3-2
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
目を覚ますと、救急病院だった。
まだ僅かに痛む頭で、ポケットからスマホを取り出すと、クレン(名前は赤城理詠になっている)からのメッセージが入っていた。
あの後救急車を呼んで僕を任せたこと。
痣以外に後まで残りそうな傷はなかったこと。
細いもので首を絞められたことは誰の目から見ても明らかなので、言い訳は自分で考えてほしいということ。
(こいつ……)
画面をスクロールしていく。
自分たちはこれから学部長を尋問したり、持ち物や部屋を漁ったりして情報を
集めること。
現状でも他の『信奉者』に繋がる情報が出ているので、しばらくはそれを追うのに忙しくなること。
それが落ち着いたら打ち上げがてら一緒に食事でもしたいということ。
目が覚めたらメッセージを返してほしいということ。
そして最後に、可愛らしいネコが頭を下げているスタンプが押されていた。
「……ふふ」
僕は少し笑うと、シュールなタヌキが目覚めるスタンプを送り、それから今後の
ことについて考え始めた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
1月28日。
あれから一週間が経った日曜日の夜。
「わ、本当に個室だ」
「嘘の個室だったら、文句をつけなきゃいけなくなるね」
僕とクレンは、那珂橋駅近くの居酒屋に来ていた。ガヤガヤと賑やかな所だが、
予約しておいた個室は温かな間接照明で照らされており、なかなかシックで落ち着きのある雰囲気を出している。
「やっぱりこういうところに女の子を連れ込むの?」
からかい混じりに訊いてくるクレンに対し、僕は頷いてやる。
「そうだよ」
「え」
ぽかんとするクレン。僕はすぐに続ける。
「ただし、僕が連れ込むのはクレンだけだ。女の子とサシ飲みならこういう所だってゼミの西森くんが……痛い痛い!」
割りと本気の正拳を背中に突き込んできたので、僕はたまらず個室の下座に逃げ
込んだ。おかしい。真面目に見えて遊び人と評判な西森くんに教わった、女の子受け間違いなしのツカミの台詞だったんだが。
「もう……」
コートを脱いで席に座るクレン。僕はその彼女の姿を見て、思い出した。
(質量――!)
そうだ。忘れていたが、クレンはあれで立派な胸の持ち主なのだ。コートを着て
いる間は不思議と分からないが、コートを脱がれると途端にその質量と直面する
ことを強いられる。しかも、
(白ニット――!)
どういう訳かクレンは体格にぴったりする服を好む。いや、どういう訳も何も単にクレンが着心地などからそういう服を選んでいるだけなのだろうが、何はともあれ
目の毒だ。しかも暖色の照明下において明暗の差がくっきり分かれる白色。陰影の
コントラストが一層にそのボリュームを引き立てる……!
実のところクレンと出会ってからすっかり胸が豊かな女性を趣好するようになってしまったこの僕、風村吹葵的には、久方ぶりの彼女のコートの中の質量との再会は
かなり急勾配な心拍数の上昇に繋がる危険な対面となっていた。実際問題クレンより大きな胸の持ち主もそりゃあいるにはいるが、それはそれ。大きさとか形とか以前にそれが目の前にいるクレンのものであるという事実が否応なく僕を昂揚させるのだ。もしも僕に恥や外聞や世間体がなければ即座に写真を――
(……写真)
「吹葵?」
「ああ、いや」
しばらく黙って考え込んでいた僕を不思議に思ったクレンが不思議そうな表情で
こちらを見ている。僕は咄嗟にクレンの胸――の下のメニューを指差した。
「それが見たくて」
「え」
……これは何も誤魔化せていないのでは? というか、
(普通に胸を指差して『それが見たくて』言ったと誤解されるのでは!?)
一筋の冷や汗が背筋を流れたが、クレンは自分の胸を押さえてそのメニューを
僕に渡してくれた。
「はい。……ごめんね、太ってて」
(太ってて!?)
危うく勢いづいた反応を口走りそうになったが、何とか飲み込み、メニューを受け取る。そしてあくまで冷静を装い、返す。
「ありがとう。あと、僕はそう思わないよ」
「でも、結構動くから絞った方が良いと思うんだよね。たまに邪魔っけだし……
エリカちゃんにもつつかれたりしてからかわれるし」
(エリカちゃん何を!?)
