南蛮悪鬼 青焔魔
一 決戦の始まり
†
間も無く夜が来る――
お里は空を見上げて思う。なんとかしなければ、と。
結局のところ半日の間暴れまわって、芳しい成果を上げることはできなかった。縛られた手は農作業とは別の理由でぼろぼろだ。今もなんとか逃げようと縄を引っ張っても撓めても一向に緩まないどころか、手首に血が滲んで痛い。それを見て鼻で笑う背後の男を、お里はせめて睨み付けることくらいしかできない。
お里が連れ出されたのは、真っ白な岩に囲まれた洞窟の最奥。
その天井部に、大きな穴が開いていた。
空が見える――夜空、冷たい月の光に、お里は今日が満月であることを思い出した。
そこには、お里を除き十人の男たちがいた。
全員が黒衣を纏っている。
周囲は崖となって取り囲まれている。鳥でもなければとても超えることはできそうにない。その白い岩の広場とも言うべき場所の中心に、祭壇らしき場所が設えてあった。
篝火が焚かれ、火の粉が舞い散る。
平たい岩に赤黒い布が敷かれ、その周囲をお里にはよく分からない文字だか模様だかが囲んであった。
酷く、嫌な雰囲気を纏っている場所である。直視していると気持ち悪くなってくる。
その祭壇の前で、人ならざる存在となった老人とその弟子二人が、並んで祈祷をあげていた。お里には分からない、異国の言葉だろうか。重々しく歌うように――呼びかけるように。
お里はそれを見て一瞬目を疑った。三人を、何か黒い靄のようなものが包んでいるのだ。初めは目の錯覚、夜闇のせいかと思ったがそうではない。確かに蠢く黒い靄が三人を包んでいて、しかもその濃さを次第に増していく。
そしてお里は目を見張った。
小さな、黒い蛇が、岩の上を這いずっていた。
一体どこから――そんなことを思う間もなく、次の一匹が、そして更に次の一匹が現れる。すぐにその数は両手に余るほどに増え、なおも増え続ける。祭壇の周りを埋め尽くすほどの数になる蛇、蛇、蛇。
「靄が……」
そう。それは黒い靄の中からぬるりと現れ出るのだ。
数百にも数千にも及ぶかという、蛇の海。お里はその只中に連れ出された。
「ひっ!」
ぬるりとした冷たい鱗の感触に、思わず悲鳴が漏れる。
そんなお里を見て、森宗意軒はこころから楽しそうに笑みを浮かべる。
「ああ、良い顔だ。もっと怯えてくれると、我が主もお喜びになる」
「くっ……冗談を……放して!」
そしてお里は、祭壇の四隅に両手足を縛り付けられる形で仰向けに寝かされた。
「誰か! 助けて! お願い……だれか!」
必死の形相で辺りを見回し、助けを求める。それが無駄であることは、内心では理解している。ここは奴らの本拠地だ。彼女に味方してくれる者などいるはずが――
そのお里の視線が、ある一点で止まった。
篝火の傍に、佇む男。
「……吾助さん?」
一味と同じ黒衣を纏っているが、間違いない。同じ家に寝起きし働く仲間だ。壮吉たちと一緒に出掛けたはずの。
「吾助さん! 吾助さん! 助けて、お願い! 庄屋様に伝えないと……え」
吾助はお里のことを訝し気に見ていたが、直ぐに得心が行ったとばかりに頷いて、近寄ってきた。祭壇に縛られているお里を助けるのではなく、その頬をつるりと撫でた。
「なんだ娘。こいつの知り合いだったか」
他人を見る目。
吾助がお里を見下ろす、その目が語っている。
