三 稽古
†
田ノ原川上流、不動明王像の御前の磐座。
宮原村から戻った翌朝、日課の稽古に励んでいた。
「おーい太郎どん。今日も精が出るね」
朝靄を切り裂く一閃。その姿勢のまま、太郎は視線を巡らせた。
そこにいるのは、やはりと言うべきか伽羅の姿である。相変わらずの着流しで、岩だらけのこの渓流をものともせずひょいひょいと渡ってくる。
「おはようございます、伽羅さん」
流れる汗をぐっと拳で拭う。気が付けば、普段よりも息が上がっていた。
「おうおはよう。だがなんだ。どうにも剣筋に迷いがあるな。何かあったのかい」
平たい大岩の上に立つ太郎を見上げて伽羅はそう問いかけた。心ここに在らずと診てわかる程だったか。平蔵であれば、無言で口をへの字に曲げているところだろうか。
「ええ、まぁ……ちょっと」
宮原村からの帰りは、お里もいないので当然独りだった。田ノ原村への大荷物を背負い歩く山道で、つらつらと思い浮かぶのはどうしても平蔵のことのあれこれだ。
お里のお陰で少しばかり前向きな気分になれたのは事実だが、迷いがあることに違いはない。後ろ向きより遥かにましではあるが、さて太郎はこれからどうすればいいのだろうか。
「実は……父の出自が少しわかったんです。もしかしたら、の話ですが」
「ほう! それは良い事ではないか」
「ですが……」
少しばかりの逡巡の後、太郎は庄屋の信吉に聞かされた話を、掻い摘んで説明した。父平蔵が小西家の旧臣だったのではないかということ、その父の仇である、森宗意軒の話。黙って聞いていた伽羅は、顎に手をやり唸る。
「ふーむ。よもや平蔵どんに、そんな秘密があったとは。まさか小西どんの家来だったとは」
まるで気安い仲のように言う。既に故人であるとは言え、小西行長は天下人秀吉の家臣であり、地域が違えども宇土城城主のお大名様である。
「いやあいつはどこか堅苦しいが真面目で実直。信に篤い男だったから、なるほど平蔵どんが心から慕いそうなのもわからんでもない」
「え、小西様のこと、知ってるのですか」
「おう。葡萄から作る赤い酒を一緒に飲んだぞ。あいつ酒に弱かったな、一人で樽一つ空けられなかったしなぁ」
関ヶ原の戦いはもう四十年近くも昔のことである。三十路にも見えない伽羅がそのことを口にするのは、今更ながらに違和感がある。
あと普通、人は一人で樽を空けるほど酒を飲めないと思ったが、そちらも今更なので太郎は無視して話を進めることにした。
「でも、済んだ話ですからそれは良いんですよ。いや、良くはないんですけど」
「そうだな。済んでない話の方が問題だな」
極論すれば、平蔵の出自はもうどうにもならない事である。そもそも平蔵がその下平家の者であると証明することもできないし、それをしたとして然程意味があるわけでもない。細川様がとっくに断絶した小西家旧臣を召し抱える理由にはならないし、大体太郎はその下平家とも縁続きというだけの田舎者であるだけだからだ。
「だが、その森宗意軒とか言う老人は別だ。太郎の言い分通りその老人が生きているというならば、物凄く拙いことだぞ」
太郎は頷く。
昨日昼に宮原村を出て、ずっと考えて思い至ったことだった。
何故かはわからないが、幕府方は森宗意軒が死んだと思っている。討ち取られたということは、誰かがその首を挙げたということだろう。信吉は森宗意軒が首謀者の一人と言っていたから、言うなれば大物首といった感じだろうか。
だが、それが実は何らかの――もしかしたらあの妖術の類で生きているとすれば。
幕府の面目は丸潰れとなる。
それはつまり、夥しい戦乱の時代を経てようやく成立した江戸幕府の支配を、ひいてはその平和と安寧を脅かすということである。
そもそも、なぜ幕府は、こんな九州の片田舎で起きた一揆に、十万を遙かに超える大軍で当たったのか。その答えこそ、この『面目』である。
幕府徳川家こそ、この日ノ本の支配者である。
その支配者である幕府は、切支丹を禁じた。
ところがその切支丹の一団が、一揆を起こした。特に肥後島原藩の松倉氏は幕府から派遣された大名であり、すなわち徳川家の代理人として島原藩の統治に当たっている人物に真っ向から逆らったわけである。
それはつまり、幕府という権威に傷を付ける行為だ。権威に傷をつければ、松倉氏のような子飼いの大名ならばともかく、たとえば島津、たとえば伊達といった、各地に古くから根差し、影響力のあり、かつ徳川家に心服している訳ではない各地の大名たちにいらぬ野心を抱かせる切っ掛けになるかもしれないのだ。
切支丹や農民たちに出来たのだ。我らならば、もっと上手くできるやもしれぬ、と。
だからこそ、たかが農民の、たかが切支丹の一揆に、幕府は過剰と言える反応を見せた。十数万の大軍は同時に、各地の大名たちへの示威行為でもある。万が一徳川幕府に対して反乱を起こすなら、これ以上の大軍で相手するぞ、という。さらに参加した切支丹たちに一切の温情もなく悉くを鏖にしたのも、原城址を徹底的に破却したのも同じ理由だ。
幕府に逆らうなら、お前らも、こうしてくれる。
つまりは見せしめである。
ところが、それだけ厳しい態度で臨んだあの一揆の始末に穴があった。
首謀者、それも発起人の一人と目される人物を逃がしたとあれば、これまた幕府の面目が潰れることになる、というわけだ。