……もしも僕の心に喉があったら、席に着いて一分足らずで既に掠れ始めていただろう。これで表面上は平静を保っているのだから、僕もなかなかタフじゃないか。
「じゃあ、乾杯」
「うん、乾杯」
枕詞に『とりあえず』と付きそうなメニューを一通り頼んだ後、僕はビールが、
クレンはカシスオレンジが注がれたグラスを打ち合わせて乾杯した。クレンは両手でグラスを持って一口飲むと、びっくりしたような顔をした。
「ほんとだ。ジュースみたい」
クレンのオーダーは僕の選択だ。というのも、クレンは今までお酒と言えば苦くておいしくないものしか口にしたことがなかったらしく、最初はお酒を頼むこと自体を
遠慮していたのだ。
もちろん、僕としても無理に飲ませるつもりはなかったが、苦手なままに遠ざけてしまうのも惜しいと思い、ゼミでもキャピッとした女の子がよく頼んでいるやつを
勧めてみた次第である。
「吹葵はビール、苦くないの?」
「苦いね。あんまり美味しくない」
僕がそう答えると、クレンは不思議なものを見る目をする。
「……私もビールが苦いから、お酒苦手に思ってたんだけど。なんで美味しくない
のに飲むの? 修行?」
「似たようなものかもね」
社会に出たら、そういうイベントに出くわす可能性は高い。それの予行演習みたいなものだ。というか、僕としてはゼミでの飲み会そのものが、社会に出た時の備えだと身構え臨んでいた。
「吹葵が良いなら止めないけれど」
クレンがグラスをくるりと回すと、僕の方へ差し出してくる。
「せっかくなら美味しいの、飲めば?」
「それもそうか」
僕はクレンからグラスを受け取り、口をつける。確かに甘くて飲みやすい。何だかジュースのようだ。
「……やっぱり苦い」
一方、クレンは僕のビールを飲んで渋い顔をしていた。顔を見合わせ、笑い合う。
食事が来始めると、話は互いの近況から始まる。
いよいよ就活が始まってしまう、と僕がぼやくと、クレンは「就活って何?」と
言ってのけたり、ゼミでの飲み会に女の子が参加していたことを話すと「女の子が
参加する飲み会って、合コンっていうんでしょ?」という極端な認識でふて腐れたりと、価値観の違いでなかなか面白い話ができた(そしてむくれたクレンもやっぱり
可愛らしかった)。
クレンからは、白の信奉者について聞いた。
結局のところ彼らは、白の獣と心を通じ合わせ、獣を手足のように操ることが
できる技術を持つ連中なのだという。彼ら自身が縁喰いをできる訳ではないが、
操る獣に縁を食わせることで、人の記憶から消えることができる。学部長の暗示は
それの応用だったのだとか。
「あの学部長から情報を、まあ色々やって引き出してね」
「色々って?」
僕が尋ねると、クレンは手にしていた焼き鳥の串を眺める。
「……食事中の話題には不適切かも」
「え?」
「赤の人の一族的にも、白の信奉者は人間じゃないみたいだから」
「分かった。聞かないでおくよ」
ともかくそんな『色々』を経て、片手では足りないくらいの信奉者を発見する
ことができたらしく、一族内の空気も明るいらしい。
あの夜――僕とクレンが別れ別れになった夜の話は、しなかった。
少なくともクレンがその話を出すことはなかったし、僕としてもそういうことは
落ち着いて話せるタイミングで話したかった。
もちろんそうなるつもりはないにしても、また喧嘩別れのようになってしまう
可能性もあるし、お酒を入れながら陽気に話すことでもない。今、クレンと二人で
食べ物とお酒を囲んでいる時は、純粋に楽しい思い出の一つにして、食べ終わったらどこか落ち着ける場所で話をしようと、そう思っていた。
そう思っていたのだが……
「あ、これもおいしー♪」
「コーヒーだって聞いてるけど、苦くないの?」
「甘い! なんだろう……コーヒー牛乳みたいな?」
「おお、日本酒もなかなか」
「……うん。まろやかって感じだ」
「高いだけあるねー」
「う、おいしくなくはないけどヒリヒリするかな……」
「飲めないなら僕が飲むよ」
