3
記憶にない。
記憶にないことだ。
記憶にないことだろうと、考えれば分かる。
だってそうだろう。
彼女の記憶が失われる前、僕は記憶が失われた後のことも見越して、あの写真の
裏側に『絶対に捨てるな』『死ぬまで持っていろ』と書き込んでいたのだ。
縁喰いによる記憶の喪失は残酷だ。多少の異変があったところで、それが縁喰いによって失われた記憶に基づくものなのではないか、という発想にすら至れない。僕はそれを知っている――なぜだか、知っている!
そしてそれでも、僕が写真の裏に『この女性を忘れたとしたら縁喰いによる記憶の喪失だ』なんて余計なことは書かなかった。ただ持っていろとだけ書き残していた。
写真を持っていたら、何だというのだ。忘却の後のこの写真は、ただ綺麗なだけの一枚だ。どうしてそれの真実を記さず、ただ持っていろとだけ言ったのか。まさか
持っているだけで何かが起きるとでも思ったのか。
それとも約束か何かだったのか。だが捨てるなという言葉が効果を発揮するのは、僕が彼女を忘れた時、つまり彼女が縁喰いにより死んだときだ。そんな約束を守ったところで、何にもならないじゃないか。どうして、約束をしたのであろう彼女を
忘れた後の僕に、
考えれば分かる。
クレンという女性に対して僕が抱いていたものは、考えたって筋が通るものでないもっと青く夢想めいた何かであったと。
だってそうだろう。
クレンという彼女は僕のことを想って戦い続け、死んだ後に僕がどう生きたかを
確かめさせるための手紙を残していたのだ。
一体何のためだ。自分が死んでしまって、自分のことを忘れてしまった僕に、もう一度自分のことを思わせる……そういう可能性もあるのかもしれない。
だが、それだったらわざわざあんな茫洋とした質問をする必要はない。もっと
直接的に、何らかの強力なメッセージを突きつければよかったのだ。
それなら何故? なんてことはない。ただ純粋に、知りたいことだけを並べただけだったんだ。どんな家族がいるか。健康か。友達はいるか。悪いことをしていないか――幸せか。そして、写真を持っているか。
聞き出したそれを、どうするのか。それも想像がつく。アオイという娘は、内容を逐一ノートに書き取って、分かりやすく簡単な言葉で言うように求めていた。
何のために? ……死者と話ができる技術を赤の人が持っている、とかでもない
限り、答えはひとつしかないだろう。
墓前での報告。僕に関してはただそれだけを、彼女は託した。なんて非現実的な、冗談みたいな託言だろう。でも、きっとそれしか望まなかったんだ。
考えれば分かる。
僕に対してクレンという女性が抱いていたものは、考えたって筋が通るものでないもっと青く夢想めいた何かであったと。
「くそっ……」
階段を駆け下りるのも、きっちりしたスーツと革靴では一苦労だ。重いビジネス
バッグは最初の数歩で放り捨てた。
あれだけの速度で飛び去ったアオイを追いかけるのは、普通に考えれば無理な話。だが、彼女は白の獣の存在を嗅ぎ付けて飛んでいったのだ。だったら、戦いのために足を止めている可能性はある。
そしてその可能性を掴むためには、僕は僕でがむしゃらに走る必要がある。走ったところで追いつける保証はないが、走らなければ追いつく可能性はゼロだ。
走って、追いついて。知らなければならない。僕とクレンという女性のことを、
知らねければならない――いや、知りたい。
(……知りたい!)
もはや僕の記憶にはないことだが、それは絶対に、大切なことだったはずだ。
それを忘れたままになんて、しておけるものか。
だから、アオイに追いつく。もう一度アオイの視界に飛び込んで、クレンという
女性にまつわる全てのことを、聞き出す。
だって、そうしなければ。
『母は天国で泣いているでしょう』
悲しすぎるじゃないか。
階段を降りきるころ、コートとジャケットを脱ぎ捨てた。ベルトも抜いて捨てる。走るだけでスラックスがずり落ちるほどサイズに違いはない。それよりも動きやすさが重要だ。
走りながら考える。どうしてこんな、恋や愛に似た青臭い感情を互いに持っていたらしい僕と彼女が、別れ別れになっているのか。
単純なケンカ別れじゃない。やむにやまれぬ事情があったのだろう。それでも、
こんな離別を覚悟しなきゃならないほどだったのか。
本当はもっと強く、繋がり合ったままでいられたんじゃないか。
あの時も。
あの時も。
……あの時も!
