならざるモノとなった老人は去って行った。代わりにお里を攫った男が見張りとしてやってくる。


 老人の話の何もかもを理解できたわけではないが、このままではとんでもないことになる。多くの人々が苦しみ、死ぬことになる。


 お里は牢の格子を壊せないか蹴り飛ばし、岩肌にどこか抜けれる隙間が無いかを探した。だが、そのどれもが無駄であった。


 どうにか逃げれないかと奮闘するお里をみて、見張りの男はにやにやしている。


「無駄だ、女の細腕でどうこうできるほどやわな作りではない。諦めろ」


「うるっさい……いいからお願いっ……出して、ここから出してっ……!」


 格子を掴んで揺さぶるお里は、必死に祈った。


 誰か助けて。お願いだから、誰が、でないと――お願い、誰か……!


 脳裏に浮かぶのは、力の強いあの青年。足を挫いたお里をひょいと抱え上げて運んでくれたひと。


 ――太郎さん……!


 呟く名前は洞穴の奥の奥で、誰に聞かれることもなく消えていった。



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