4

「27人」



「合宿所っていうのかな」



「そこにいっぱい、大学生がいたから」



「雑魚寝してた人たちも、部屋で寝てた人も、あと管理所の人も、全員」



「一度にこんなに縁喰いをしたのは初めてで」



「すごく体に力が湧いたんだけど」



「もしも足りなかったら、困るから」



「あと、88人」



「家族向けマンションがあって」



「家族まとめてなら、私みたいな子も出ないかなって思って」



「10階から5階まで、順番に、全員」



「そしたら、もういっぱい、って感じがしたから、戻ってきたの」



「……それと、1人」



「途中で『信奉者』に会ったから、殺した」



「私を見て、驚いてたよ」



「赤の人は、一般人に危害を加えないという、鉄の誓いがあるはずだって」



「そんなこと、知らなかった」



「教えてもらえなかったなあ」




「私は、もうとっくに」



「吹葵に会うより、ずっと前から」




「優凪さまみたいになるなんて、無理だったんだね」




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇




 クレンが夜空を舞う。

 赤いマフラーがなびき、黒い髪が踊り、赤い棘の残光が尾を引く。

 返り血に汚れたクレンが、翔んでゆく。


 成体は腕を伸ばしてそれを追ったが、クレンが速い。腕の長さ以上の高度に辿り

着くと、弧を描く軌道で成体の上空を旋回する。

 もう腕は届かかない。ではどうするか。

 同じだ。伸ばした両腕を地面に着けると、カメのそれと同じ首をぐっと伸ばし、

成体はクレンを見上げた。長く、細く、強靭なカエルの足が、ぐっと縮まり、力を

溜める。



 その足が、伸びる。

 重みによって地面が浅く抉れ、砂埃が舞い、激しい縦揺れが僕を襲った。

 僕は為す術なく転ぶ。幸い、跳躍した成体の着地点は僕とは反対方向のようで、

潰されたりする心配はなさそうだ。



 成体は跳躍しながら腕を伸ばし、クレンへ迫った。クレンは更に加速して上空に

向かうが、腕が伸びるほうが速い。表皮に走る赤いラインが不気味な軌跡を描いて

クレンに迫る。



「クレン……!」

 僕は彼女の名前を呼ぶしかできない。さっきまで命の危機の下にあったのに、

いつの間にか蚊帳の外に弾き出されていた。

 白の獣は何より赤の人を狙う。そして白の獣がクレンを追って僕とは逆方向に

跳んでいる以上、本当に僕はただの傍観者に過ぎない――


(……ああ)