そうだ。慌てていたから当然のことに気が付かなかった。
ここは敵の本拠地。吾助がここにいて周りが慌てていないということは……。
「ごすけ、というのか。この身体は。だが、悪いな。ごすけとやらは崖から落ちて死んでな。俺も身体が壊れたから、丁度いいから二つ合わせて使っているんだ」
ぐい、と上着の襟を引っ張り、上半身を露にする。
「ひ……」
お里の位置から見えるその大半が、黒い鱗に覆われていた。お里の頬を撫でたその右手も。
「吾助さん……し、死んだの……」
「ああ、そうだ」
ほろ、と涙が伝った。
吾助が死んだなど、信じたくない。だが、この異常な状況がそれを許してくれない。考えたくも無い事態を知って、ずっと我慢していた感情が溢れて来た。
――怖い。
攫われて目が覚めてからもずっと怖かった。
だけどなんとか逃げ出すのだと自分を叱咤し、抑え込んでいた感情だ。ここから逃げ出して信吉の元に行かねばならないという使命感もあって、今までは我慢できた。
だが、もう限界だった。本人であるのかどうか、お里には分からない――が、吾助の顔をした男が、助けてはくれない。
その事実が、お里の心の堤防を決壊させた。
「い、いや……いやぁ! 嫌だあ!! 助けて!! 誰か、お願い助けっ……助けてぇ! 死にたくない! 死にたくない! 助けて、助けてぇ!!」
そんなお里をせせら笑うように、森宗意軒が告げる。
「そろそろ刻限である。儀式を始めようぞ。――刑部よ」
「はっ」
厳かな――そして邪悪な喜悦を滲ませる宣誓。
刑部と呼ばれた吾助の顔を持つ男が腰に帯びていた短刀を抜いた。篝火の炎に、冷たい刃がつらりと光る。
刑部はその切っ先を、お里の喉元に突き付けた。
怖くて怖くて溜まらないのに、その刃からお里は目を離す事ができない。
そして―――一閃。
「っ!」
襟の合わせから、足元まで、奇麗に来ていた衣服が裂けた。更に刑部は短刀を振るい、あっという間にお里は裸に剥かれてしまった。小ぶりな乳房も、股の下生えも全てが暴かれる。
周囲で祭壇を見守っている男たちが、感嘆の声を漏らした。
誰にも見せたことのない裸体を衆目に晒し、お里は羞恥に顔を染める。
が、続く森宗意軒の言葉に、お里は色を失った。
「――胸を割って、心の臓を取り出せ。我らが主に乙女の生き血を奉げるのだ」
その言葉を待っていたように、辺りを這いずっていた黒蛇たちが祭壇に群がってくる。重なり合い互いの身体を乗り越えて、祭壇に横たわるお里の身体にすり寄ってくる。その冷たい鱗の感触を覚えるほどお里の感情は恐怖に塗り潰されていく。
「いや、お願い……たすけて……」
祈祷の言葉が盛り上がっていく。黒衣の男たちの興奮も、彼らが纏う黒い靄もその量を増して、今にも何かが、割れてしまいそうだ。
やがて半ば蛇に埋もれかけたお里――その傍らに立つ吾助の姿をした半蛇半人が、短刀を逆手に構え、大きく振り上げて、
「――たすけて! 太郎さぁぁぁぁあああああああん!!」
真っ赤な煌めきがお里の目に映り、その全身を衝撃が襲った。
†
「うっおおおおおおお……!」
耳元で唸る風、空気を切り裂いて進むその感触に、太郎は状況を忘れて思わず声を上げた。視界は広く高く、雲と並ぶ高さである。
「これが飛ぶという感じか……! すごいな!」
