三 夫婦の竜

  †



「ここは……一体」


 ふわりとした感触に、太郎は目を開けた――つもりだったが、何も見えなかった。暗闇の中ではない。むしろ逆、辺り一帯を濃霧に包み込まれたかの如く、どこまでも真っ白な場所である。


 天地すら定かではない。それどころか、自分の身体がどこからどこまでなのかも危うい。なのに、太郎はそこにいた。


「目が覚めたか、寝坊助め」


 声が聞こえた気がして、太郎はそちらを振り返った。


 大きな岩がある。

 その岩に腰かけ頬杖をつく、ざんばら髪の男がいた。乱れた前髪から覗く瞳が太郎を真っ直ぐ見つめている。


 その目を、太郎はどこかで見たことがあるように思った。


「貴方は……ここは? 俺はどうしてここに……?」


「己と貴様の幸運に感謝すると良い。ぎりぎりの所で、己の手の者が間に合った――尤もそれは偶々なのだがな」


「はぁ、そりゃ有り難うございます」


 よくわからないが、とりあえず礼を言う太郎。

 間に合った、って何に? 何か助けられたっけ、俺……?


 そう疑問に思ったところで、脳裏に閃くものがあった。

 確かに今の太郎は寝惚けていたのだろう。一つの事を思い出すと同時に、芋蔓式にあれもこれと意識に上ってくる。


「俺は……あの時、真っ赤な火の玉に焼かれて――」


 背中に受けた衝撃と、全身を包む炎の熱、轟々と唸りを上げて燃える――

 周囲の真っ白な霧が、燃え盛る獄炎と化した。


「うわっ」


「落ち着け。別に熱くは無かろう」


「……ほんとうだ。でも、なんで……?」


「それはここが、貴様の無意識領域であるからだ。つまり、貴様は今夢を見ているのと変わらぬ」


「夢?」


 真っ赤に燃え盛る火炎の夢。それが意味するところはつまり、


「……阿呆か貴様。寝しょんべんの心配をしている場合ではあるまい」


 全部ばれてる。

 溜息をついて――夢の中で溜息というのも不思議な気分だが――太郎は意識を切り替えた。周囲を彩っていた炎が収まり、打って変ってざぁざぁと流れる渓流と木陰の風景になる。


 太郎にとっての原風景である。


 正面の男は、感心したように、ほう、と呟いた。太郎はそれを見て、大岩に座るその男が、この光景の中にあって全く違和感がないな、と思った。川の流れの中に岩があるのは不思議でもなんでもない。その岩の上に男が座っているのも不思議でもなんでもない。なぜかそう思えた。


 太郎はいつの間にか体を持っていた。男と向かい合うように岩に腰を下ろすと、開口一番問いかけた。


「アレは、何なんですか」


 火の妖術を操り、瞳を射抜かれて平然としており、蛇の如き半身を持つ老人。

 森宗意軒。


 なぜ真っ先にそれを訊いたのか。

 目の前の男はあの老人の事を、何か知っている。

 それは直感的なものであったが、外れてはいなかったようだ。


 単刀直入な太郎の問いに、男もまた真っ直ぐに答えた。


「悪鬼の王が一柱、青焔魔の使徒」


「さたん」


 その言葉に太郎の背筋が冷たい何かを覚える。

 

 青焔魔というのが何かは知らないが、これ以上無い程何か良くないものであるということだけは、よくわかった。


 男は太郎の言葉を待っているようだった。


 少しの間考えた太郎は、「三つ、訊きたいことがあります」と訊いた。

 戸惑っていた態度は形を潜め、変わって肝の据わった顔になっている。


「壮吉はどうなった。青焔魔とは何か。あなたは俺の敵か、味方か」


 指折り数えて問い掛ける。男は最後の質問の部分で軽く目を見開き、薄く笑う。


「先ず、壮吉は無事だ。貴様共々青焔魔の炎に巻き込まれて重度の火傷を負ったが、貴様が庇ったこととお紅が首尾よく救い出すことができたことのお陰で命に別状は無い――しかし、貴様」


