弐 亡父の過去と切支丹大名
一 亡父の過去
†
夜。
宮原村庄屋屋敷の一室――宛がわれた一室で、太郎は寝支度をしていた。
自分でもわかるくらい、吐く息が酒臭い。弱いということはなかったが、相撲に負けた腹いせに、と吾助に呑まされまくったせいだった。その吾助は太郎に潰されて、板間に転がっているのだが。
宮原村に来て、庄屋屋敷に泊まれば大体こうなる。吾助に相撲に挑まれて、村人たちも相手する羽目になり、そのまま宴会で、吾助に絡まれる、というお決まりの流れだ。ちなみに宴会の酒代は吾助の禄から天引きされることになっている。
することもないのでさて寝るか、としていた時、障子の向こうに人の気配がした。
「太郎、ちょっとよいかの」
信吉の声だ。応じると彼は障子を開けて部屋に入ってきた。手に、徳利と椀を持っている。
部屋の燈台を寄せて、二人は差し向かいに座った。何の話かと思えば、信吉は先ほどまでの宴会と違って難しい顔をしている。それを見て、太郎も只事ではないと悟った。
「まぁ、先ずは呑め」
そう言われて、椀に酒を注がれる。ふくよかな香気が立ち上って、太郎の鼻をくすぐった。
「随分良い酒のようですが。隠していたのですか」
吾助は屋敷の酒を全て飲み干さんとする勢いだった。使用人の癖に、いいのかあいつ。
「儂の秘蔵よ。あんな飲み方されてたまるか。もったいない」
笑い合って、こん、椀をぶつけ合って乾杯する。普通であればただの村人に過ぎない太郎に、庄屋を務める信吉がサシで酒を飲むなど有り得ない――が、信吉はそんなこと気にしない。だからこそ宮原村ばかりでなく、他の村の者にも好かれている。
「頼まれていたことだが、判ったことがあった。いや、全てではないのじゃが」
「! それは」
信吉の言葉に太郎は思わず詰め寄る。
「まぁ待て、落ち着け太郎。気持はわかるが」
ごほん、と咳払いをして信吉は続けた。
「おそらく……という枕がつくが、お主の思った通りじゃなぁ」
「では父は」
「うむ。小西様に仕えておった武家の出ではないかと思われる」
その言葉に、太郎は大きく息を吸い、吐いた。
不明だった父の出自、その手掛かりをようやく得たからである。
小太りの信吉は、見た目はこれだが顔が広い。というのも宮原村のみならず、小国郷一帯の庄屋役をお上から仰せつかっているため、太郎など及びもつかないほど方々に知己がいるのだ。
昨年――あの島原で。今わの際に、父平蔵は「行長様」と確かに誰かのことを呼んでいた。走馬灯に幻を見たのだろう。
学の無い太郎はその名に覚えがなかったが、平蔵の死に際の様子を聞いた信吉には心当たりがあった。かつて豊臣の時代肥後国南側一帯を治めていた大名、小西行長である。そこから肥後南一帯に影響のある商人に渡りをつけて、平蔵の情報を得たのだという。
「小西……行長」
「うむ、確信はないのだがな。肥後の国の歴史の話になるが、簡単に説明してやろう」
そう言って、信吉は語りだした。
「かつてこの肥後国も、戦国の世の習いにあって戦に明け暮れていた時期があったのよ。ざっと六十年程昔かの。儂の爺様がまだ幼い頃じゃな」
太郎たちの住む小国郷は、肥後の北東部に位置する。ちょっと進めば豊後の国と豊前の国と、国境に非常に近い場所だ。
かつては阿蘇氏が阿蘇山周辺を支配していたのだが、やがて豊後府内は大友宗麟が勢力を伸ばし北部九州を勢力下に置いた。対抗するのは肥前龍造寺氏、安芸から北九州を脅かす毛利氏。南九州は薩摩の島津氏と、織田信長が勢力を拡大していた中央と同様、この九州も群雄割拠の真っただ中の時代があった。
織田信長の死後、後を継ぐ羽柴秀吉により毛利氏は羽柴家に臣従。九州の覇権は大友氏と島津氏の二大勢力の争いとなったが次第に大友側は島津氏に押され苦境に陥ることになった――が、既に半ば天下人へとなりつつある羽柴秀吉に助けを求めたのである。
後、九州平定と呼ばれる羽柴家の大軍派遣により、島津家は敗退し降服。その領地は薩摩と大隅の二カ国とされた。勢力を失いつつあった大友氏は豊後一国を安堵される。
さて、大友、龍造寺、島津と覇権争いに翻弄された肥後国だが、秀吉の部下であった佐々成政に与えられることになった。
佐々成政は尾張の豪族の出である。勢力拡大する織田信長に良く仕え立身出世を果たし、紆余曲折を経て秀吉に仕えることになった。つまり、勇猛果敢な戦国武将である。秀吉の九州平定にも参加し、功あったことで肥後国の大半を任されたのである。