地の上から離れることのできない人の身であれば、一度くらいは誰しも空飛ぶ鳥を見て羨ましく思ったことがあるだろう。
太郎は、今まさに飛んでいた――
正確には竜の姿を晒した伽羅の背に跨り、空を飛翔していた。
『さて、余り時間も無い。全力で飛ばすから、しっかり捕まっていろよ太郎どん』
『落ちても助けてはやんないからね』
後ろの方から、お紅の茶化す声が聞こえる。
首を巡らせれば伽羅の伴侶であるお紅もそのあとを追って空を舞っている。その真紅色の鱗が西日に照らされ輝いている。
西の方――阿蘇のお山の更に向こうに平地が広がっていて、幽かに見える日の光を受けて朱く染まっているのは不知火の海。そして、島原の地か。
東の方を見れば九重の山々の果てに豊後の地がある。太郎が赴いたことはないが、そこにも人々が暮らしていて、笑ったり泣いたりしているのだろう。
西の空は既に夜。太郎の目にも、星が瞬くのが見える。夜は太陽を追いかけるようにその藍色の帳を広げ、迫ってくるようだった。
西の夕焼けと東の夜が混じりあう天頂は既に濃藍の色をしていて、そこに大きな白い満月が禍々しい光を帯びて輝いている。
夜が来る。
今日という日が終わる。
多くの人々にとっては何の変哲もない一日が終わろうとしている。
だがそれが、今夜を境に一変するかもしれない。太郎が見たことも無い化け物が地獄から呼び出されて、この地を滅茶苦茶にしようとしている。
あの老人は――人を辞めてしまった老人は、それを見て大笑いするのだろう。
平蔵は、止めろと太郎に言い遺した。
使命感を覚えて偉ぶるつもりなんて全くない。誰に頼まれたからということも無い。
だがそれで奪われる笑顔があるというなら――それがあのお里の笑顔というなら、もはや是非も無い。
「いっけぇぇぇぇぇ!」
風すら追い越して、太郎を載せた夫婦の竜は空を走る。
太郎たちが数刻をかけて歩いた距離をものともせず、ほんの僅かな間に涌蓋山の上空へと辿り着いていた。
そして、太郎たちは気が付く。
「おい……なんだ、あれは」
夜闇に沈みつつある涌蓋山の一角から、霧のような何かが立ち込めている。
いや、それは明らかに霧ではなかった。少なくとも太郎は、生まれてこの方黒い霧というものを目にしたことがない。
夜だから? 稜線の影を見間違えた?
そんな筈はない。
だって、こんなにも禍々しい――それは、あの老人が纏っていたのと同じ感覚。
『あんた』
『わかってる。……拙いぞ太郎どん。奴ら、もう青焔魔召喚の儀式を始めている。もう間も無く、此岸と彼岸を隔てる境界に橋が架かるぞ』
「っ……! お里は!?」
『未だ無事だ。が、こっそり助け出す暇はもうない。覚悟を決めろ』
『行くよ太郎! 突っ込むよ!!』
紅玉と碧玉の鱗を持つ夫婦の竜は虚空で大きく身を翻す。
伽羅の背に乗る太郎の視界一杯に欠けることのない大きな月広がって、次の瞬間には大地に向かって急降下が始まった。
「うっ……お、おおおおおお、おおおおおおっ!」
歯を食いしばり、加羅の角に掴まって身体を持っていこうとする豪風を耐える。
ぐんぐんと流れる視界の先に一点、黒い靄が立ち上る場所がある。例の洞窟の辺りか――そんなことを頭の片隅に思った瞬間、確かにそれが聞こえた。
確信。
気のせいでは、決してない。
たすけて! 太郎さぁぁぁぁあああああああん!!
