太郎とお里と夫婦の竜 ~島原天草ノ乱ヨリ這イ出シ大蛇~

入江九夜鳥

零 原城の陥落


  †



 寛永十五年、二月二十四日。

 

 明け方まで降り続いた雨のせいで、足元は泥濘と化していた。ようやく暖かくなってきた時候というのに、草鞋に冷たい泥水が染み込む――赤色に濁った泥水が。


 絶叫と怒号がない交ぜになり、辺りに充満している。銃声と砲声。土塀の上で弓を構えていた農民が額を吹き飛ばされて、血と脳漿を撒き散らして倒れた。あらぬ方向へと飛んだ矢は地に伏せていた老人の死体に突き立った。


 地獄というものがあるとすれば、それはこの日、この場所のことだった。


 阿鼻叫喚という言葉も生温い地獄絵図。 

 瘦せこけた農夫が鍬を振り回している。目を血走らせながら。足軽たちは三人四人がかりで槍で牽制し、注意を逸らした瞬間背中に穂先を突き立てる。激痛、絶叫。半ば狂乱状態の足軽たちは次々に、そして何度も男の体に槍を突き刺す。傷口から溢れ出る血と、腹から零れ落ちる腸。死にゆく農夫はどこか満足げに、天へと向かって右手を伸ばす。左手は、首から下げた十字架を掴み、先に逝った妻と子の、そして神の聖名を唱えて絶命した。


 別の農夫は、膝をついて一心に祈りを奉げている。先祖伝来の立派な鎧に身を包んだ若い侍が刀を振り上げ、無防備に晒された首筋に叩き込む。しかし、人体において最も太い脛骨を叩き切るのは落ち着いていても難しい。戦場という、究極の混乱状態にあっては尚の事、血脂に塗れた刃であっては尚の事。まるで斧で大木を切り倒すかのように侍は何度も何度も刃を叩きつける。血反吐を吐きながらも農夫は祈りを止めず、ついには首を落とされてさえ組んだ手を解くことはなかった。


 半ば狂乱状態だった若い侍は転がった首を見て、ようやく落ち着きを取り戻す。そして腹の底からどす黒い絶望がせり上がってきて、たまらず悲痛な慟哭を上げる。ここに若い彼が幼いころから抱いてきた戦の憧憬など欠片も無かった。誇り高き侍同士の名乗りあいも一騎打ちもない。颯爽と敵陣に乗り込んでは名高き武将の首級を挙げる自分の姿もない。


 あるのは無抵抗の一揆兵に刀を何度も振り下ろす、泥だらけで情けない自分の姿だけだ。……いや、兵などと言って誤魔化すこともできない。彼らは、武装しただけの、農民だった。鍬や鋤、或いは鎌、包丁で武装した農民だ。そんな者たちとの戦いの果てに、どんな栄誉があるというのか。


 虐殺が、そこにあった。

 屍が山を為し、流血は河を為す。


 肥前島原は、原の廃城。

 切支丹たちが神の国創設を求めて立て籠った城その周辺一帯こそ、地獄の顕現した場所であった。

 十二万を超えて布陣した幕府軍の総攻撃。ひと月以上続いた兵糧攻めの末のこと。三万を超える切支丹たちは飢えに飢え、ろくに抵抗も出来ない有様だ。しかし、狂信の域に達した信仰心は彼らを縛り、死へと追い立てる。最期の最期までデウスの名を叫びながら鍬や鋤、果てはただの棒まで振り回す。鏃のない先を尖られせただけの矢を投げつける。或いは全てを諦めたのかオラショを唱えながら頭上に刃を振り下ろされるのを待っている。


「親父、親父! どこだ、親父!」


 数打ちの刀を知らず強く握りしめながら、太郎は生と死の間、阿鼻叫喚の戦場を走り回っていた。細川藩の足軽として参加したこの総攻撃。農民兵たちとのもみ合いになり、同じ伍隊を組んでいた父親とはぐれてしまっていたのだ。


 横から現れた敵に唾を飛ばしながら鍬を振りかぶって襲い掛かかられた。とっさに振るった刀が陽光をきらめかせて、一揆兵の両腕を切り飛ばす。血飛沫と絶叫。頭の片隅に苦い感情を覚えるが、それでも太郎は晒された喉に刃を突き立て、切り裂く。


 吐く息も荒く顔に掛かった返り血を拭って、太郎はたった今物言わぬ骸と化した男を見下ろした。男は、老人であった。殺したことの罪悪感などとっくに感じなくなっていた。もう既に何人も手にかけている。

 

 それよりも危機感の方が強い。先ほど不意を突かれ鉈で襲われた。とっさに避けたが頬をかすめた。首筋を彩る赤色は返り血ではなかった。いくら味方の方が数が多く優勢といっても、自らの死もまた直ぐそこにあるのだ。