 間抜けな僕は、今更気付いた。

 僕があれに潰される心配もなく、こうしてクレンを心配していられるのは、

他でもないクレンがあいつを僕とは逆の方向に誘導しているからじゃないか。



 成体の手がクレンを掴む――

 そう見えた瞬間、クレンが急に減速した。手は空を切り、しかし腕の方にクレンは

衝突する。

「っ……」

 彼女の表情は、見えない。しかしクレンは止まらない。腕を蹴り、自分を掴もうとする手を躱し、更に上方へ。

 一方、成体の方は勢いを失った。クレンを掴もうと無理をしたせいか、乱れた

態勢で落下していく。ひっくり返りこそしないが、後ろ足で立つような形で着地し、遅れて前足が倒れ込んだ。



 絶大な隙だ。

 クレンは見逃さない。



 宙返りしながら、腕を伸ばす。その腕が向けられるのは、着地したばかりの成体。

 ざあ、と。

 その手から赤い棘が溢れ出た。

 狙いを定めることすらしない。重力の丨軛くびきから解き放たれたクレンは、重力任せに大量の、本当に大量の棘をただ落としている。

 夜闇を分かつように、赤い光の滝が成体の甲羅へと降り注ぐ。降り注がせながら、クレンは更に上空へ飛んでいく。

 地上の成体は降り注ぐ赤い棘から身体を庇うように腕を伸ばすが、赤い棘の滝を

防ぐことはできない。クレンの棘は、ただただ大量であるだけで、激烈に強かった。


 クレンが空中で反転する。

 大量の棘を降り注がせながら、落下していく。まるで赤い棘の滝の中に、自ら

飛び込んでいくかのように。

 やがて赤い棘が描く形状は、直線的な滝から、吹き上がるような泉に変わった。

僕からは見えない。見えないが、きっとクレンがその中心にいて、大量の棘を

成体の体に直接撃ち込んでいるのだろう。

 ざらざらと、無数の棘がそこらじゅうに散らばり、ぶつかり合う音が響く。

 成体の巨大な体すら、覆い尽くしていく。



 決着はほどなくだった。

 赤い棘の噴出が落ち着き始めて数秒で、そこにいたはずの成体の姿が消滅していることに僕は気付いた。

 後に残るのは、おびただしい量の赤い棘と、

「はあ、はあっ、はあ……っ」

 荒い息をするクレンだけだ。



「クレン!」

 僕はこの時だけは、彼女がしてきたいろいろな事を考えずに、駆け出すことが

できた。

 一つ一つは小さくて、だけど触れるだけで傷つきそうな、鋭利な赤い棘の山。その中に足を踏み入れていく。棘に触れたズボンが裂けても、棘を掻き分ける手袋に

突き刺さっても。

 ただ彼女に近付きたかった。


 だけど、白の獣の成体を殺すほどの物量はやっぱり尋常ではなく、僕は結局進退に窮してしまう、

 そこへ、クレンがすうと空を滑って飛んできた。

「何してるの、吹葵」

「……笑えよ」

「バカ」


 ぎこちなく笑って、手を差し伸べてくるクレン。

 僕はその手を掴もうとして、彼女の服の返り血を見て、硬直した。


「吹葵」

「……クレン、これは」

「帰ろう、吹葵。お願い。もし帰りが遅くなったら、お母さん、心配するでしょ」

 何の心配をしてるんだ。そう言おうとしたが、声が絞り出せない。

「……吹葵」

 結局僕は、恐る恐るクレンの手を取った。

 クレンは強く握り返しきて、それから夜空を滑り出した。




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇




 浜名湖から名古屋まで、クレンは一直線に、休みなく飛んだ。クレンは疲れていたはずだが、彼女は最高速度を出し続けていて、僕は休憩を言い出せなかった。

 家に近付き、クレンは少し速度を緩めた。


 そして、ぽつぽつと話し始めたのだ。

 今日、僕と別れて、あの成体を倒すために、何をしてきたか。

 どこで、何人を殺してきたのか。

 淡々と、訥々と。



 僕らは家の屋根に足をつける。クレンはあれだけ強く握っていた手を離すと、

軽い足取りで僕から離れた。


 僕は何か言おうとしたが、何も言葉が出てこない。

 あの日、半年で8人を殺したと苦しげに告白してきたクレンが、今日だけで、27人と、88人と、1人を殺した。

 あまりにむごい。あまりにも非現実的だ。


「……どうして」

 悩んだ挙句にひねり出した言葉は、

「どうして人を殺したんだ」

 笑いも出ないくらい、バカバカしい問いだった。


「吹葵のアイディアを試そうと思って」

 クレンは顔を上げ、夜空を見上げている。僕はその横顔を凝視する。

「でも、そのためにはたくさんエネルギーが必要だったから」

「だから、それは白の獣を殺して貯めるって」

「亜成体が複数いるかもしれないっていうのは、私の間違いだった。……仕方ない

でしょ。成体がいるだなんて、思いもしなかったんだから」

 それに、とクレンは付け足す。

「亜成体何匹かじゃ、あんなことはできなかったよ。きっと成体も殺せなかった」

「じゃあ……なら……っ」

 僕は顔を押さえ、考える。何を考えているかも分からず、考える。



「ニュース、覚えてる?」

 僕とクレンの間でニュースと言えばひとつしかない。

「……カラ戸籍問題だろ」