だが、乱世にあって勇猛果敢な戦国武将が治世における優れた統治者であるとは限らないし、一旦平定された土地の者たちが大人しいとも限らない。
「ようやく肥後も落ち着いたかと思ったら、また騒ぎが起こった。検地に応じない国人たちが騒ぎ出し、一揆が起きたそうな」
肥後は戦国末期の大友勢の進出と島津勢北上によって、勢力図が何度も書き換えられた土地である。半ば独立勢力化した国人衆の持つ力の多い土地であったことも遠因にあるだろう。彼らは、郡や村の単位ながらも領地を持つ。いわば肥後国は、大大名はいないが小大名が林立する土地柄となっていたのだ。
こういった各地の小勢力を取り込み、臣従させ、攻め滅ぼし、勢力拡大に成功したのが織田家であり、中国の毛利家、四国の長宗我部家である。そしてそれに失敗した――あるいは間に合わなかったのが大友家、島津家と見ることもできる。
とにかく国人たちは、独立不羈を自認していた。
それが突然、島津とも大友とも全く縁の無い、突如やってきた他所者である成政に頭を下げなければならない家来扱いとなれば勿論不満が募ることだろう。
そんな状況にあって、成政は羽柴秀吉より与えられた肥後の領地化を焦った。
性急な改革行わないよう釘を刺されていたにも関わらず、検地を強行する。後に太閤検地と呼ばれ日ノ本全域で行われるこれに国人衆が猛反発し、一揆にまで発展してしまった。
「大騒ぎの末ようやく平定が成った九州肥後で、早速大騒ぎが起きた。そりゃ、太閤様もお怒りになる」
しかも成政は独力での鎮圧に失敗し、秀吉に援助を願い出ている。
九州は唐入り――大陸出兵の前線として機能させるという秀吉の構想があった。早急な鎮圧を望んだ秀吉により九州と四国の大名が動員され、これにより一揆は鎮圧するのだが、
「その結果、国人衆たちは勿論、佐々成政は秀吉様に切腹を命じられたわけじゃな。まぁ、仕方ないと言えば仕方ないし厳しすぎると言えばそうかもしれん。終わったことじゃから、儂らがそれをどうこう言っても仕方ない。……長くなったが、漸く本題じゃ」
一息ついた信吉は、居住まいを正した。いつの間にか信吉の語りに聞き入っていた太郎も、それで気が付く。
「……その、佐々、何とかって殿様の次に、小西行長という人が……」
「うむ。その通り……だが、この小国の辺りは別の方が治めることになったぞ。加藤清正様じゃ。お主も島原に往く時、熊本城を見たじゃろう。あの城を造りなさったお方よ」
「ああ、セイショコサマ!」
ぱん、と太郎は膝を打った。目に浮かぶのは黒い威容の熊本城である。
かつて熊本は、隈本と呼ばれていた。佐々成政も居城とした隈本城を改修し、その落成の時に勇ましい名を、ということで熊本城とした人物である。戦ばかりでなく政にも明るく、荒れた肥後に治水や土木事業を興し、経済を安定させた立役者である。徳川の世となり清正の跡を継いだ忠弘の代で加藤家は改易されるのだが、細川氏の領地となった今になってなお「清正公様」と民草に呼ばれ慕われている。
ちなみに加藤清正は日ノ本きっての城づくりの名人で、江戸城や名古屋城の建築にも関わった人物でもある。
さて、そのセイショコサマだが、佐々成政の後釜として肥後に入ったのだが領有したのは北半分となる。人吉を除く宇土以南、肥後の南半分と天草諸島を任されたのが、件の小西行長であった。
「どういう人物であったのか、儂も良くは知らぬのよ。太閤様に良く仕えて取り立てられた方であり、先の九州平定でも活躍されたとか。実はセイショコサマとは余り仲が宜しくなかった……なんて話も聞いたことがあるのじゃが」
「それは、なぜ?」
「理由はいくつかある。一つの国を二人で分けたからとか、朝鮮出兵で互いに先鋒を願い出たとか、あとは……」
指折り数える信吉。その三つ目、燭台の火が、ゆらりと揺れた。
「セイショコサマは日蓮宗の熱心な信徒であったが、小西様は、」
切支丹大名だったのよ。
燭台に灯された灯りが揺れる。部屋の隅、薄暗い闇の向こうから、オラショを唱える声が聞こえるような気が、した。
†
切支丹大名。
その名前の通り、デウスの教えを崇める切支丹に改宗した大名のことを言う。
そして太郎にとって、切支丹と言えば、島原の件である。
「……小西という殿様は、先の一揆に関わってる……?」
知らず乾いた喉を潤すように唾を飲み込んで、太郎は尋ねた。
そんな真剣な思いとは裏腹に、信吉は軽く答える。
「いや、まったく」
「えっ」
思わず首を傾げる太郎である。
「でも、今、切支丹大名って……」
「確かに言うたわい。じゃが、小西行長様が亡くなったのは関ヶ原の時でな。今から三十年以上前……儂がまだ洟垂れだった頃の事よ。それに太閤様が禁止するまで、切支丹になるのは自由だったんじゃからな。今よりも切支丹が多かったと聞いとるよ」
かの豊後の雄大友宗麟や、それこそ肥前島原を支配下に置いていた有馬氏などが切支丹大名であった。勿論九州以外にもいて、その一人が小西行長であったのだ。
小西行長は、和泉国堺の商人の子として生まれた。宇喜多直家に才能を見出されて武士となるが、のちに羽柴秀吉に仕えることとなる。行長が切支丹に改宗したのは小豆島の領主をしていた間のことで、秀吉の九州平定より数年前のことである。
加藤清正とは秀吉の家臣として同僚であったが、肥後国の北と南、日蓮宗と切支丹、朝鮮出兵では互いに先鋒を願い出るなどぶつかり合うことが多くあったため、肥後領主時代は不仲になっていくことになる。
秀吉の死後、朝鮮から撤退。後に起こる関ヶ原の合戦において行長は豊臣方西軍の将として参加するも敗北。一時逃げ遂せるも、半ば自首するように捕らえられて、徳川家康の命によって石田三成と共に斬首された。この時切支丹の教えで自殺はできないと切腹を拒否していると言う。
小西行長が肥後南半国を領地とした頃すでに、島原と天草は領民の多くが切支丹となっていた。これは島原の領主有馬氏と天草の国人志岐氏の影響によるものだ。
それこそ織田信長がまだ存命だった時代、肥前の大村氏と有馬氏、天草の国人衆、そして豊後の大友氏は南蛮貿易で大儲けしていたのだ。ポルトガルのイエズス会から神父が派遣され天主堂のみか神学校が建てられた例すらあり、領主たちは積極的に領民に改宗を進めていたのである。
天草と島原にはそう言った背景もあって元々住民の大半が切支丹であったのだ。行長は切支丹大名であったが、天草の切支丹とは殆ど関係が無い。尤も秀吉による切支丹禁教令に従わない国人たちを半ば黙認していた節はあるのだが。
一方で宇土城改修に参加しようとせず、あまつさえ反発の末一揆を起した天草の国人たちを加藤清正とともに鎮圧していたりもする。因みにこの時、行長は援軍を断っているのに清正は強引に兵を引連れてやってきた。この辺りにも互いのいがみ合いの原因の一つとなっていたりする。
切支丹大名の行長と、天草の切支丹たちとは互いに無視のできない厄介な隣人同士といった関係にあった。行長は秀吉の任じられた為政者として政を取りまとめねばならない立場であり、禁教令もそれに含まれる。
一方先に述べたとおり、肥後は島津と大友、龍造寺の勢力争いのせいで小勢力である国人の力が強くなってしまった。天草も同様で、天草五人衆と呼ばれる五名の国人たちがそれぞれの郡における実質的な支配者であった。太閤殿下の御威光を背に、力押しでことを進めようとする愚は佐々成政が証明している。
「とにかく行長様は熱心な切支丹ではあったが、それに狂ってはいなかったということであろうなぁ。信心は信心、政は政と割り切っていたのじゃろ。つまり、要するに、行長様は天草の国人たちとそこそこ上手い事やっておった、ということじゃ」
「じゃあ、親父は一体……?」
太郎としては、切支丹と言えば島原で見た通り、熱狂的な一塊の集団であるという印象が拭えない。だがそれは、結果としてそうなっただけであり、実は過程においては大間違いだ。
「大名がな、あっちに行ったりこっちの領主になったりするとき、別に一人で行くわけではないぞ。当然、家臣たちも一緒に移動する……当然行長様にも、そういう家臣たちがいたわけじゃ。小豆島からやってきた一団が」
小豆島とやらがどこかと訊けば、播磨灘に浮かぶ四国の島という。瀬戸内海における交通の要所というが、信吉もよく場所を知っているわけではない。ましてやここから島原よりも離れた場所とあっては、太郎にとって、そこは最早地の果ても同じだ。
その地の果てからやってきて肥後南の領主となった小西行長は、天下分け目の関ヶ原で西軍に参加し、負けた。それで小西家は改易されるわけだが、生き延びた家臣たちもいる。新たに主君を得る者もいれば、そうではない者もいる。
何らかの事情で仕える主人を失った在野の武士のことを、牢人という。なお、浪人とは浮浪とも言い、武士に限らず本来の戸籍地を離れた者を指すのだが、牢人と浪人、この二つの言葉は次第に意味が混同して使用されるようになる。
「その牢人となった元小西家家臣のお武家さまにな、下平家という家がある。今では宇土の辺りで畑を耕しているそうだが、現当主の叔父にあたる人物が、かつて若
輩ながら小西行長様に良く目をかけてもらっていたそうじゃ」
しかしその叔父とやらは、関が原には参加していない。留守居を任された一人であったという。関が原以後、小西家が改易されて牢人となった時家督を弟に譲り、以後行方がしれないという。
「その叔父の名は、下平博之。主と同じく切支丹であったとか。それでな、太郎。博之は幼名を蔵多丸といって、子供の頃、仲間からは名前を短くして、平蔵、と呼ばれていたそうだ……元服してからも、行長様や側近の方からはずっと」
「…………」
太郎の脳裏に、父の姿が蘇る。
平蔵は、胸元の合わせを握り締める癖があった。
あれは、そう。
島原で切支丹たちが、今際の時に、首から下げていた十字架を握り締めるのと同じ……。
無言で信吉が、太郎之椀に酒を注ぐ。太郎は、それを一気にあおった。
さっきまで美味いと感じていた酒も、気分次第でこうも味がしなくなるのだなと心の片隅でぼんやりと思う。
「……確証のある話では、ないぞ太郎」
「わかってる。わかっているが」
平蔵が、その下平博之なる人物であるとすれば様々なことに筋が通る。
小西行長――仕える主を失ったから牢人になった。そのまま浮浪として田ノ原村に居着いた。刀を持っていて何かの流派を修めていた。昔のことを語りたがらなかった。
……切支丹の一揆に、幕府方とは言え、参加した。年甲斐もなく。
切支丹がその教義で自殺を禁じられているというのは、太郎も知っている。嫌というほど知っている。自殺は最も忌むべき悪であり、自殺者は地獄に落ちるのだという。神の教えを全うして死ねば神の国に行けると信じ、だから彼らは半ば嬉々として殺されようと戦っていた。元が農民なので切腹は無いにしても、絶望的な戦局下にあって自殺する者は全くと言っていいほどいなかった。
刀を振りかざし、捕らえられた切支丹の首を叩き落とす感触。飛び散る血飛沫。
その顔が、死に際の平蔵と重なる。平蔵は、死に場所を求めていたのだろうか。主君小西行長の後を追うため、三十年以上もずっと。下平家の再興を願っての参陣であったというより、その方が平蔵らしくあるように思える。
太郎は首を振って、幻を振り払う。
そして改めて、信吉に向き直る。
「親父を殺した老人――三左衛門とか宗意軒とか呼ばれていた奴については、何か」
信吉は苦い顔をして、
「これまた確証のない情報なんじゃが……ううむ」
「教えてくれ、頼む」
真剣な眼差しで見詰められては、信吉も弱い。
「良いか太郎。平蔵の方もこれで間違いないと言える程のものではないのだぞ。幼い頃平蔵と呼ばれていたお武家さまが、ひょっと行方不明になっている。もしかしたら太郎の父かも知れぬと、言ってみればそれだけのことよ。その上でその老人については、もっと確信の持てない話になってしまうが……」
「構わない。何だって良いから知りたいんだ」
「わかった。……三左衛門、の方については、何もわからんかった。が、宗意軒――森宗意軒という老人がな、いたのだが……その、なんだ」
と、信吉はどこか歯切れが悪い。
「いや。太郎が嘘を言っているとも思えんのだが……」
「その、森宗意軒がどうかしたのか? そいつで間違いないのではないか?」
そんな名を名乗る者がそう何人もいると思えない。
問うと、信吉は頷き、儂もそう思うのだが……と首を傾げる。
「その森宗意軒、どうも先の島原の一揆の、首謀者の一人であったと目されておるというのだ。総大将は益田四朗時貞と言ったか? そやつを担ぎあげた、一揆の中心人物よ」
「は、」
太郎は言葉を失う。妖術を操る、ただの老人ではないと思ったが、まさかそこまで大物であったとは。
「しかしその者、島原の乱において討ち取られた、と」
では、自分が見たのは。平蔵を殺したのは一体誰なのだ。
ぐらりと身体が傾いたような気がしたのは、酔いが回ったばかりではあるまいと太郎は思った。
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