二 夫婦滝にて
†
太郎は、この年で二十二となる青年である。
田ノ原村の者たちが皆、揃って首を傾げる特徴が彼にはあった。
力が、強い。
確かに人より少しばかり背が高いかもしれない。体の肉付きもがっしりとしている方だ。だが、背負子に米俵に漬物の入った樽も乗せ、更に干した野菜やら鍋やら炭が入った麻袋やら、こんもりと括り付けてけろりとする。他の者であったら、全くびくともしないような重さだというのにだ。
丹田にぐっと力を込めて立ち上がる。ずっしりとした重みが肩に圧し掛かるが、よろめくことなく太郎は立ち上がった。周りにいた村人たちから感嘆の、或いは呆れたような声。
「お主ゃ大八車かい」
長老の呆れ声に、周りの者たちもうんうんと頷いた。
そんなことを言われても、と太郎は頭を掻くしかない。
「それじゃ行ってくる――」
大荷物を背負った太郎は歩き出した。目指すは小国郷の中心部である宮原村である。
これが、田ノ原村の太郎が文字通り背負う生業だった。人足――というには、ちょっとばかり他より一度に運ぶ量が多すぎるが。
肥後の最奥地、小国郷の中でも田ノ原村は最も険しい山間部に位置する。南には阿蘇の盆地があるが、それを囲む外輪山の北の外側と九重の山の連なりの合間にあるのだ。
勿論、人が住んで往来があるのだから道はある。だが一部では長く急な斜面が続くので、車を牽く牛馬でさえ何度も休憩を挟まなければならないのだ。そこを、太郎は平気な顔でひょいひょい歩く。この足腰の強さは最早尋常のものではなかった。
季節は春。まだ時折冷たい風が吹くが、身を切るようなそれではなくどこか柔ら
かさを感じる。陽光にも力を感じる。草花が芽吹き、冬の間遠ざかっていた土や草の匂いを感じる。
さすがの太郎も、雪の積もる冬の間に行き来するのは難しい。
今年最初の宮原参り。
春が来たのだ。
太郎の行く道は崖の上を通っている。崖下を覗けは勿論川がある。田ノ原川――つまり太郎の家の傍にある、あの川が。
道なりに進んで行けば、橋がある。
田ノ原川ではなく、小田川に掛かる橋だ。
小田川は田ノ原川と同じ方向に上流があるが、その源を異にする。田ノ原川が阿蘇の北、豊後の九重連山側から流れてくるのに対し、小田川は阿蘇の山々に降り注いだ雨が一つとなって流れ来る。
その二つの流れが、この橋の下で一つに合流する――二つの滝があるのだ。
轟々としぶきを上げる二本の滝はそれぞれが滝壺を持ち、溢れ出る水流は一つになり西に流れ出る。やがてそれは、
「あー……」
島原に行軍するときに得た知識だった。熊本の城下町から来たというお侍に教わったことだが、やがて田ノ原川は筑後川と呼び名を変え、いずれ不知火海に流れ着くのだ。
その不知火海を渡った先にある島原で刀を振り回していたのは、ほんの一年ほど前の事だった。
田ノ原村の長老は、生まれてこの方海を見たことが無いという。
太郎も初めて海を見た時の衝撃と感動は、未だに忘れることはできない。毎日顔を洗っているあの川が、この海に繋がっているのだと知った時、確かに太郎の世界は広がった。
だが――その感動は、戦の過酷な現実と父平蔵の喪失という余りにも苦しいものと結び付けられてしまった。礒の香り、寄せる波飛沫、そして潮騒。それらを思い出すとき、必ず積み重なる死体と流れ出る赤い血、噎せ返る死臭を傍に感じてしまう。
今でも思い出すたびに、胸を掻き毟りたくなる。できることなら募兵に応じたあの時の自分をブン殴ってでも止めたい。
そうすれば……。
そうすれば、父は、死ななかっただろうか?
判らない。
家に隠してあるあの刀。
太郎の無謀を止めるどころか、自らも年甲斐もなく募兵に応じた父。
父の年齢を知って躊躇うお役人に何かを囁き、それで許しを得たのだ。何を囁いたのかは教えてはくれなかった。
あの時の平蔵の顔――奥歯を噛み締め何かを決意した瞳。
太郎が行かなかったとしても、平蔵は一人で行こうとしたのではないだろうか。それは、なぜ?
あの日の、原城落城の日のことを太郎は今でもはっきりと覚えている。
あの老人――宗意軒と呼ばれていた。父は三右衛門とも呼んでいた。二人が知己であったのは間違いない。だがあの老人は一揆勢であるはずだ。でなければ平蔵や太郎を攻撃して、しかも海に逃げる必要などない。
二人の関係は一体、なんだ?