「ん?」


「幾ら己の加護を得ているとは言え、頑丈が過ぎるであろう。普通であれば焼け死んでいるところを、どうしてそう平気でいられる」 


「知りませんがな……っていうか、そのあなたの加護って奴じゃないんですか」


「幾らなんでも相性が良すぎる。貴様、人の範囲を半分はみ出ておるぞ」


 挑発的に言われたが、太郎としては「へぇ、そうですか」としか言いようが無い。自分が人かそうでないかなど、今は些細なことであった。


「壮吉が生きてるってんなら、今はそれでいいですよ」


 それで、と続きを促すと男は肩を竦めた。


「青焔魔とは、南蛮の教え――貴様らは切支丹と言っておるが、その中にある天魔の一柱である。人を悪徳と堕落に誘い、憤怒と殺意によって血を流させることを旨とする存在だ」


 よくわからない、と太郎が首を傾げると男は更に続けた。


「切支丹の教えでは、神とは絶対善性の存在である。常に正しく、常に善き存在であり、信徒たちはその教えに沿って生きるべき、というものだ。だが世の中の人々は必ずしもその通りには生きていけない。何故か。欲があるからだ。その欲を刺激し、人々を堕落に導こうとする――それが天魔だ」


「妖怪みたいなものですか」


「いや、そんなかわいい存在ではない。もっと純粋な、悪の概念そのもの――悪であり魔であり、即ち仏敵である」


「悪……魔……仏敵……」


 太郎は考え、首を振る。


「よくわからないが……あの森宗意軒が、駄目だってのは分かります。あれは、在ってはならない奴だ」


「然り。あ奴は人に非ざることを選んだ」


「そのあいつが使いってことは、青焔魔ってのも禄でもないってことですよね」


「その通りである。であれば、どうする」


「どうすればいいかはわかりませんが、どうすべきかはわかります。どうにかしてこの地から叩き出します」


「よろしい。ならば最後の問いは、答えるまでも無い」


 すうっ、と周囲の風景が再び形を失い、白くなっていく。

 太郎の前に座っていた男もまた白く姿を失っていく中で、太郎はその声を確かに聞いた。


――貴様が望む限り、力を貸してやろう。ちとばかり貴様の中に居座らせてもらうぞ


周囲が白く塗り潰されていくその反対に、太郎の中で膨らむ力があった。

それは太郎の中で際限なく湧き上がり、燃え盛り、決して尽きることのない慈悲と憤怒の怒りの炎である。


「お、お、おおお、おおおおおお……!!」


 咆哮とともに、太郎は目を覚ました。




  †



「お、お、おおお、おおおおおお……!!」


「起きたか、太郎どん」


「……? あ……?」


 太郎が身体を起こすと、目に入るのは梢に覆われた空。そして耳に届くのはさぁさぁと流れる川の水音。


 視線を転じればそこに、伽羅が座っていた。竹の水筒を差し出してくれて、太郎はそれを受け取ると喉を鳴らして中の水を飲んだ。

 身体の中に、水が流れ込み染み込んでいくのが分かる。

 

