3

 家屋の瓦礫の下。

 テーブルの下で丸まって震えていたのが、最初の記憶。

 ……いいや、正確には違う。記録によれば、彼女は幼稚園に通っていたらしい。

そこの先生とは長い付き合いだったし、友達だっていただろう。


 ただ――

 ほんの五歳だったにとって、家族の全ての記憶を失うということは、

それだけ大きな事態だったのだ。




「本当の父親、母親、あと姉がいたらしいけど……彼らはみんな、白の獣の亜成体に喰われてしまって。一人になった私を助けてくれたのが、優凪さまのお母さま」

 白の獣によって身寄りをなくしてしまった者は、赤の人の一族が庇護下に置く。

クレンも例外なく、一族の中で育てられた。

 クレン、という名前は、その時に授けられた名前なのだという。本来の名前――

赤城理詠は、偽名となった。

「本来の名前、なんて自覚も薄かったんだけどね」

「……でも学校で、それを使ったりしたんじゃないか」

「友達、あんまり多くはなかった。優凪さまのお世話が一番だったから」


 僕はクレンという名前を聞いた時の漠然とした所感を、今になって思い出す。

 苗字がないクレンには、家すらもないのではないか。

 ある意味では、正しかった訳だ。本来の家族は白の獣に喰われ、クレンの記憶の

中にすら存在せず、保護された先でも、彼女は家族ではなく付き人だった。



「優凪さまが目の前で、私を庇って白の獣の成体に殺された時……毒で苦しいのに、それでも最後まで、未来のために成体と戦い続けた優凪さまを見て、私は決めたの。優凪さまみたいになろうって」