田ノ原川で得た知己とすれば、ありえなくないが、太郎が知らないというのは不自然だ。そう考えれば、太郎も知らない平蔵の昔日が関わってくるということなのだが。
そんなとりとめもないことを考えながら橋を渡ろうとすると、
「おーい、そこの太郎どん。宮原参りかい? こっち来て水でも飲んでかないかい?」
滝の轟音にも負けない、大きな声で呼びかけられた。
その方を見ると、長い髪を掻き上げる仕草もどこか婀娜っぽい長身の女が川べりから太郎を見上げていた。その横には着物の裾を捲った美しい少女が岩に座って足を流れに浸しており、太郎と目が合うとぺこりとお辞儀した。
†
「はい、お水」
「……どうも」
差し出された湯飲みを太郎は受け取った。
水を飲んでいかないかと言われて出された湯飲みには、水が並々と注がれている。いや、目の前の滝壺から溢れる水をたった今、湯飲みで直で汲まれたものなのだが。
濡れた湯飲みと、中の水はとても冷たかった。雪解けの水が混じっているからだろう。喉を潤すその冷たさが胃の中に落ちて、火照った体と空回りする頭を冷やしてくれるのを感じる。
「いい飲みっぷりだねぇ! おかわり要るかい?」
「……お願いいたします」
酒ならともかく水を一気飲みして褒められるのはどうなんだろう、と思ったが口には出さない。或いはこの人にとっては酒も水と変わらない、ということだろうか?
太郎に水を差しだした女性は、お紅と言った。他でもない伽羅の妻である。
夫婦揃って変わり者で、この二つの滝壺の直ぐ傍に小さな草庵を結んで住んでいる。なお、旦那の伽羅同様、笊と勝負して勝てるのではないかとまことしやかに噂されるのんべぇの片割れである。
そして。
「……どうも、お久しぶりです太郎さん」
「……どうも、お里さん」
滝壺の淵、太郎の横に座ってぺこりとお辞儀をした少女――お里。
半年ぶりに出会う彼女は、記憶の中の可憐さを徐々に失い、そして今まさに蕾から花開くような美しさを身に纏っていた。
仕事柄小国郷のあちこちを歩き渡る太郎だが、そのどこにも彼女ほどかわいらしい少女はいないと思っていたが、それは今や確信に変わっている。でなければ、どうしてこうも彼女の顔から目が離せないだろうか。
じっと見られていたお里が小首を傾げた。
「どうしましたか太郎さん。私の顔に何かついてますか」
「目と鼻と口と、あと……泥とかたくさん」
「はわっ」
だが、どういうわけだか顔や服に泥やら枯葉やらが纏いついている。
お里は、太郎の田ノ原村の直ぐ南隣にある小田村に住む村娘だ。
小田村は阿蘇外輪山の外側斜面にある。田畑にできる平地が少なく、木々を切り炭を焼き生計を立てる者が多い。お里の父親もそうした炭焼き職人の一人だったはずだ。
「どうしてここに」
「んー、これ見てくださいよ」
ぱしゃっ、と流れる水に浸けていた左足を持ち上げる。真っ白な足先から飛び散る水滴の一つ一つが春の日差しを反射して煌めいた。
が、太郎がその艶めかしい足に気を取られたのは僅かな間だけだった。不自然なまでに腫れた足首に気が付いて、太郎は思いっきり顔を顰めた。
「どうした、それ」
「挫きました。あはは、やっぱり人間欲かいちゃ駄目ですね」
「まったくだよ、このお馬鹿」
新しい水を汲んでくれたお竜さんが、お里の頭を小突くふりをする。
「わー、ごめんなさいてお竜さん。次からは気を付けますから。イタイイタイ」
事情を聞けば、単純な話だ。
お里は山菜採りのために朝から山に入っていたのだが、籠一杯になるまで夢中になって摘んでいて、足を滑らせた上に酷く挫いてしまったのだと。
「欲をかいた、ね。なるほど」
太郎の視線の先には、確かに山菜で一杯になった背負い籠だった。蕨、薇、芹、独活、他にもたくさん。
「いやぁ、雪解けの所で蕗の薹見つけてつい足元が疎かになつてしまいました」
「それで山の中で這いずっているところを見つけて、私が拾ってきてやったと」
「ええもう、お竜さんには足を向けて眠れませんとも。軽く命の恩人ですから」
「道理で泥だらけのわけだ……さて、そろそろ俺は行きますよ」
あまりのんびりしては帰りが遅くなる。
「ああ、太郎どんちょっと待て。行くならコイツも背負って行ってやってくれよ。どうせこいつ、今日明日は歩けねぇ」
と、お竜さんがお里を指さす。
「えっ、そんな、悪いです」
「それは別に構わないですけど。俺が今から行くのは宮原村ですよ」
宮原村は田ノ原村とその南隣である小田村の西にある。方向が真逆だ。
「それでいいんだよ。今お里は、宮原村の庄屋ンとこに奉公に出てるんだからな」
軽い口調で、お竜さんはそんなことを言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます