二 北里村



 †


 宮原村から北里村までは、道と呼ぶのも憚られるような道である。均してあるだけ、といった有様で、石がごろごろと転がっている。山奥の小国郷にあって更に山奥。その山肌を拓き田畑として耕しながら人々は暮らしていた。


 その細い道を先導の吾助の背を追いかけ歩く太郎。そして早々に太郎に背負われる壮吉の姿があった。


 壮吉は太郎の背負子に腰かけながら、物珍しそうにあちこちを見渡しながら書付をしている。


「…………」


 道中にあって、一行の間に言葉は少ない。軽口ばかりの吾助も珍しいことに静かだった。もっと言うなら、後ろの二人の空気が重くて気を遣っているのである。

 そろそろ北里の村が見えてくる、と言ったところまで来て太郎が口を開いた。


「……壮吉は」


「何だ。俺の事は偉大なる次期庄屋様と呼べと言っただろう」


「初めて言われたよそんな事」


「そうだったか? まぁ冗談だ。それで、なんだ太郎」


「お前、……その、さっきから何を書いているんだ」


 本当に聞きたいことは、それではない。が、真っ直ぐ聞くことも憚られて咄嗟に出た質問だった。


「色々だ。話に聞くばかりだったが、実際に見ると理解が深まる。どんな場所なのか、田畑一枚の広さはどんなものか、何を植えているのか、日の当たり方はどうなのか」


 その言葉に、太郎は思う。

 自分は心のどこかで今まで壮吉のことを、ただの病弱人と思って侮っていなかったかと。だが実際の壮吉はどうだ。背負われてでも北里村を見に行くと言い、太郎にとってただの山道も、壮吉にとって見るべきものに溢れているという。

 

 す、と小さく息を吸って、太郎は切り替えた。すると、本当に聞きたかった質問がするりと飛び出す。


「お前は、お里と結婚するのか」


「そのつもりだ。それがどうした」


 そう返されて、太郎は言葉に詰まる。壮吉もお里も、年頃の男女である。それはつまり、結婚というものを考える時期ということでもある。だがそれば太郎も同じであって、いやそれを言ってしまえば吾助もそうなのだが、つまり、要するに、なんだろう?


 言い表しようのないもやもやを心裡に覚える。


 そしてふと、思い出したのは、


「お里は……庄屋様に借金がある、と聞いたが」


「ああ。あるな、十両ばかり。懸命に働いて少しずつ返しているが――俺と結ばれればそれも無くなるな」


「しゃ、借金のかたに」


「人聞きの悪いことを言うな。別に俺が貸したわけじゃない。そんな心算も全く無い――が、ふん。傍から見ればその通りだから言っても信じてもらえんだろうがな」


 元々信吉と病死したお里の父は知り合いだったらしい。それが病だからと薬代に大金をぽんと出す信吉も人が良いに程がある、と父親ながらに壮吉も思っている。それが信吉の人徳ではあるのだが――。


「……一目惚れだったんだ」


 ぽつりと、壮吉が呟く。


「? なんか言ったか?」


「気のせいだ」


 借金返済の相談に来たお里を見て、壮吉は一目惚れしたのだ。


 父親を亡くした直後、しかも借金塗れとなってなお笑顔の絶えぬお里に、壮吉は黄色く咲いた菜の花を見た。素朴で、可憐で、しかし冬の終わりを告げて咲く花。三寒四温の漸く訪れた小春日和に田んぼの土手一面に咲く黄色い花々――冬になるとすぐ体調を崩して寝込んでいた幼い壮吉にとって、長く辛く寒い冬を乗り越えたことを言祝ぐように咲いてくれる花だった。


 返す金が無い、返す当てもないと聞いて、下働きとして雇えばよいと信吉に入れ知恵したのも彼である。でなければお里は、熊本の花街に行くということになりかねないからだった。吾助と太郎は海を渡って島原にまで行ったというが、身体の弱い壮吉にとって熊本すら地の果てに等しい彼方だ。行かせるわけには、絶対にならなかった。


