四 蛇毒
†
森宗意軒の心は今、喜悦に満ちていた。
人生の後半生、その殆どを費やした願いが今まさに叶おうとしているのである。
二十年近くの間を天草に潜伏し、人々の間に鬱憤をため続けさせた。
手足となって働く十二人の弟子たちを集め、教導した。
一揆を起こさせ、それを糾合し島原での大虐殺へと発展させた。
そうして呼び出した悪魔王青焔魔をこの世界に定着させるため若い乙女の命と、弟子たちの魂まで奉げた。
そして自分が告げた願いを、白き悪魔の王は確かに受けたのである。
「青焔魔様」
『では先ずその手始めとして』
すいっ、と何気なく。
悪魔王青焔魔が手を掲げた。
その手に握られている――赤黒い血の滴る、心臓。
『この国に生きる全ての人間を殺し尽くすその手始めに』
「え」
違和感。
宗意軒は、自分の胸を見た。
音も無くいつの間にか切り裂かれ、心臓を抜き取られていた胸を。
『先ずはきみを地獄へと案内することにしよう。ああ、安心したまえ。特別に痛みは感じないようにしてあるから。ほら、痛くないだろう?』
いっそ慈愛満ちると言い表せそうな優しい笑顔を浮かべて、青焔魔の白い手が心臓を握り潰す。
声にならない絶叫をあげて、森宗意軒の身体が崩れ落ちた。
「…………」
その間、太郎は呆然としていた。
太郎だけではない。お里は勿論、伽羅も、お紅もだ。
突然の出来事に思考が付いていかない――
「お、お前っ……そいつ、仲間じゃ、」
『仲間? 私とこれが?』
本当に不意に、心外なことを言われた。
そんな表情だった。
『仲間というのは、互いに助け合い支えあう関係を言うのです。私は悪魔ですよ? 魂を代償に人知及ばぬ願いを聞き届けたり、人の心に甘い誘惑を呟いて堕落に導く存在です。そんな私が、人間を仲間などと』
「でも、お前はっ! 森宗意軒に呼びだされたはずだ!」
『その通りです。言わば雇用と被雇用の関係ですね。お支払いは人々の魂、そして血と肉。ええ、景気よく支払っていただきましたとも。もっとも儀式が不完全だったせいでこの此岸に定着できず、追加の魂が必要だったのですが』
「だったら、なんで殺す! 雇い主というなら――」
青焔魔が心の底から分からないと、いうふりをして芝居がかった仕草で小首を傾げる。
『ふふ、だって彼は言ったではありませんか。この島国の人々の悉くを、南の果てから北の果てまで殺し尽くせと。ええ、途方も無い大仕事です。四万なんてものじゃない。数百万か、数千万か。私でも頑張らなければ中々終わらせることのできない難事ですね』
だから手始めに。
『一番近いところにいた彼から――ね』
そのいっそ無邪気とすら言える笑顔。
太郎はこの時、世界に在ってはならない邪悪というものを見た。知った。
「貴様ぁぁあああああああ!!」
湧き上がる感情に、太郎は手にした剣を強く握りしめた。巻き起こる業火が全身を包み、その勢いで飛びかかろうとして、
「!?」
できなかった。
太郎の足に、平蔵の顔であった腕――が形を変えた白い大蛇が巻き付いている。大口を開けたそれが、牙を太郎の身体に突き立てた。
冷たい何かが身体の中に流し込まれる。
激痛。
恐ろしく冷たいのに、焼き鏝を当てられたように熱い痛みが脇腹で弾けた。
「……ぎっ、ぐぅうううううっ」
『ほう! その毒を食らって悲鳴を上げないとは大したものですね。素晴らしい!』
太郎は余りの痛みに立っていられず、膝を着いた。再び牙を剥いた蛇の頭を何とか切り落とす――が、そこまでだった。降魔の独鈷剣すら持っていることができずに取り落とし、地に伏せる。
『ま、流石に動けませんか。いやそんな顔で睨まないで下さい。神助を得たとはいえ即死しないだけ凄いんですからね。それにあなたの戦いは見事であったと素直に称賛いたしますよ。神と悪魔に同時に認められるなど並大抵のことではない。誇っても良いですよ』
もうすぐ死にますけどね。
そう言い残すと、青焔魔の姿がふ、と掻き消えた。
瞬きするほどの間も無く、お里の傍に現れる。
「ひっ!」
『そう怯えないで下さい。私だって無暗にそんな態度取られると落ち込むんですよ。ああ、落ち込み過ぎてもう気分が悪くなってきた』
しゃがみこんだ青焔魔が、頭を振った。仰々しいその仕草に、お里が後退る。
『こう落ち込んだ時には、どうすればいいかご存知でしょうかお嬢さん?』
「えっ、その、う、歌を唄う?」
『ふふふ、それも素敵ですね。ですが私はとても落ち込んだ時、』
ふっ、といつの間にか新しく生えていた腕が、二体の大蛇へと変わった。大蛇はするりと地面を這うと大きな口を開いて、お紅さんの放った神具羂索で縛り倒されていた黒衣の男二人に襲い掛かり、
