壱 田ノ原村の太郎どん

一 奥の院の不動明王


  †


 どうどうと轟く水音が、意識に触れる。


 余りに耳に馴染み過ぎて、もはや体の一部にすらなっているのかと思えるその音を意識して、ようやく太郎の意識ははっきりとしてきた。


 酷い寝汗だった。薄い布団を引っぺがして起き上がった太郎は土間に下りて、瓶の中に柄杓を突っ込んだ。汲んだ水を飲み干して大きく息を吸うと、乾いた体に潤いが戻ったような清冽な気分になった。


 夢を、見ていた。


 それも飛び切りの悪夢だった。

 尚質の悪いことに、ただの夢ではなく現実に起きたことであった。

 そう、夢などではない。あの原城での戦いは、関わった誰にとっても夢か何かであって欲しいと願わずにはいられない類のものだった。どんな悪夢も、目が覚めてしまえばなかったことになる。現実はそうではない。


 太郎は体の中に残った澱みを追い払うように伸びをして体を解すと、床の一角を外す。そこに隠してある父の形見である刀を掴んで外へと出た。


 肥後国小国郷は、田ノ原村。


 阿蘇の外輪山を超えて更に奥、豊後との境にほど近い川沿いの山村だ。その中でも更に外れに太郎の家はあった。ちょっと斜面を下りればすぐそこが川面だ。


 田ノ原川は今日も変わることなく、轟々と流れている。山奥の川の例に漏れず流れは急で、大人の背丈を超える岩が無数に転がっている。もっと下流では穏やかな流れというのが、ちょっと信じられないくらいだ。


 季節は、ようやく春。

 雪が解けて草が芽吹き出し、地面から虫たちが顔を出すころだ。


 山間のこの村ではまだ冷たい風が吹きそこらに雪も残っている。その澄んだ冬の名残のような気配の残る川の畔でばしゃぱゃと顔を洗うと気分もさっぱりして、残っていた眠気も吹き飛び頭がしゃっきりしてくる。空を仰ぎ見る。まだ早朝と呼ぶにも早い時刻。薄明が僅かに東の空を染めている。


 そのまま太郎は川べりに転がる岩々を乗り越えながら、上流へと向かって行った。


 太郎の家から川沿いを暫く上流に向かうと、田ノ原川本流に流れ込む支流がある。合流地点から覗き込むと、朝の訪れを拒むかのような薄暗い森と渓流があるのだった。


 幽境――そんな言葉が、ちらりと頭の片隅に浮かぶ。


 彼岸と此岸、あちらとこちら、その境。


 同じ山中といっても、ここまでとここからとでは、意味が違う。山奥の村といっても、それは人の暮らす場所だ。ここから奥は、そうではない。そのことをはっきりと意識する。


 太郎は一礼すると、躊躇いなく奥へと踏み込む。慣れた手付きと足取りで太郎は進んだ。時に大人の背丈など軽く超える岩を乗り越え、時に渓流の斜面にある立ち木を掴んで。その頃には目覚めの時に体中を覆っていた粘るような嫌な汗は流れ落ちてしまっている。


 家を出て半刻程して、太郎はようやく目的の場所に辿り着いた。


 森の一角が抉り取られたかのように、開けていた。

 崖に囲まれ天から朝日が降り注ぐその場所を睥睨する最奥の位置に、太郎が目指した目的がある。


 それは、苔むした岩に鎮座していた。


 憤怒の相。溢れるばかりの怒りを湛えた瞳で太郎を睨みつける。

 背負うは炎。人間界の欲望や煩悩を焼き尽くす聖なる火炎。

左には迷える人々を救い悪鬼を捕らえる羂索を握り締め。

 右には退魔と煩悩を断ち切る降魔の三鈷剣を握り締める。


 不動明王像が、そこにあった。

 


 村の人々はこの場所一帯のことを、『奥の院』と呼んでいた。

 その最奥に鎮座する不動明王像が、一体何時、誰の手の手によってもたらされたものなのか太郎は知らない。村の長老が生まれるずっと前からある、ということを聞いたことがあるだけだ。


 とにかくこの不動明王様は、ずっと昔からこの場所にあって、人の世を見つめ続けていたのだ。


 その視線を受けると、太郎は自分の心がすっと引き締まるのを感じる。怒りの形相は人心を惑わす悪鬼羅刹や、留まることのない人々の煩悩を睨みつける。こうしているだけで、太郎は体内に残る良くないもののが追い出されるような気さえしていた。


 明王様の正面、一際大きく平たい岩の上に立つと太郎は、家からここまで携えてきた刀を抜いた。


 大きく振り被り――裂帛の気合とともに振り下ろす。

 横薙ぎ、逆胴、袈裟切り、切り上げ、唐竹――

 一振り一振り、一心に。


 自分の中に残る澱みを切り落としていくように。

 無心で、太郎は刀を振り続けた。


 朝靄の漂う森の中に、せせらぎの音と空気を切り裂く音が溶けていく。


  †


 どれだけの時間そうしていただろうか。

 背後から拍手される音を聞いて、太郎は刀を振るう動きを止めて振り向いた。


「やぁ、見事な腕前だな太郎どん」

「伽羅さん」


 一人の男が、向こうの岩に立っていた。

 背が高く、腰まで届く髪を無造作に背中に垂らしている。こんな山奥で歩きにくい――というかそもそも道らしき道すらないのに、何故か着流しである。山奥の渓谷、大の大人が見上げる程巨大な岩がごろごろ転がっている場所を超えてきたはずなのに裾に泥の一つも付いていないのはどういうわけか。


 伽羅と呼ばれた男は気楽な動作でひょいひょいと岩を飛び歩いて、直ぐ傍までやってきた。


「こんな所で会うとは奇遇だねぇ」

「奇遇って……それ、本気で言ってますか」


 この奥の院にある不動明王像の事は、田ノ原村の人でも知ってる者の方が少ない。一種の聖域のような扱いをされているのである。そんな場所で奇遇も何もあったものではない。


「ま、細かい事は気にするなよ。早く老け込むぞ」


 アンタにだけは言われたくない、と太郎は思った。


 正体不明な男だった。


 まず、何を生業としているのか判然としない。

 太郎がそうであるように、田ノ原村の住民の殆どが百姓だ。田畑を耕して糊口を凌いでいる。太郎は別の役目を請け負うことがあるが、それは例外だろう。だがこの男が畑を耕しているところなど一度も見たことがない。いや、そもそも畑を所有しているのだろうか?