 借金のかたに嵌めればお里と結婚できるのであれば、そうする。

 次期庄屋としての仕事を全うするためであれば、負ぶわれてでも。


 元より諦め続けて来た生き方だ。


 走りまわって遊ぶことも、木に登って遠くを眺めることも。


 ある時珍しく体調が良くて、木の枝を名刀に見立てて振り回していた時のことだ。そんな他愛のない事すら自分にとっては贅沢な時間で夢中になり、夢中になり過ぎて酷い喘息の発作に胸を抑えて蹲ったことがある。呼吸すらままならず、意識が暗くなる。その時彼は名刀を取り落し、一緒に色々な物も取り落し、そして自分にそれらを拾うことはできないのだと自覚した。


 人に好かれ慕われるような性格ではないことは重々承知している。


 身体の弱さに至っては言わずもがな。一里歩くことも出来なければ、田んぼ一枚田植えすることも出来ないひ弱な身体。


 そんな自分は庄屋としてふんぞり返る以外に、一体何ができる?

 だからこそ他の何を得られないとしても、本当に手に入れたいもの、失ってはならないものにだけは形振り構っていられないのだ。


 再び、一行に沈黙が下りる。


 そしてそろそろ日も傾いて弱弱しい輝きになったという頃、北里村に到着した。



  †



 北里村にある、一軒の空き家。

 そこに、太郎たち三人はいた。正確に言えば、更に二人の男たち。合計で五人である。


 うちの一人は、幸助という。宮原村の若い者で、今回太郎たち三人に先立って北里村に訪れていた。この空き家も一行の寝床として幸助が用意したものである――こんな田舎なので、旅籠なんて上等なものは無いのである。


 もう一人の老人は、北里村の取り纏めをしている老人である。囲炉裏で踊る炎に照らされるその顔、痩せこけて見えるのは気のせいではあるまい、と太郎は思った。


「それで――やはり一年ほど前、と」


 年を押すように壮吉が訪ねる。一行の顔には神妙な表情が浮かんでいた。


「あ、ああ。間違いはない。去年の夏頃じゃ、千穂という娘がある時居らなくなった。村の者総出で探して回ったが、影も形も見つからぬ。最初は駆け落ちかと思ったのじゃが……」


 その千穂という娘には、想う相手がいたらしい。


 だが、千穂の父親は相手の男との結婚を認めようとはしなかった。男の方が口先ばかりの不真面目者だったからである。北原村は、これと言って特徴のない山間の農村である。はっきり言って、貧しい。男は死んだ両親からそれなりの広さの田畑を受け継いだにも関わらず真面目に野良仕事をせず、口ばかり大きなことを言っていることで有名な法螺吹き男だったのである。


 いわく、自分はいずれ村を出て大商いを手掛ける。

 いわく、自分は剣の素質に優れているから戦で手柄を挙げるだろう。


 常々そう言って置きながら島原への出兵にあれこれ言い訳して行こうとしなかったのでまぁ、そういう男である。そして千穂はそんな男に熱を上げていて、父親もいずれ目が覚めるだろう、と半ば放置していた。


 そんな矢先、二人がいなくなった。法螺吹き男のことは皆どうでも良かったが、千穂は別である。皆で探し回ったが見当たらない。さては駆け落ちか、ということで話は落ち着いた。千穂の父親もそれだけ二人が思いつめていたのであれば……ということで渋々ながらも諦めた。


「話の風向きが変わったのは、それから一月程してからのことじゃった」


 男の方が、ひょっこりと帰って来たのである。


「父親がすごい剣幕で千穂の行方を問い詰めたが、男は知らぬ存ぜぬの一点ばりでのう」


 男と千穂は少しずつ金を貯めて、いずれ一緒になろうと約束していた。が、男はその金を持ち逃げして熊本の盛り場に行っていたのだ。いずれ大きな商いを手掛けると放言し、その実現の手始めにと賭け事に手を出して、見事文無しになった。


「最初は勝っていたとほざいておったがの」


「素人を嵌める良くある手口だ」


 と、呆れたように吾助が呟く。


「最初に気持ち良く勝たせておいて、気が大きくなったところここ大一番でイカサマ仕込んで大負けさせるんだ。胴元が金を貸してくれることもあるが、当然グルだ。そこそこ勝ってまたドカンと負ける。取り返そうと熱くなればなるほどドツボにはまる。気がついた時にはどっぷり借金漬けで首も回らねぇ」