「おい、貴様。国か国!」

「お、えっ……く、国か国!」


 突然背後から怒鳴りつけられて、太郎は一瞬戸惑い、答えた。国か国とは敵味方を識別するための合言葉だ。答えられなければ味方の幕府軍に斬りかかられていたかもしれない。


 振り返れば、細川家の九曜紋の旗差しを背負った侍が立っていた。太郎と同じく、返り血を浴びている。


「何をぼさっと突っ立っておる。突撃の号令が聞こえなかったのか。隊伍の者たちは」


「は、逸れてしまって」


「そうか。本丸の城門が開いたらしい。間もなくこの戦も終わるだろう……大物首を取ればお前も細川様に取り立ててもらえるかも知れんぞ」


 曖昧に頷いて、太郎は侍の後について駆け出した。そして別の味方たちと合流したところで父を探すために一群から離れた。戦に参加すると決まって少しばかり夢想していた立身出世の妄想などとっくに吹き飛んでしまっている。そんなことよりも今は、阿蘇の向こうにある故郷田ノ原村に父とともに帰りたい。

 ぐいと頬の血を拭うと、血のそれに混じってかすかに土と泥の臭いがした。


 原城は、海にせり出した丘陵の上にある。

 斜面に沿って二の丸や三の丸、或いは出丸が配置されているのだが、城門を突破された今となっては場内でもまた虐殺の嵐が吹き荒れていた。必死の抵抗を続ける者、諦めてひたすら南蛮の言葉で祈りを奉げる者。年若い者、年老いた者。

死体の数は城門の外より尚多い。


 城外ではまだ戦いと呼べるものであったが、城内ではもはやただの殺戮でしかなかった。侍に率いられた足軽たちが、数人掛かりで一人を殺す。念入りに殺している。麻痺しきった太郎の感性は、それを見ても非道と思わなかった。助けようなど更に思わない。見渡す限り一面にそうやって殺された農民たちの死体が重なっているからだ。

 

 天草と島原から集まり、原城に立て籠った切支丹ら三万人、或いは三万五千を超すとも言われる数の人々が、鏖にされようとしている。敵は全て殺せと、この総攻撃の事前に命令もされていた。それに背いてたった一人や二人助けようとしたところでどうなる?


 そんなことを鈍った頭で考えて、太郎はふと自嘲染みた笑みを浮かべる。

 今まで見たことのない何万という人々の数。それが悉く殺しつくされようとしている。仕方ないものと割り切ってしまっているのに、たった一人の父親を捜してさ迷っている自分の行動に矛盾と滑稽さを覚えたからだった。


 この時太郎は、人の命が平等でも何でもないのだと知った。太郎にとって反乱を起こした切支丹たちの命数万より、父親の方が大事だと心の底から思えた。太郎が知る由もないが、それはある意味で万人の平等を謳う切支丹の教えと真逆に近い考えであった。


 本丸に続く緩い登り坂と、本丸の裏側に続く緩い下り坂の分岐で、太郎は一瞬迷った。視線を巡らせば幕府軍が大挙して押し寄せる本丸前ではまだ戦闘らしきものが続いている――どうやら文字通り最後の砦となった本丸で、敵総大将である益田何某らは決死の抵抗を続けているようだ。


 何の根拠もなく、太郎は、本丸の方に父はいなさそうだな、と思った。


 傾斜を下り、死体を踏み越えて、人の流れに逆らって道を下る。時折同じ細川藩の者や、別の藩の者たちから何をしているのか聞かれたが、逸れた身内を探していると答えればすんなりと通してくれた。合言葉があったし、すでに大勢は決してしまっている。武勲を求める者にとっては今が最後の機会だ。足軽一人などに構っている場合ではない。


 海岸にまで下りて本丸の方を振り仰げば、そこは切り立った崖となっていた。足元は岩場で、大きく尖った岩がごろごろと転がっている。ここにも多くの死体が積み重なっていた。大方本丸に籠城していたが最後になって逃げようとして、崖から落ちてしまったのだろう。違いと言えば女子供の死体が多く混じっていることだろうか。年端もいかない幼児の遺骸から目を逸らす。


 そんな凄惨な場所、強い潮風が吹く磯部で、太郎は波打ち際に、刀を構えて誰かと向かい合い言い争う足軽の姿を見つけた。陣笠には九曜紋。同じ細川藩の証がある。直感的に、それが父の平蔵であると気が付いた。


 父は、なにやら相手に怒鳴っているようだった。相手は小柄な老人で、真っ白な総髪を風に吹かせるに任せている。この距離であるというのに――太郎は、その顔がはっきりと見えた。いや、正確に言えば見えたのではなく、皺だらけのその顔に備えたぎょろりと狂気を湛えた瞳、そこから発される気迫を受け取ったのだ。