「吹葵、言ったじゃない。放って置いたら何千人って死ぬって」

「言った。……勢いで、盛りすぎたかもしれないけど」

 正直に告白すると、クレンはくすりと笑う。

「あながち間違いじゃなかったと思う。あんなの、警察くらいじゃ全然、どうにも

できないと思うし」


 風に乱される黒髪を、クレンは手袋を外した右手で整える。手袋は血まみれだったからだろう。

「あの時倒さなきゃ……何千人だよ。ものすごくたくさん、殺された。それだけの

人が、この世界中から忘れられて、家族だった人に、気持ち悪い、とか言われる」

「……そうだよ。クレン。そうじゃないか。縁喰いで死ぬっていうのは、そういう

ひどい事なんだ、クレン」


 この先を口にして良いのか、という逡巡が胸によぎる。だが、


「君もそれをしたんだぞ」

 言葉は押し流れるように口から飛び出した。クレンは横目で僕を見る。

「何千人より百人の方が少ないよ」

 落ち着き払った声が、そう告げた。



 僕は分からない。あの日、彼女は苦しげに言ったじゃないか。半年で八人、

生きるために殺した、と。

 それなのにどうして今はこんなにも落ち着いている。その十倍以上の数の人を、

ほんの数十分で殺しておいて、どうして。



「……私はね、吹葵」

 クレンはまた、夜空を見ていた。表情は窺えない。

「知らない人を殺すことなんて、どうってことないよ」

「な」

 ひゅ、と僕の喉を空気が走った。

「何言って……そんな訳ないだろ」

「どうってことないんだよ」

「そんな事ないだろ! だって二ヶ月前、クレン、僕に向けて」


「どうってことない! 吹葵を殺すことに比べれば!」



 僕の声も大きくなっていたが、クレンの叫びは、それをかき消すほどだった。

 彼女はいつの間にか、夜空ではなく僕を見ていた。

 苦しそうな顔で。

 あの日、半年で八人を殺したことを告げた時と、同じ顔で。


「吹葵、言ったでしょ。いざってときは僕を使えって。ああ言われた時ね。私、

吹葵を殺す想像したんだよ」

 クレンは胸を押さえて、僕に一歩歩み寄る。

「……想像しただけなのに、すごく苦しかった。辛かったの……吹葵。私は吹葵を

殺したくなかったし、吹葵を死なせたくなかった。また一人になるのは嫌だったよ」

「そ、んな」


 じゃあ、何だ。

 僕の言葉が、クレンに一線を超えさせたのか。


「だから決めた。一番可能性のある方法を、一番効率良く実行しようって。だから

私は、人が密集してる場所を嗅ぎ当てて、それで」

「やめてくれ……」

 僕が喉の奥から声を絞り出しても、クレンは語り続ける。

「吹葵を連れて逃げてから戦うことも、考えた。でももしあの成体が空を飛ぶ個体

だったら、私たちは追いかけられて、私はいつまでも力が貯められなくて、あいつを殺すことができなかった」

「実際は違った!」

「空を飛ぶ個体だったら、あいつはきっと吹葵に目もくれないで私を追いかけて来てただろうから、どっちにしても、殺せた」


 またクレンが歩み寄って、僕の両腕を掴んだ。

 熱いのか冷たいのか、コート越しでは分からない。


「私は一番犠牲が出ないようにしたんだよ」

「クレン」


 ただ、その眼は熱を帯びていた。

 今にもこぼれそうな涙の温度だ。


「吹葵のことを考えて、したんだよ。ずっと。何も知らない女の子を殺す時も、

幸せそうに寝てる夫婦を殺す時も、ずっとそうした。吹葵を殺すより、ずっと良い。吹葵が死ぬのに比べたら……また一人になってしまうよりも、辛くないって」

「やめてくれ……そんなの」

「ねえ……白の獣を殺して、白の獣の犠牲になる人が、出ないようにしたんだよ。

吹葵の言ったとおりに殺せた。見ててくれたでしょ。私の恰好良いところ……」


 僕を掴むクレンの腕の力は、痛いくらいに強まっていく。



「私は正しいことをしたって、言ってよ」




「――やめてくれッ!」


 僕はかつてないほどに声を張り上げた。

 声を上げて、クレンの腕を振り払った。


「やめてくれ……やめろクレン! そんな、そんな言い方」

「吹葵」

「そんなの、僕のせいみたいじゃないか。僕のために殺したみたいじゃないか!

やめてくれ……どうしてそんな、僕が同罪みたいな言い方をするんだ!!」




 ――本当に悪いことは、悪い感情を持つことじゃない。

 悪い感情を表に出して、相手を傷つけることだと、母さんに教わった。


 口を衝いて出た言葉が最悪も最悪だったことに、僕はすぐに気付いた。



「違う……」

 また、顔を押さえる。

 直視できない。

 クレンの眼を。大きく見開かれて、震える彼女の眼を、直視できない。

「そういう意味じゃない……違う。違うんだ、クレン」

 数秒前の自分の言葉が信じられない。もしタイムスリップができるのであれば、

死ぬまで殴り倒してやりたい。その口を縫い合わせてやりたい。

「僕は……違う……」

 だが、心の中でこうも思う。

 じゃあ何か。クレンの言うことを認めれば良かったっていうのか?

 殺したことは正しかった? 殺してくれてありがとうって?