「……ちょっと話したら、随分印象が変わったなって思ったよ。なりきってたんだ」

「恰好良い人の真似をするって、難しいね」


 ごうごうという水の音に混じり、ずん、ずん、と地響きのような音、そして震動が届いてきた。今立っているこの建屋も、いつ崩れるかと不安になるくらいだ。

 だというのに、僕は動けない。クレンも動かない。



「……もっと、もっと時間があれば」

 クレンが自分の手を、その手の中にある赤い棘を見る。

「二十年なんて言わず、十年……ううん。その半分でもあれば、優凪さまほどに

鋭くなくても、槍くらいはきっと作れるようになってたのに」

 その手を握り込む。決して小さくはない。しかし手袋の下の彼女の手が、本当は

細く滑らかなものであることを、僕は知っている。

 そしてそんな手に、彼女の赤い棘はすっぽりと覆われてしまうのだ。

「無理だよ。こんな棘じゃ、成体の心臓に届かない」




 水の音が、さっきより小さくなった。地響きの音は、変わらず続いている。

 湖から上がったのだろう。白の獣は、止まらない。


 目を閉じ、息を吐く。


 覚悟を決めた。

 もちろん、戦う覚悟みたいな立派なものじゃない。というか、戦う力を持っている

のは僕じゃなくクレンで、白の獣を倒すのはクレンの赤の武器だ。僕が戦う覚悟を

決めた所で、屁の突っ張りにもなりやしない。

 戦う覚悟を決めるのは、クレンだ。いや、決めてもらわなければならない。


 だって、そうだろう。

 この震動。見るまでもわかる巨体。こいつが、飢餓状態で暴れまわるという。

 もちろん、誰も人間がいないところで勝手に暴れてくれるのならどうでも良い。

だが実際は違うだろう。暴れる目的は、縁を喰らうためであるはずだ。だったら

あいつは、このまま放って置けばきっと人がたくさん住む市街地に進むだろう。


『不気味です』

『薄気味悪いとしか言えないですよね……』

 かつてニュースで見た、存在しなくなった父親についてのコメントを思い出す。

 このまま白の獣を放っておけば、たくさんの人が殺され、縁を喰われ、そのまま

忘れ去られる。ある意味で、ただ死ぬよりも残酷な殺され方をする。


 僕が決めたのは、クレンに戦う覚悟を決めてもらうために、何だってする覚悟。

 信じられないくらいに情けないけど、僕にはそれしかできない。



「……無理じゃ、ないよ」

 まず、そう言う。無理だという結論じゃあ、動けない。

「心臓さえ壊せれば良いって、分かってるんだから」

「だから、私の力じゃそれは」

「もし無理だったら」

 また自分の口調が強くなっているのを自覚した。でも、止めない。

「あいつはどうなる? 湖に戻ってくれるのか?」

「……そんなの」

「もしかしたらそうかもしれない。けど、違うかもしれない。あのままあいつが

街まで行ったら、きっとたくさん……何千人って死ぬんだ」

「何千、人」

 それから僕は、なるべく冷静に、思いついたその言葉を口にした。

「優凪さんならどうした?」


 自分の手を見つめるクレンの目が、見開かれた。

「僕はその人のこと、あまり知らない。けれど、その人は最後まで戦ったんだろ」

「……うん」

「優凪さんは逃げなかったんだ」

「うん」

「……なるんだろう。優凪さんみたいに」


 クレンはゆっくりと顔を上げ、僕を見る。

「あんまり、優凪さまのこと、優凪さん優凪さんって呼ばないで」

「え?」

「吹葵くん、あんまり女の子のこと、下の名前で呼ばないでしょ」

「……それとこれとで何の関係があるんだ。苗字で、さま付けしろって?」

「さあ」



 僕は肩透かしだった。聞いたばかりでよく知りもしない憧れの人を使う、なんて

卑怯な論法に、非難のひとつでも飛んでくることを覚悟していたのに、クレンはよくわからないことを言って微笑んでいた。そして湖の、地響きがする方を見る。

「でも、倒せないのは本当。私の棘じゃ、心臓まで届かない」

「繋げて、槍みたいにするのは?」

「そんなに器用にはできないよ」

「なら、立て続けに攻撃する」

「……再生する方が速いと思う」

「再生より速く攻撃する……」

 話しながら、今までのクレンの戦いを思い出して、イメージする。とにかく速く

深く攻撃をしなければならない。クレンは小さな棘しか作れない。

 どうする?



「……大量に作る」

「大量に?」

 ずしん、ずしん。地響きの音は止まらない。

「滑空した状態で、空から落とすんだ。大量に……ものすごく大量に。滝みたいに

なるくらい」


 クレンの棘の性質については、この二ヶ月で分かっていた。

 作ろうと思えば一度に十本は作れること。だけどたくさん作っても持ちきれない

ので取りこぼしてしまうこと。落ちた棘は、アスファルトの舗装にも簡単に突き

刺さってしまうこと。刺さった棘は、十分くらいで消えてしまう――十分は形を

維持すること。


「そんなの……」

「……かなり現実的じゃないか。上から、心臓のありそうな場所に向けてたくさん

落とす。今日は風もあんまりないし、高度をつければ、きっと」

「できるかもしれない」

 そう言うクレンの表情は、しかし暗い。

「けど、ダメ。きっとエネルギーが全然足りない」

「まだ辺りに白の獣がいるだろう。そいつを狩ってなんとか足りないか。白の獣は

ただでさえ群れるんだし、ほら、さっき亜成体が複数いるかも言ってたじゃないか」

「それは、」



「それでも足りなきゃ」

 僕は僕の胸を叩く。

「僕を使え」



「――」

 僕の言葉の意味が飲み込めなかったのか、クレンは呆然と固まった。

「ぼっちだからさ。大した量じゃないだろうけど。それでも、縁ってものはあると

思うんだよ。あと一歩で足りないんなら、僕を使えば良い」

「……な、ぁ」

 クレンはぶるりと震えて、僕の肩に掴みかかった。

「何……なに言ってるの、吹葵!」

「……割とマジだよ。僕はクレンの力になれない。クレンみたいに戦えない。けど、そういう形でなら、クレンを助けられるだろう」


 これは本心からの言葉だった。

 クレンがあいつを倒すために必要だって言うなら、惜しくはない。


「やめてよ……吹葵」

 クレンは力なく僕から手を離すと、おぼつかない足取りで歩き始める。地響きの

方向とは反対に。

「……もちろん、最後の手段だよ。でも、いざって場合は本当に使って欲しい」

「吹葵」

「成体を逃がしたら、たくさんの人が死んで、忘れられるんだ。それを防ぐために

必要で……クレンの力になれるんなら、僕の命なんて安い」


「わかった」


 その言葉は力強かった。クレンはマフラーに顔を埋め、指折り何かを数えている。

「……わかった」

 今度は小さく呟き、顔を上げた。それから、僕を見る。覚悟を決めた表情だ。

「吹葵は、本当に最後の手段。でも、最後の手段が必要な状況でそれがなかったら、困るよ」

「ああ」

「これから急いで力を貯めなきゃいけない。吹葵を連れてく余裕はない」


 クレンは屋根の縁に立ち、足元を蹴る。


「生きてて、最後まで」

「……もちろん」




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇




 クレンが飛び立って、ほどなくの事だった。

 地響きが止まった。

(……何だ?)

 僕は湖の方を見る。この建屋は湖よりも高い所にあり、視野は開けているものの、湖畔の付近は背の高い針葉樹が生えていて、よく見ることができなかった。


 その針葉樹の合間から、ぬう、と白く巨大な何かが立ち上がった。

 夜空の中で光るように青白く、赤いラインが走っているそれは、滑らかな動きで

立ち上がると、先端を開き、人の手のような形になった。


(……いや)

 僕はすぐに、認識を改める。

 人の手のような、ではない。

 人の手、そのものだ。

 成体となった白の獣は、人間の身体的特徴を得る。湖から上がってきた何かは、

あの巨大な人間の手――いや、腕が成体となって獲得した特徴ということか。

 見ている内に、二本目の手がぬうと上に伸ばされた。そして両腕が、地面へと

叩きつけられる。樹木は倒れ、もうもうと砂埃が舞った。


(付け根の方を見たくはないな)