何も思い出せない。何一つ思い出せないのに、確かにこの胸に、高揚感と無力感がごうごうと渦巻くのを感じる。
さっきまでざわつきだったものは、心拍数が増えると同時に確かな流動へと
変わっていた。
たとえば、言葉。たとえば、思考。あるいは温めたオレンジジュース。
縁喰いでその人のことを忘れても、その人から受け取った広範的な知識や影響が
失われないように。
クレンという名前の女性との思い出は少しだって記憶に残っていないはずなのに、激しい感情だけが痛烈に根付いている。
そして再燃したその感情が、僕を駆り立てる。
理屈や損得ではない。ただそうしたいからという、青臭い衝動。
35歳にもなって
みっともないが、みっともないことすら、気にならない。
そうしたい、という衝動を、抑える理由にはならない。
公園の横合いの林へと入る。
耳を済ませるまでもなかった。何かが飛び交う音は、一般的な鳥のそれではない。木々の枝葉が擦れ合う音は、風によるものではない。
「どこだ……」
あの様子だと、出てきてくれ、話がしたい、と叫んだところでアオイは出てこないだろう。僕が自分の足で探し出すしか……
「……いや」
考えを改める。何も僕自身が目的でなくても、僕の目の前に出てきてくれれば
それで良いんだ。僕が見逃せない何かを持っていれば良い……白の獣、とか。
僕は猛然と白の獣を探し始める。嘘をつく事も少し考えたが、縁嗅ぎで判別され
たら終わりだ。それに、彼女に嘘はつきたくなかった。
白の獣は、ほどなくして見つかった。鳥の足が生えたヘビのような、奇妙な姿だ。ヘビは近付く僕に向けて威嚇してきたが、怯むつもりは少しもない。ワイシャツを
手荒に脱いで、両手で構え、叩き包むように捕まえる。
「よし……っくしょ!」
ワイシャツ越しにヘビを掴み取り、僕はくしゃみをした。保温素材のインナーを
着てはいるが、この短時間で汗だくになり、一気に上着を着捨てたものだから、
さすがに冷えたのだろう。
「捕まえた……捕まえたぞ! 白の獣!」
それでも僕はヘビを掴み掲げ、声を上げる。
「捕まえた! 今ここにいる! 早くしないと逃げられるかもしれない! さあ、
早くこいつを……」
そう叫んでいる間に、木々の合間で何かが赤く光った。光は曲線的な軌跡を
描いて僕の手元へ迫る。
「……うお!」
それが赤く光る糸のようなものだと気付き、僕は慌てて手を引っ込めた。一秒も
しない内に、さっきまで手を掲げていた場所を赤い糸が走った。勢いで尻餅をつく。
「何故避けたんですか」
それからすぐ、そんな言葉が投げかけられた。枝の間をすり抜けて、上方から
小柄な少女が姿を現す。
「何故って」
「あなたを切ったりする訳がないでしょう」
アオイはぴったり両足で着地すると、右手を振るった。シュン、という風切り音の直後、不可解な赤い軌跡が僕の掴むヘビだけを捕え、引き裂いた。
「……なんだ、それ」
「母から教えてもらった技です。私は細長いのは得意でしたが、太くするのが苦手なので、いっそすごく細長くして、それを操れるようにできたら恰好良いのではと」
「恰好良い」
「恰好良いと思います」
それだけ言ってアオイはまた地面を蹴って飛び立とうとした……ので、
「待ってくれ!」
僕は恥も外聞もなくその足を掴んだ。
「!?」
飛び上がりかけたアオイは空中でバランスを崩し、地面へ落ちそうになる。僕は
慌てて倒れ込み、どうにか彼女の下敷きになることができた。
「……何をしているの」
「いや……ごめん……」
じっとりと睨んでくるアオイに、僕は謝ることしかできない。
そしてどうにか、話のできる態勢になる。
「……クレンさんのことを、教えてくれ」
「理由を聞かせてもらいます」
「彼女のことを知りたい。彼女のことをもう一度知って……泣きたい。大人の言い方をすれば、死を悼みたい」
ここまで、渦巻く感情に押されて駆けてきた。だから喋る内容も考えながらで、
みっともなくちぐはぐだ。だからなんだ。喋らなければ伝わらない。
「泣きたい?」
「……クレンさんは、天国で泣いてるんだろう。僕が彼女のことを忘れているから。だからだ。クレンさんを泣かせたくない」
「あなたが泣けば、母は悲しくない?」
「僕はそう思う。思い出すことはできなくても、新たに知ることはできる。それが
彼女の慰めになるなら」
天国とか、慰めとか、当然のように死後の世界があるていで話をしている自分が