 水筒の飲み干して、太郎はようやく一息つくことができた。

 喉が渇いている時の水は美味いものだが、こんなに水を美味しいと思ったのは生まれて初めてだった。身体中どれ程水を欲していたのか思い知る。


 ようやく落ち着いて、辺りを見回せばやはりというべきか、そこはよく知っている場所であった。


 奥の院。

 不動明王像の御前の磐座――太郎はそこに寝かされていたのである。


「伽羅さん……あんたが助けてくれたのか」


「できれば無傷で助けてやりたかったが……済まない」


「いや。命が助かっただけありがたい。礼を言うよ」


 太郎は自身の身体を見回した。業火に包まれたはずだというのに、ぱっと見て火傷一つ負っていない。だというのに身に纏っている衣は焼け焦げてボロボロだった。

 そのことを訝しがると、


「……良かった。太郎も目が覚めたんだね」


 丁度、伽羅の妻であるお紅が岩を飛び渡ってやってきた。

 伽羅が言うには大火傷を負った太郎をお紅が看病してくれたのだという。


「と言っても私ゃ何もしてないよ。ちょいと気を送り込んで、水をぶっかけてやっただけさ。あんたは殆ど勝手に治ったようなもんさ」


 けらけらと笑うお紅である。通りで焦げて最早雑巾にすらならないような服が、水気を帯びているはずである。


「さっきまで、壮吉坊やを看てたよ。あっちも峠を越えたから心配いらないよ。安静にしていれば直に良くなる」


 その言葉を聞いて、太郎はほっとした。

 夢の中とやらであの男に壮吉の無事を聞いてはいたが、見知った人に言ってもらえればより安心できるというものだ。

 それよりも。


「どうして二人は、あの場にいたんだ?」


 太郎の問いに、変わり者の夫婦は一瞬顔を見合わせ、そして真面目な顔つきに変わった。


「俺たちはあのお方にお仕えする存在でな」


「兼ねてより北の方に災い在りと言われていてね。私たちはそれを調べているところだったんだよ」


 災い、と言われ思い浮かぶのは人に非ざる姿となった宗意軒の、あの蛇の瞳である。


「微弱な気配を頼りに探し回っていたんだが、中々尻尾を掴めずにいてな。そうこうしているうちに、太郎どんたちに先回りされてしまったのだ」


「あいつら方々で人攫いやってたんだって? さっき信吉に教えて貰ったよ。で、別の手掛かりを追って涌蓋山に辿り着いたところで、あの場面に出くわしたってわけさ」


 隠形の術を使って潜んで様子を窺っていたら、太郎たちが丸焼きにされかけた。そこで咄嗟に太郎たちを炎の中から救い出し、身を隠してここまで戻ってきたのだという。


「これを使ったのさ」


 お紅が腰に下げていたものを太郎に見せた。麻縄の様に見えるそれは、


「羂索という、神具だよ。人の世を乱す悪鬼どもを縛り上げ、地獄の業火に焼かれ苦しむ人々を救い上げるためのものさ」


 どこか得意げなその態度に、太郎は思わず怒鳴ってしまった。


「そんな便利なものがあったら、どうしてもっと早く助けてくれなかった!!」


 そうであれば、吾助も幸助も弥一郎も死なずに済んだのだ。


 自分勝手な願望であることは分かっている。太郎たちは伽羅たちとは関係なしにあの黒衣の男たちに深く関わって、殺されることになったのだ。自業自得の部分が無いとは言い切れない。それは分かっている、分かっているが感情が納得はできない。


 激昂し掴みかかる太郎の手を抑え、伽羅が済まない、という。


「言い訳になるが、俺たちがあの場に辿り着いたのは吾助が谷に向かって飛び込んだところだった。いくら何でも間に合わない。それに、俺たちは人の為すあれこれに干渉してはならないと定められている」


「定められ……なに?」


「うすうす気づいているのだろう。俺たちは、人じゃない。竜だ」


 そう告げると、伽羅の姿がぼやけた。形を失い、光を放ち――そして次の瞬間、その場にいたのは、


「竜……」


 鮮やかな深い緑色の鱗と黄金色の瞳を持つ、胴体の長い竜がそこにいた。


 顔一つで太郎の全身ほどもある巨体である。振り返れば深紅色の鱗と同じ黄金色鮮やかな瞳の竜がもう一頭――お紅であろう。なぜだろうか、どことなく人の時の顔に似ている気がする。気が強そうなところとか。


 信じられない、とは思わなかった。むしろ納得できた。


 なるほど、正体が竜というなら、爺さんの爺さんの頃からずっとそこに住んでいたというのもその通りだったのだろう。浮世離れしている変わり者――当たり前だ。人ではないのだから。


『俺たちは人の世を守る存在で、この地の守護を任されている。具体的には人の世に混沌と混乱、不善と堕落をもたらす天魔仏敵を覆滅することが役割だ。だが、人が為す善にも不善にも、関わってはならないとされている』


『あの時――あんたらはあの黒い男たちとやりあってたんだよね。でもそれは、まだ人と人の殺し合いだったから、あたしたちゃ見守るしかないのさ』


 お紅と伽羅は、遠くから島原のあの戦いを見ていたのだという。


 天草で限度を知らない苛政が行われていることも知っていた。

だが、介入することは無かった。


 竜の姿を晒して一言止めろと叫べば、それで戦いは収まっていたことだろう。そして幕府方も、一揆勢の全て――女子供の一人すら残さぬ処刑をすることは無かったかもしれない。


 が、それはできなかったし、しなかった。


 そこで行われていた行為がどれだけ残虐であったとしても、人が人に為す行為だからである。


『太郎。お里が、奴らに攫われたぞ』


「なっ……!?」


『攫った男は、まだ人のままであったから私たちは手出しできなかったのさ』


『だが、あの時あの老人は――人に非ざることを選んだ。若い娘を攫い儀式を施すことで青焔魔という異国の天魔の力を引き寄せ、身に宿した。その力の発現である地獄の業火によって太郎を殺そうとしたから、俺たちはお前と壮吉を助けたのだ』