「――お里ぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
『太郎!?』
考えるよりも早く、太郎は伽羅のその竜の身体を蹴って飛び出していた。全身を真っ赤な炎に身を包み、太郎がその手に持つ宝剣を一閃させる。
朱い焔が巻き起こり、白く禍々しく漂白された岩に亀裂が走る。衝撃が大気を揺らした。
「なっ、なんだ!」
「今、上から……空から何かが!」
突然の轟音に慌てる黒衣の男たち。もうもうと土埃が舞い上がって、祭壇の上がどうなったのかが見えない。それを飛び越えて、何かが宙を舞って落ちて来た。
短刀を握った、右手である。
地面に突き立った刃からどちゃりと外れて地に落ち、白い岩場を赤黒い血で染めた。
右の手首から先を失った刑部が土煙の中から転がり出てきた。
「……なにが起きた、刑部」
「判りませぬ師匠。ただ、空から何かが落ちて来た……」
傷口を押える刑部の答えに、森宗意軒は忌々し気に空を見る。そして視線を転じたその先、舞い上がる土埃が晴れたそこに立つ、朱い炎纏いし宝剣を手にする男の姿を、
森宗意軒が。田崎刑部が。黒衣の半人半蛇どもが。
お里が見た。
「……た、太郎さん……? 太郎さんっ!!」
「待たせて済まねぇ。お里、助けに来た――……ほぁっ!?」
振り返った太郎はお里にそう笑いかけ――そして慌てて目を逸らした。
纏わりつかれていた黒蛇どもも衝撃で一気に吹っ飛んで、祭壇の大岩に縛り付けられたお里の姿が丸見えである。
「えっ? あっ? ちょ、太郎さん――見ちゃ駄目!!」
「す、すまん! だがちょっと我慢してくれ!」
一度吹き飛ばされた黒蛇たちが、贄を奪われまいと再びお里に集ってきた。太郎に向かって威嚇にする。それを太郎は、お里の身体の上を撫でるように炎の剣で払った。
朱い炎が火の粉を散らし、それに触れた黒蛇が一瞬で燃え上がった。一緒に、お里の両手足を縛り付けていた縄も。だが、燃える蛇に囲まれたお里はその舞い散る炎の欠片を身に浴びながらも、
「熱くない……」
不思議な気分で身を起こした。その手には縛り付けていた縄の痕も、牢の格子を殴って出来た傷も残ってはいなかった。
そして太郎は、お里を抱きしめて右腕で眼下の黒衣の者どもを睥睨する。そして、手にした剣の切っ先を森宗意軒に突き付けた。
「森宗意軒。お前を止めに来た」
「貴様、なぜ生きている――それにその力。神の力を、一体どうやって……」
憎々し気に太郎を睨み付ける森宗意軒に、太郎は答える。
「間一髪で助けてもらったんだよ。この地を護る、不動明王様と夫婦の竜にな」
「導師様! 空を! ――竜が!」
宗意軒の弟子の一人が、悲鳴とともに空を指さす。そこに、緑と紅の鱗を帯びた竜がいた。
竜は太郎の頭上でその守護をするかのようにゆったりと飛び回る。
『随分と派手な登場だったな、太郎』
『源義経の八艘跳びでさえ、これほどではなかったと思うわよ』
まるでそれを見て来たかの茶化すような言葉に太郎は肩を竦める。
竜の姿のお紅が、人の姿を取り戻してお里の横に立った。
「えっえっ、お紅さん!?」
「お里ちゃん。詳しい話はまた後で。これ羽織っときな。守ってくれるから」
と、どこからともなく取り出した上掛けを肩にかける。竜の刺繍がしてあって、えらく勇ましい上掛けだ。
太郎たちを黒衣の男たちが取り囲んだ。それぞれ武器を構えている。
「……なぜ生きているのかは、最早どうでもよいが」
殺意を込めて、宗意軒は太郎のことを睨み付けた。
「その娘は返して貰おうか。そ奴は青焔魔様に奉げる大事な生贄なのだ」
「俺はそれを止めに来てお里を助けるために来た、つっただろうが」
太郎の感情に呼応して、手にした神剣から炎が立ち上がる。その揺らめきを受けて太郎の瞳がぎらりと強く輝いた。
「神助を得て気が大きくなったか、小童。最早楽に死ぬことすら能わぬと知れ。寸刻みにして殺し、その魂まで地獄の業火に焼べてくれる。永遠に解き放たれることのない焦熱地獄に蹴り落してくれる――殺れ!」
宗意軒が叫び、黒衣の男どもが太郎たち目がけて殺到した。
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