なんだか不思議になる。僕は無宗教者だ。死後の世界のことなんて普段は考えないし信じてもいないのに。
「……そういう理由なら、誤解を解きます」
「誤解?」
アオイはぱんぱんとジーンズをはたきながら答える。
「さっき、私が途中で話を切り上げたのがよくありませんでした。確かに母は天国で悲しみに泣いている、と言いましたが……きっと、嬉し泣きもしているでしょう」
「……嬉し泣きだって?」
思わぬ言葉だ。アオイは続ける。
「だって、嬉しいでしょう。あなたは母の望んだ通りだった。あなたはあなたの
家庭を持って、赤の人と関わらずに生きて、健康で、友達もいて、悪いことをせず、幸せで、写真を持っていた――たとえ母が死んでも、母のことを大事に思っていようという意志があった。すべて母の望みどおりです」
「……そうなのか」
少し気持ちが落ち着く一方で、不可解にも思う。
写真。幸福。善良。友人。健康。ここまでは分かる。
だが、家庭を持つ。これが彼女の望みどおりとは、どういうことなのか。
クレンという彼女と僕の関係性は、友情に落ち着いたのか。
だったらあの、胸を渦巻くどうしようもない情動は、なんだったのか。
「……どうしても」
アオイがぽつりと言った。
「どうしても望むなら、母のあらゆる記録を見せることはできるでしょう」
「何だって?」
「斉木さん……後援者のお姉さまですが、あの人から聞いたことがあります。母、
クレンは要注意人物だったので、ありとあらゆる行動をデータとして――位置情報に音声情報、その他あらゆる情報は電子データとして、残されていると」
「……あらゆる情報?」
「きっとあなたとのやり取りも、残されているでしょう。あなたと母とのことを
もう一度知りたいというなら、その情報はすごく役立つと思います」
願ってもないことだ。それさえ手に入れられれば、きっと彼女と僕の関係を、
不完全ながらも知ることができる。
思い出すことは明確に違うし、追体験とも言えないだろう。だが、知ることが
できる。
知りたい。僕は知りたい。クレンという女性のことをもう一度知って、できることなら、最後まで僕を想って死んだという、彼女のことを悼みたい。
僕にできることなんて、それくらいしか――
「ただし」
アオイは付け加える。
「当然ながら、そのデータは機密です。とても大事なもので、私たちはそういうものの扱いをとても厳しいようにしています」
「だろうね」
その理由も、分かる。赤の一族が二度と、白の信奉者の悪意によって滅ぼされないためだろう。
「ですので、それを見ることを望むなら、現在の立場とか、そういうものを全部
捨てる必要があります」
「……なんだって?」
「すべてを捨てるのです。あなたも私と同じようになる。今まで名乗っていた名前は偽名で、本当の名前を与えられ、別人として生き、忠誠を示すのです」
その瞳は、相も変わらず冷静で、揺るぎない。
「友達とも、家族とも、会えませんよ。二度と。さよならを言うことも許されない」
「……それで……」
それで、彼女のことを。
きっと大切だったクレンという女性のことを、改めて知れるのか。
もう一度、彼女に近付けるのか。
この胸の衝動の本質を、知ることができるのか。
すぐそこの地面で、バイブレーションの音がした。
「……!」
僕は慌ててそちらの方を見る。僕の携帯電話だ。さっきアオイを受け止めた時に、ポケットから落ちてしまったらしい。
画面には、着信相手の名前がある。山江結衣。清楓の母親。
「あ……」
僕は目線を携帯電話からアオイへ移す。彼女は変わらず、ガラス玉のように透明な瞳で、僕を見ていた。
『さよならを言うことも許されない』
ついさっきの言葉が、頭の中で響く。
「私は急ぎますので」
そう言いながら、アオイは手を差し出した。
「その気ならば、どうぞ。家まで連れて行きます。ですが、早くしてください」
「ああ……」
彼女は明言していないが、間違いない。
きっとこれが、彼女たち、赤の人に関わる、最後の機会だ。
僕は腕を伸ばす。その脳裏を、無数の思い出が駆け抜けていく。ざあざあと、
流れていく。流れすぎていく。
小さくとも一つ一つ、強く輝く思い出が。
これら全てを、胸に抱いて。
思い出を生み出した全てを、後ろに置いて。
僕は、もう一度クレンに出会って、今度こそクレンを悼むために。
僕は――
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