『人を殺すのです。するととても気分が高揚するのですよ。ぜひお嬢さんもお試しなさい』
その頭を咥え、のたうち、べきりとへし折り首を千切り取って飲み込んだ。
二つの首無し死体から鮮血が迸り、白岩を真っ赤に染めていく。
「ひっ、きゃっ……」
『おっと、騒がしいのは好みではありません』
叫び声をあげようとしたお里の口を、青焔魔が抑えた。すると湧いた蛇が猿轡よろしくお里の口を抑え込んだ。
そんな彼女を青焔魔は楽しそうに見て、ひょいとその肩に担ぎ上げた。
『さて、これから私は契約に従い大虐殺を行わなければならないのですが、独りぼっちというのも味気ない。ここはぜひお嬢さん、ご一緒にいかがですか。勿論有無は言わせませんが』
ずるりと、青焔魔の下半身が形を変えた。
蛇の下半身――それも、音を立てて大きくなる岩場の全てを埋める程の巨大な蛇の胴体。その身体の一部に、お里が取り込まれていく。
『さぁ、行きましょうか。この島国の滅びを見届けるお役目、光栄に思いなさい』
どれ程嫌がろうと非力な少女でしかないお里に抗うことはできない。
満足そうに青焔魔は、動けないでいる伽羅とお紅を見た。
『そこの竜ども。蛇のなり損ないよ。契約により、私は人以外は殺さない。よってここは見逃すが、かかってくるならば命は無いぞ』
それは余裕の現れである。
地獄の支配者が一柱である青焔魔と、伽羅たちの間には隔絶した力量が存在しており、青焔魔はそのことを良く知っているのである。
それだけ言い捨てた青焔魔は最早振り返ることも無く、ふわりと夜空へと舞い上がる――
†
虚空を泳ぐように上昇する青焔魔を見送って、お紅は太郎に駆け寄った。
ありったけの神力で太郎の身体を癒そうとして、顔を歪める。
「……だめ、あいつの毒が強すぎて、殆ど効いてない」
真っ青な顔で寒そうに全身を震わせ、しかし凡そ人体にありえない程の発熱で夥しい汗をかいている。僅かばかり症状は緩和されたが、それだけだ。
人の姿へと戻った伽羅も、太郎の様子を診る。が、直ぐに顔を顰めた。
「くそ、このままではこの国が……だが俺だけでは」
伽羅の視線が、転がったままの神剣へと移った。
伽羅とお紅の力では、あの青焔魔を止めることができない。不動明王の象徴である降魔の独鈷剣の力を完全に引き出すことができるのであれば或いは。
だが、伽羅たちでは駄目なのだ。伽羅たちでは太郎ほどにもこの剣を扱うことはできない。
「太郎、聞こえるか! 太郎! しっかりしろ、 太郎!」
「くそ、こんな……アンタ、あたし、青焔魔を止めに行ってくる!」
「馬鹿な! 無駄死にする気か!?」
「でももう太郎を癒している時間なんてない! 少しでも時間を稼がないと――えっ」
言い争いを始めたお紅が、思わず動きを止めた。
訝しんでお紅の視線を追った伽羅もまた動きを止める。
首だけとなった蛇が、僅かな力を振り絞って降魔の独鈷剣に近づこうとしているのだ。そしてその鱗に浮かぶのは、
「……平蔵!?」
一瞬呆然とした伽羅だが、平蔵――の魂を宿した蛇が、何かをしようとしていることに気が付いて、慌てて駆け寄った。
ちらりと伽羅をみた蛇は、視線で何かを訴えようとしている。
「お前、何をしようと……剣か!?」
伽羅か、転がっていた神剣を手に取って蛇の頭へと近づける。
すると平蔵の蛇は最期の死力を尽くして飛び上がり、その刀身部に噛みついた。
「一体何を……」
「ちょっと待て、これは……!」
神の象徴である神剣を生半可な力で噛み砕くことなどできはしない。青焔魔本人であればまだしも、その力の残滓でしかない、しかも死にかけの蛇では。
逆に剣に宿る神力が反応し、浄化の炎が巻き起こる。不動明王の眷属である伽羅には熱くもなんともない炎だが、邪悪の蛇には覿面に効果があるはずだ。だが、蛇はその身を焼かれているというのに、ただじっと剣に齧りついたまま――
あっと言う間に蛇の頭は白い浄化された灰になる。
だが炎は収まることなく燃え続け、灰は散ることも無く刀身に纏わりついたままだ。
「これは、まさか――お紅!」
直感的に悟る。何をしなければならないかを。
「あいよ!」
お紅が太郎の身体を支えた。
伽羅が狙いを定め、剣を構える。
「太郎、戻ってこい! 平蔵の最期の願いだ!!」
蛇に噛まれた脇腹に、平蔵であった灰を纏った降魔の独鈷剣を突き立てた。
太郎とお里と夫婦の竜 ~島原天草ノ乱ヨリ這イ出シ大蛇~ 入江九夜鳥 @ninenigtsbird
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