 激高する父と、老人は太郎の存在にも気が付かず言い争いを続けている。耳打つ風に二人の言葉が聞き取りにくい。何か……理想、とか、殿の御遺志、とか。


「三左衛門どの……!」


「しつこいぞ!」


 老人が手にした杖を振りかざした瞬間、太郎は目を見開いた。父の背後、突如何もないはずの虚空から男が一人するりと現れたのだ。岩の陰に隠れていたのではなく、湧いて出たかのように。


 現れた男は、抜身の短刀を父に向けた。


「危ない、親父、後ろ……!」


 咄嗟に叫んだことで平蔵が振り返った。その瞬間の不意打ち。白刃が胴鎧の隙間から差し込まれ、平蔵は血を吐いた。


「親父ィ――!」


 崩れ落ちる平蔵に向かって、太郎は全力で駆け出した。途中拾った石を湧いて出た男に向かって投げつける。男は難なくかわすも足場の悪さに体勢を崩して、その間に太郎の接近を許した。渾身の力を込めて、太郎は刀を振るった。男は短刀で弾き返すも、太郎の膂力に再びよろめいて目を見開いた。


「こいつ、なんて馬鹿力だ」


 男と平蔵の間に躍り込んで、二度三度と刀を振るう。男は短刀で防いでいたが、太郎の馬鹿力に短刀を弾き飛ばされる。


「あ――がッ!」


 返す刀が閃いた瞬間、空中に赤い血が舞う。男の顔に大きな過り傷。しかし、浅い。よろめいたところに、大上段に振りかぶった太郎がとどめに襲い掛かる。

 貰った――しかし、視界の端に、輝く何かが飛来するのを認めた。


 火の玉!?


 それは赤熱する、火炎の玉だ。高速で飛来するそれがぶつかった瞬間、太郎は爆発とともに吹き飛ばされた。勢いよく岩に頭からぶつかった。視界が真っ白に染まり、意識が朦朧とする。全身を打ち付けたせいで骨が軋み、体が動かない。


「……このクソ餓鬼、殺してやる」


 太郎が切り裂いた顔の傷を抑える男は、太郎が取り落とした刀を手にする。


「良い、捨てておけ刑部」


「しかし、お師匠様――」


「それよりも今は」


 ちらりと老人は崖の上を見た。ぎしり、と憎しみすら込めて歯を噛み締める。


「この場を離れることの方が先じゃ。……徳川め、どこまでも儂と行長様の理想を邪魔しよるか」


 男と老人は身を翻すと、海の方へと歩いていく。岸べに、先ほどまでなかった小舟が何艘か。それには数名の黒衣を纏った男たちが乗り込んでいた。


「宗意軒様、さぁ早く」


「わかっておるわい。……出せ」


 宗意軒と呼ばれた老人が命じると、小舟は沖に向かって進みだす。傷の男が何やら呪文を唱えるとその姿が蜃気楼か何かのように揺らめき、消えた。


 呻きながら太郎は身を起こした。逃した老人たちのことは気がかりだったが、それよりも父親だ。よろめきながらも太郎は倒れ伏す父の元に向かった。


 果たして平蔵は、顔面を蒼白にさせていた。体を起こさせると夥しい量の血が太郎の手を濡らす。深く抉れた傷は肺腑まで届いていたようだ。平蔵が咽て大量の血を吐いた。


 致命傷。


 その言葉が脳裏に浮かび、太郎は顔をしかめた。


「親父、おい、しっかりしろよ!」


「太郎……か」


「大丈夫だ。大したことは無い。すぐに良くなるから」


「は、気休めにも、なら、ねぇ……それより、太郎。あの男を……三左衛門殿を……と、とめ、ろ」


「三左衛門? あのジジイだな!? あのジジイは一体何なんだ!?」


「か、過去の――亡霊……」


「亡霊!? どうゆうことだ、しっかりしろ、親父!」


 だが、太郎の言葉は最早、殆ど届いてはいなかった。

 平蔵は太郎の顔を見上げ、その向こうへ視線をやって――


「お夏――ああ、そこにいたか……行長様、こ奴らが家内と倅です……」


 平蔵の目から光が消える。体から力が抜ける。


「親父! おい、親父! 親父!」


 揺すっても声を掛けても、永久に応じることは無い。


 その時、大気を震わせる程の歓声が崖の上から轟いてきた。思わず見上げる。――戦が終わったのだと太郎は直感的に悟った。恐らく、一揆勢の総大将である益田四郎時貞の首級が挙げられたのだ。


 どこまでも高く澄んだ青空に流れる白雲。

 大地と大海を染め上げる程流された鮮血。

 太郎の絶叫は、天まで届けとばかりに上げられた勝鬨にかき消され誰にも届くことはなかった。


 こうして後に島原天草の乱と呼ばれる、日本史上最大最後の一揆は終息する。

 参加した切支丹の総数は女子供を含めて三万とも三万五千を超すとも言われる。幕府方総攻撃の前に離反し逃げ出した者が僅かにいるとされるが、彼ら切支丹は原城陥落後、降伏した者まで全て


 全て、処刑された。



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