「詳しいな、吾助」


「島原に行ったとき同じ隊伍になった奴に少し……いやいや、俺は勝ったぞ。イカサマしてきやがったからちょいとかわいがってやったら色々教えてくれたんだ。ほんとだって若様!」


 まぁいい、と壮吉は老人に続きを促した。


「ほっほ。まぁあ奴も最後は許してもらえたというから運が良かったか、相手が性質の良い類だったか気まぐれか……とにかくその男は無事――ではないのう。僅かな蓄えも無くした上野良仕事を放っておいたから田畑は荒れて、挙句千穂の父親に殴り飛ばされて前歯折れたのじゃからな。今年は去年の税の分も合わせて払わにゃならぬとひぃひぃ言うておる」


 自業自得、という言葉が一行の脳裏に浮かんだがさておき。


「そ奴のことは、まぁそれで済んだ。じゃが、駆け落ちと思っていた千穂の行方が知れぬ。あ奴も千穂に黙って出たというから、むしろ千穂の行方を知りたがったくらいじゃ」


 そこで初めて、千穂が行方不明になったのだと北里村の人々は気付いた。しかし改めて探して回ったところで、手掛かりの一つも見当たらない。そんな折に、二人目の行方不明者が出た。


「千穂より少し年下の娘じゃ。名を美代という。年端も行かぬということで駆け落ちということも無い。一緒にいなくなった男もおらぬでな。それで村中を探して回って、村の端の方で、美代が大切にしておった簪が落ちているのを見つけた」


 こんな山奥にあっては細工物一つ手に入れるにも大変な苦労をする。何時だったか父親に贈られたそれは、美代が肌身離さず身に着けていた宝物であることを、周りの大人は皆知っていた。


「涌蓋山か」


 壮吉の端的な言葉に、老人は頷いた。


「美代の簪が落ちていた先は、涌蓋のお山しかない。が、涌蓋山には地獄谷があって、猟師でなければ滅多に分け入ることも無い。畢竟、獣道くらいしかありゃしないのじゃが」


「地獄谷……湯が湧いているのか」


「うむ。匂いはさほどでもないのじゃが、長く留まっていると気分が悪くなることがあるし、雀や狸が死んでいることがある。地面が熱くなって蒸気を吹いている場所もあるぞ」


 だから、地元の者が山に入っていくことはまずありえない。腕白小僧ならいざ知らず、聞き分けの良く大人しい美代が言いつけを破るとは考えにくかった。


「それで、猟師の連中が山に入った。が、美代も千穂も見当たらぬ。人手も足りぬで、それは仕方ないことかもしれぬが、気になることが一つあった――人が、涌蓋山に居るかもしれぬ、と」


「…………」


「奥に入ったところで、人のものらしい足跡を見つけた、と言っておったでな。猟師のものでなければ、天狗か人か、とにかく得体の知れぬ誰かのものじゃな。それに、人影らしきものを見たという者もおる」


「人影か。それは、追ったりしなかったのか」


 太郎の問いかけに、老人は首を振った。


「その場に三人の猟師が居って、見たというのは独りだけじゃ。折り悪く日暮れ前で、早々に山を下らねばならない時間でもあって、藪の濃い場所であったから見間違いかも知れぬ、と本人も言っておる。じゃが……」


 老人は言葉を濁した、がその続きは言わずとも皆に伝わる。

 二人の娘が行方知れずとなり、人の分け入らない山に人影があったという。怪しい事この上ない。


「じゃが、その猟師……人影を見失ったとは言わなんだ」


 その言い方に、皆が訝しんだ。


「見失ったのではなく、こう、すうっと――幽霊のように、消えたのだと」


 ぱちり、と囲炉裏で薪が小さく爆ぜた。一瞬それが自分の心臓が跳ねた音だと太郎は錯覚し、思わず胸を掴む。


 奇遇なことに、太郎はすうっと姿を消すという人物に心当たりがあったからである。




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