 竜、というのは勿論圧倒的な力を持つ。その力を振るえば、軍勢を相手取ることすら容易いだろう。天変地異すら起こすことができる。


 ゆえに、主とする神仏によってその力の行使を制限されているのである。

だから森宗意軒たちを探すのに手間取り、お里が攫われる場にあっても潜んでいたのに尾行するに留めるだけであった。その果てに太郎たちを救うことになり、森宗意軒たち一味の尻尾を掴むことができたのであるから、不幸中の幸いと言ったところだろうか。


「あるじ」


 太郎は視線を巡らせた。

 そこにあるのは、岩の上に鎮座する――憤怒の形相の神の像。人の世を乱す悪鬼をその神威でもって抑えつけ、降魔覆滅をその役目とする仏教守護の存在。

 竜をその眷属とし使役する、


「――不動明王、様」


 その名を呟いた瞬間、目の前に、一振りの刀が現れた。


 銘も無き、父の形見である刀である。煤を被り、所々焼け焦げ、刀身は半ばから折れてしまっている。太郎と共に地獄の業火に晒されたからで、むしろ柄だけでも良く残っていたというべきか。


 その刀に、炎が宿っている。

 ちらちらとも柄尻から漏れ出すかのような赤い炎に、太郎は底知れぬ力を秘めているのを感じた。


『太郎。お里は今夜にでも殺されるぞ』


「……!!」


『あの黒衣の男たちは、切支丹の中でも禁忌であり異端とされる教えに手を出している。その力を用いて、地獄の悪鬼を統べる王である青焔魔をこの世界に蘇らせようとしている。お里や、攫われたという娘たちはその邪悪な儀式の生贄に奉げられるのだ』


『そうなったら完全な形で悪鬼王青焔魔がこの世に降臨する。人攫いや島原の大乱なんて比べ物にならないくらいの人たちが苦しみ、死に絶えることになるさね』


 田ノ原村の長老やおじさんやおばさんや、まだ小さな子供たち。

宮原村の信吉とお慶。身体が弱いくせに皆を率いようと無理をする壮吉も、死ぬ。

あの日太郎と相撲を取って、宴で酒を酌み交わした赤ら顔の皆も死ぬ!


吾助や幸助の死は無駄になり、その上に夥しい死体が積み重なっていくことだろう。

この小国の地で、島原のように屍が山と積まれ流れる血が河となるあの地獄が蘇る――もっと多く、もっともっと多くの人が。


そしてお里の笑顔。

 父に続いてお里まで、森たちの一味に殺されるなどと、絶対に……!!


 湧き上がる激情を、憤怒という。

 絶対許されざる悪に対する怒りを義憤という。


「ううう……うぁぁああああああッ!!」


 大きく心臓が脈を打ち、その中から溢れ出す感情こそ、怒りであった。


 心臓から湧き出すように血潮に乗って熱が全身を駆け巡り、力が漲り溢れ出す。ぼろぼろだった服は炎が巻き付くように形を変え、赤土色をした法衣へと変わる。手足に巻き付く炎は、火炎の意匠の施された具足となった。


 そして、太郎のその眼前に浮いていた形見の刀にも変化が見られた。紅蓮の炎に包まれ、ぼろぼろだった刀は新生していくのを太郎は見た。


 折れた刀身は炎を纏いて姿を変え、両刃の剣へと生まれ変わった。

 白銀の冷たい刃に絡みつくように竜の彫刻が施され、その中に炎を湛えた宝剣である。だが、決して美しいだけのものではない。背中を震わせるような鋭さ――悪鬼をその内に宿す火生によって焼き尽くす業火の剣。


「これは」


『太郎、その剣を手にせよ』


 伽羅が、厳かに言った。


『その剣こそ、不動明王の三昧耶形である降魔の三鈷剣――倶利伽羅剣である』


 三昧耶形とは、その神仏における力の象徴である。


不動明王とは火生の世界に在って神仏の教えに背き、人々の世に災いと禍いと厄いを齎す悪鬼どもを討ち払う仏法守護の神である。

その不動明王の神力の象徴であり、神威と神炎を宿す降魔の剣。


『我が名は倶利伽羅竜王、降魔の三鈷剣が化身である。太郎、その剣をもって、我らと共に再び北へと赴くのだ』

『その身に宿す不動明王の神力を振るい、この世に混沌を齎す南蛮悪鬼の王青焔魔の使徒を討ち払うべし』


 二頭の竜が、太郎と三鈷剣を囲み、宙を泳ぐ。


決意を以て太郎は目の前にある、降魔の神剣を手に取った。






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