 そんなことを思う僕には、まだ余裕があった。クレンの滑空の速度は偉大で、

樹より大きなはずの腕もまだ小さく見えるくらい、白の獣とは距離がある。

 とはいえ、もしもあまりに近付いて来るようなら、自分の足で走って逃げなければならないだろう。僕はクレンのように滑空はできない。

(今のうちに逃げる準備はしておくか……)



 そう思った瞬間、さっき腕が倒れたあたりで、白く巨大な何かが、宙を舞った。

「は……」

 円盤のような形をしたそいつは、冗談のような緩やかさで樹木よりずっと高くまで跳び上がると、やはり冗談のような緩やかさで地面に着地した。

 ごう、と風が吹き、ほとんど地震のような揺れが足元を襲う。僕は情けなく尻餅をついた。


 そんな僕の視野には、人間の腕がさっきよりも大きく見える距離で、ゆらりと

持ち上げられ、伸ばされているのが映った。

 そして、また跳躍。真っ白な、けれど表面を血管が走る円盤形の正体は、一目で

分かった。あれはカメだ。そして前足は、人間の腕。後ろ足は……

「カエル……!?」

 生物の教科書で見たのと同じシルエットを認め、僕は風と揺れに煽られながらも、壁のわずかな出っ張りを足がかりに建屋の屋根から降りた。

 あの巨体であの跳躍、悪い冗談だ。ぼうっとしていたらすぐ距離を詰められる。



 駆け出した僕に対し、カメの成体はじっくりと時間を使いながら、巨大な跳躍を

繰り返した。そのたびに地面が揺れ、空気の塊のような風が吹き荒れ、足がもつれ

そうになる。

 そして一度の跳躍ごとに、揺れは大きくなり、風も強くなる。近づいているのだ。周囲に人はいないだろうし、クレンもいない。

 正真正銘、僕が狙われている。


「くそっ……!」

 毒づきながら、僕は走る。あんな大きさでは、変に隠れてもその場所ごと潰されるのが関の山だろう。

『生きてて、最後まで』

 クレンの言葉を頭の中で反芻する。そうだ。僕は生きてなきゃいけない。

 僕を殺して力にするのは、クレンでなければいけない。


 しかし、走るのにも限界が来る。

 辺りはなだらかな傾斜になっていて、足元も舗装されていない。防寒のための

厚着も都合が悪く、体が随分動かしづらい。

「くそ……、っ!?」

 何度目かの震動。揺れる地面に足元を掬われ、僕は転げる。何とか立ち上がろうとして、しかし疲労でガクガクになった足は言うことを聞いてくれず、そのままくるりと仰向けになった。



 そこに、血走った眼があった。

 白い頭。白い甲羅。それらの表面を走る、血管のような赤い線。

 白の獣の成体は、僕という人間を完全に見下ろしていた。



 その威容に脳がフリーズしかけるが、すぐに恐怖で立ち直る。

 距離は、まだある。走れば逃げられる距離だ。

 そう思った瞬間、横の木々をなぎ倒しながら、やはり赤い線の入った白い腕が

僕に向かって伸びてきた。

「うお……!」

 間一髪。腕は僕の手前の土を抉るに終わる。

 だが腕は二本ある。もう一本の腕は、正確に僕目掛けて伸びてくる。腕が生み出す暗い影の中で、赤いラインは一層不気味に光った。僕はどうにかこれも避け、

「つっ!」

 られなかった。倒れ込んだ僕の腰を、巨大な白い手が掴む。締め付ける力に

激痛を覚える。

「こんな……この!」

 意味を持たない言葉を口走りながら、僕はどうにか逃れようともがく。無駄だ。

こんな巨大な白の獣の力に勝てる訳がない。そんなこと、分かっている。


 それでも。



『生きてて、最後まで』



「まだ……!」




 刹那、


 ザザザザ、という硬く金属質な音がした。

 豪雨の音に近い。

 それと同時に赤い棘が大量に降り注ぎ、僕を掴んでいた腕を切断した。

 その断面には骨らしきものが見えたが、血液は一滴たりとも流れない。つくづく

違う生き物なのだと痛感させられる。


 緩くなる拘束の力。白い手を蹴るようにして握力の名残から抜ける。

 そして、空を見た。


 そこに人影があった。

 長く揺れる括られた黒髪。

 風になびく赤いマフラー。

 手に瞬く赤い光。



「クレン」



 僕が上げかけた快哉の声は、すぐさま勢いを失った。


 深い夜闇に降り注ぐ星灯りの下、僕の隣に着地したクレンは、

 その服は、その髪は、その頬は、

 覚悟を決めた横顔は、



「そんな」



 返り血――

 白の獣は流さない……人間だけが流す、赤く黒い血で、汚れていたから。

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