 かと言って誰かに雇われているということも無いようだ。


 勿論武家であるとか、裕福な商家に縁ある者ということも無いらしい。


 田ノ原川を下ったところにある、大きな二つの滝の傍に小さな居を構えて嫁と暮らしているのだが、日がな一日欠伸しながら釣りをしていると聞く。


 かと思えばふらりといなくなったりする。ひと月もいない日が続いたかと思えば、村の者が集まって酒盛りでもしようとすると、どこで聞いたかひょいと現れ、山女魚やら岩魚やらを手土産にいつの間にか勝手に加わる。


 そもそも年齢すら不詳の男である。

 太郎より年上である――のは、多分間違いない。

 しかし太郎が幼い頃の記憶より、全く老けた様子も無い。


 正体不明で神出鬼没。

 あるいは神仙の類ではないのか。村人たちはこの夫婦についてそんな噂している。もしくは物の怪の類か。その割には余りにも害も無い――蟒蛇も裸足で逃げ出すほどの大酒呑みであることだけはいただけないが。


 どうにも嫌うに嫌えない、不思議な男として田ノ原村の人たち、あるいは小国郷一帯の者たちに受け入れられていた。 


「今の型稽古だが、まさか我流ということもあるまいね。お父上に習ったのか」

「……幼い頃に」


 答えて太郎は、手にした刀に視線を落とした。

 父平蔵の、形見の刀だった。

 曇り一つ無い刃に、自分の目元が映りこむ。


 一年前――そう、もう一年も経つという事実に、少し驚きを覚える――あの地獄のような島原で、平蔵は死んだ。殺された。


「伽羅さんは、父の事を何か知らないでしょうか」


 ふと零れ落ちるように出てきた問いに、伽羅は面白そうな顔をした。


「異なことを尋ねるね。何かとは何だい」

「俺は、……父のことを良く知らないのです」


 平蔵は寡黙で無口な男だった。いっそ言葉を知らないのかと思える程で、息子の太郎が話しかけても「おう」とか「いや」とかくらいしか応えない。しかし、言葉少ない人間が思慮に欠けているとか思いやりがないのかと言えば、またそれも違う話であって。


 例えば田んぼを広げるために、村人総出で木を伐ろうという話になったとする。その時、誰よりも早くにやってきて仕事を始め、誰よりもたくさん斧を振るうのは決まって平蔵だった。

 謹厳実直とは平蔵のためにある言葉のようですらあった。


 その一方で、太郎は父方の親戚の誰かに会ったことが無い。

 幼い頃に亡くなった母お夏の親類が数名、同じ小国郷にいて、太郎も何度か世話になったことがあった。だが、父方の親類のことは、なにも聞いたことが無いのだ――無口な父は、特に自らの出自の話になると不機嫌になり、殊更口を聞かなくなるのが常だった。


 太郎がそう語ると、伽羅は何やら思案して、答えた。


「俺もそう詳しいことを知っている訳ではないが……お夏の父親――つまり太郎どんの御祖父どのだな――が、平蔵どんが行き倒れていてるところを助けて、そのまま居ついたというのが二人の馴れ初めだったな」


 と、まるで当時のことを実際に見ていたかのように言う。だから村の長老がガキであった時分にねしょんべん垂れたのを知っている、などとまことしやかに噂されるのだ。


 伽羅の態度はさておき、その話は太郎も聞いたことがあった。例の如く話をしたがらない平蔵ではなく、母お夏の口からであったが。


「その頃の平蔵どんは野良仕事をしたことが無かったらしく、田植え一つで四苦八苦していたようだ。……その刀をどこに行くにも肌身離さずであったから、まぁ出自はそういうことなんだろう」


「武家であったと」


「誰に仕えていたのかまでは知らんが、多分」


 太郎の脳裏に、殆ど毎朝欠かさず、型稽古を繰り返していた父の背中が思い浮かぶ。幼い太郎はそれを見様見真似で覚えて、木の棒を振り回していた。おい太郎、そうじゃない。こうするんだ――と、不器用に型の一つ一つを教えてくれた父は、珍しく口の端に笑みを浮かべていた。


 だから、ずっと、今でも。

 太郎の視線が、手にする刀に落ちた。



 

 今日は村長のところに行かねばならないと言って、太郎は去っていった。


 岩を乗り越えて渓流を下っていく太郎の後姿を、適当な言い訳でその場に残った伽羅は微笑ましい気持ちで見守っていた。


「悩めるのは若者の特権って奴だねぇ」


 こんな山奥の小さな村でも、人々が生きていて懸命に暮らしを紡いでいる。

 彼はそれを見守るのが好きだった。


「それはさて置き――ご報告いたします」


 それまでと打って変わって、伽羅は浮かべた笑みを消して真剣な表情を見せた。頭を垂れる先にあるは、不動明王像。


「ご懸念の通りでございます。……はい、恐らく、北にて」

 

 ようやく雪も解け春を迎えた啓蟄の頃。

 冬篭りを終えた異変が、その鎌首をもたげようとしていた。

 




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