 それこそ間違いだ。そんなことをすれば、クレンはまた殺すかもしれない。


「……違う……!」

 頭を振る。そうじゃない。そうじゃないんだ。

 クレンはあの時と何も変わっちゃいない。人を殺すことに苦しんでいた。それでも必要だったから、僕を支えにした。たったそれだけじゃないか。

 なのに、僕は。なんて事を。




「……約束」


 クレンの声は上ずっていた。

「約束、だったよね。あの日。次殺したら、縁切りだって。吹葵が言ったんだよ」

「違う……違う、クレン」


 もう何度、違うと言ったのか。これから何度も言うだろう。

 それでもきっと、あの言葉を撤回するには足りないに違いない。


「縁なんて、切ったりしない……切ったりするものか。あの約束は、違うんだ。

クレン。クレンを一人にはしない」

「私はずっと一人だった」

 クレンは眼尻を拭い、目を閉じた。ぐず、と鼻を鳴らす。

「戦うときも一人。眠るときも一人。ずっと一人だったよ」

「頼むよ、クレン。そんなこと言わないでくれ。一緒にいよう。まだ、これからも」


 歩み寄る僕に、クレンは応じるように一歩踏み出る。


「良いよ、無理しないで」

「無理なんか……」

「人殺しが許せないのは、普通だよ」

「違う……」


 僕はクレンの肩を掴む。クレンは僕の首に腕を回した。

 今までで一番近い距離だ。どんどん近付いていく。


「一つだけ、お願い」

「クレン、僕は」



 柔らかな圧迫感。

 唇が動かない。鼓動の音だけが脳に響く。

 混乱で目を見開いた僕の前で、長い睫毛を涙に光らせ、クレンの瞼は閉じていた。

 ――当然だ。キスしてきたのは彼女なんだから。



「……ファーストキスは忘れられない、って言うでしょ」


 唇が離れる。


「嫌いでも良いから、許せなくても良いから」


 何が起こったか未だに理解しきれない僕の腕から、するりとクレンが抜ける。

 笑み。哀しげな笑み。


「私のこと、忘れないで。それだけでいい」

「何を」

「きっと世界中から私が忘れられても、吹葵だけは覚えていて」



 ようやく僕が離れていく彼女を追おうとしたとき、彼女はもう屋根の隅にいた。


「ありがとう。さよなら」

「待って……!」

「好きだった」



 それが最後だった。

 クレンはコン、と屋根を蹴り出す音だけを残し、夜の空へと滑り出した。

 少しすれば、別の屋根の影。その姿はすぐ見えなくなる。



「クレン……ッ」


 僕は彼女を呼び止めようとして、慌てて止めた。

 まだ辺りは暗い。ここは住宅街だ。大きな声を出すべきじゃない。



 ……出すべきじゃない?


(馬鹿か!)

「クレン……クレン!」


 僕は声を張り上げる。もう視界にない彼女を呼ぶ。


「戻って来てくれ! そんなつもりじゃなかったんだ! クレン!」


「僕が悪かった! 間違ってた! あんなことを言って、僕は最悪だ……!」


「なあ、頼む……頼むよ! 嫌いになんてならない。当たり前だろ!」


「君と同じだ! 僕も君を失いたくない……クレンと離れるのは嫌だ!」


「二ヶ月! 二ヶ月も一緒にいた! たくさん話して、一緒に時間を過ごして」


「……僕だって初めてだったよ! もっとこの時間が続いて欲しい!」


「僕だって……僕だって君のことが好きに決まってるだろ!!」


「クレン! 戻ってきてくれ! 頼む……頼むよ!」


「クレン! クレエェェン!!」




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇




 僕は自分の部屋へ戻った。


 感情の昂奮は、その体温と同じように、とうに冷めきっていた。

 結局僕は、声を張り上げるだけ張り上げて、それからしばらくぼんやりと夜空を

見上げて、一人この部屋に戻ってきた。

 久しぶりの、夜空だった。嫌なこと全て、忘れさせてくれる夜空だった。



 部屋に足をつくと、ふわりと甘い芳香が漂う。

 クレンの香りに、ほのかな柑橘類の匂いが混ざって。

 机を見ると、マグカップが二つ並んでいた。

 クレンと二人、あの温かいオレンジジュースを飲んだカップだ。



「……く、ぅ」


 頭を、抱える。頭を掻きむしる。夜空を見上げ、まっさらになったはずの心に、

改めて後悔が流れ込んでくる。


「う、ぅ……ああ……クレン……」


 何故僕はあんなことを言ってしまったのか。

 どうして僕はクレンを止められなかったのか。


「クレン……ああ……ああぁぁぁ……!」


 心を黒く重く塗り潰されそうなほどに、純粋な後悔ばかりが流れ込む。

 頬を伝う涙に気付いて、いっそ腹立たしくなる。僕に涙を流す権利なんてない。

 ないっていうのに。


「っく……ぅあ……ああああぁぁぁ――!!」


 僕は、信じられないほどの大声で泣いた。声が嗄れるほどに泣いた。


 空が朝焼けに染まり始めても、まだ僕は泣いていた。

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