意識が途切れる寸前の、あの老人たちのことが脳裏に浮かぶ。彼らは一体どこにいったのだろうか。もしその生存を幕府が知ったら、草の根を搔き分けても探し出そうとすることだろう。
ひょいひょい、と岩を飛び移った伽羅が、太郎の立つ岩倉に立つ。
「どれ、いっちょ揉んでやるとしよう」
手にしていた木刀を、太郎に向けた。
「何を突然。こっちは真剣ですよ?」
話の流れをぶった切って突然の申し出に面食らったが、伽羅はこういう男だ。自由気ままを体現したような性格なので、一々気にしていたら身が持たない。
「はっはっは、気にするな。いいからかかってこい」
「……わかりました。行きます」
太郎はそれで覚悟を決めると、無造作に一歩踏み込み、伽羅の顔めがけて手にする刀を突き込んだ。
「おっと容赦ないな! だがそれで良い!」
しかし伽羅はあっさりとそれを手にする木刀で弾いた。返す一撃を、太郎は体を交わして避ける。掬いあげる一閃。またしても木刀に弾かれる。
踏み込み、切り下ろす、逆袈裟、首薙ぎ、と見せかけて突き込み。
太郎の容赦ない攻撃は全て避けられるか、木刀によって弾かれる。
ただの木刀ではないのか? 太郎は一瞬疑念に思ったが、答えにはすぐ気がついた。伽羅は、木刀で太郎の刀と切り結んでいるわけではない。刀の腹を叩いて弾くばかりに専念している。刃に触れなければいかな名刀でも切り裂くことはできはしない。
ブン、と胴を切り裂く一撃、その切っ先が伽羅の着流しの合わせを掠めていく。ほんの僅かの差で届かない。
二人の立つこの岩盤は大きく平たく、独りで型稽古を繰り返すには十分だが、二人で戦うにはやや狭い。その中で必要なだけの動きで太郎の攻撃を凌ぎ、劣っている得物を傷めないよう防ぎ立ち回り、隙あらば逆撃を入れてくる伽羅の実力が窺い知れる。太郎よりも遙かに上、あるいは超一流の剣豪にも劣らない――
ふつふつと、太郎の中で湧き上がる感情があった。
――すごい。
きっと、自分では伽羅に勝つことはできないだろう。それが稽古であっても、本気の戦いであっても。
本気であっても、伽羅の勝ちは、揺るがない。
なら、こういうのはどうだろう。
ガツンと刀を弾かれたのを機に、攻め一辺倒だった太郎が飛び退った。距離を取る。
伽羅はそれに、おや、という顔をして見せた。次いで、太郎の思惑に気づいて口元が引き攣った。太郎の構えは、柄を両手で握り右に大きく振り被ったものである。
大きく息を吸い、吐き。吸って。
一方の伽羅からは、気力の満ちる太郎の身体が、錯覚だろうか。その圧力で一回り大きくなってすら見えた。
「おい、ちょっと待て。それは」
「……行きます!」
慌てる伽羅の言葉を無視して、太郎は足に力を込めて磐座を蹴った。
太郎の全力を込めた、袈裟切り。
「おぁッ!」
空気どころか音すら切り裂く一撃が伽羅の肩口に叩き込まれ、抜ける。
宙に舞うは半ばから斬り飛ばされた木刀。
それがぽちゃんと川に落ちた音が、流れる川の音に負けず不思議と響いた。
刀を振り抜いた姿勢の太郎は動けない。
伽羅が、木刀だったものを首筋に突き付けているからだ。
太郎には見えていた。
全力の一撃はしかし、伽羅の木刀に受け止められていた。力尽くではなく、絶妙な加減で逸らされ、回転しつつ振り払われる。
それでも木刀を斬り飛ばすことはできた。それだけだったが。斬撃を逸らされ僅かに体勢の乱れた太郎の首筋に突き付ける、折れた木刀。
数秒、時間が止まったかのように二人は動きを止めていたが、伽羅がふうっと息を吐いた。張り詰めていた空気がそれで緩む。
「お前……ちょ、殺す気かもう」
「いやぁ伽羅さんだったらって思って。つい」
「いくら何でも容赦無さすぎるだろ……」
げんなりとし表情を見せる伽羅。この飄々とした態度を崩さない男の見せる珍しい顔に、思わず太郎は笑ってしまった。
今日も昼から宮原参りに出なきゃならないと言って、太郎は下流へと戻っていった。
自分に劣らずひょいひょいと岩を渡っていくその後ろ姿を見送って、伽羅は大きくため息をついて磐座に座り込んだ。
「焦ったぁ……本気にならなきゃ冗談抜きで斬られてたかもしれん」
太郎の本気の踏み込みは伽羅の予想外の速さで、一切手加減のされなかった袈裟切りは伽羅の技量が無ければ逸らすことすらできなかっただろう。伽羅だって、完璧とは言えない――木刀を切り飛ばされているのだから。
恐ろしい膂力と、日々繰り返される稽古によって実現した一撃である。
世が世なら、太郎こそ天下に名立たる剣豪となっていたかもしれない。
島原に行く前ならばともかく、今の太郎はそれを望まないだろうが。
伽羅は、他に誰もいない渓谷の底で、鎮座する不動明王像に向かって 恨みがましい目を向ける。
「いくらなんでも、気に入り過ぎではございませんか」
などと本人にしか分からない文句を言っても、明王像は答えない。
人々を誑かす世にある邪悪を睨み据える憤怒の形相は、そんな伽羅に向かって「貴様の稽古不足であろう」とばかりに叱咤するかのようで、伽羅は木々の向こうから透ける青空の下でため息と共に項垂れた。
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