「ごめんね」
「これはりんごジュースじゃん!」
「アルコール度数、結構高いみたいだけど……んぐっ」
「スマホじゃなくて私を見て。見なさーい~」
「これ、これおいしくない! なんかね、床! 床の味がする!」
「床の味知ってるの?」
「知らない! あはははは!」
そう思って、いたのだが。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「もう食べられないよお……」
「それわざと言ってるよね」
「んふ」
そう思っていたのだが、結果はご覧の通りである。クレンは完全にできあがり、
僕は彼女に肩を貸してひいこらしている。もともと背丈はクレンの方が少し低い
くらいだし、僕はそんなに力があるタイプではないし、胸は押し付けられるし、もうとにかく大変である。
とはいえ、この事態の引き金となったのは僕だ。クレンがあまりにお酒がおいしいと喜ぶので、ついあれこれ注文してしまったのだ。僕もそれなりに呑んだのだが、
どうもあまり酔っ払わない
「これからどうする? っていうか明日、クレンの方は大丈夫なの?」
「んん……明日はお昼前に新幹線乗って博多ー」
「それは大丈夫か大丈夫じゃないか判断が難しいラインだな……」
とにかく駅を目指すことにして、あまり人気のない道を歩いていると、クレンが
ぎゅうと僕の腕にしがみついてきた。胸がとても当たる。
「すいきぃ」
「な、何」
普段のしゃんとしたクレンからは想像できない舌っ足らずな発音の響きは、また
何ともたまらないものがある。
「すいきの部屋行きたい」
「ええ」
唐突な発言だった。さっき、僕の部屋のことが話題に挙がったときは、そんなことおくびにも出さなかったのに。
それに、そもそも。
「別に良いけど、結構時間かかるよ。電車一本乗り継ぐし……」
「ええ……なんで!」
「ここが最寄り駅じゃないからだよ」
那珂橋公園の最寄り駅である那珂橋駅は、高級住宅地とまではいかなくても、自然豊かで人気のある場所である。とても学生が一人暮らしする場所ではない。
「私にお酒飲ませたの、酔わせて部屋に連れ込むためじゃなかったの……?」
「なんで微妙にショック受けてるんだよ……単にクレンに色々飲んでほしかっただけだよ」
「ひどい……」
「酔わせて部屋に連れ込む方がひどいと思うなあ」
「ねむい……」
「寝たら死ぬぞー」
冗談交じりで対応していたが、どうもクレンが休みたがっているのは本当らしい。歩くにつれてかかってくる体重は大きくなっていくし、応対も相槌を打つかのように曖昧になってきている。
(まずいな……)
まさか道端で倒れるということにはならないだろうが、仮に駅まで行っても電車の中でダメになってしまうのではないか。
ネットカフェでのアルバイト中に、酒でフラフラの客が来たことがあったのを思い出す。多くのネカフェは泥酔者のご利用お断りとしているが、実態的にはケースバイケースだと先輩に教えられたのはあの時だ。要は個室に入ってすぐ寝てしまうような客は入れて、個室に入っても騒ぎそうな客は断るようにしているのだという。
とはいえ細かな方針は店によりけりだから、全てのネカフェでそうとは限らない。
(近くにそういう店があればいいんだけど……)
そう思いながら何となしに辺りを見回したところ、西洋風で小奇麗な外装の建物が目に入った。
休憩、宿泊という用途と、その値段が並べて記されたボードが掲げられている。
「…………」
僕は目をしばたたかせて、思わず横のクレンを見た。
「んー……?」
クレンは僕が見たものについて気付いていない。眠たげな薄開きの目で、僕の
ことを見上げてくる。
僕はもう一度ボードを見た。休憩。宿泊。
「……」
ついさっきまでネカフェを探そうとしていたという事実。その気になれば今から
でもスマホで探せる事実。
そんなものはすっぽり頭から飛び抜けてしまった僕は、できるだけ何も言葉を
発することなく、その建物――まあ、なんだ、カップル用ホテルというやつ――へ、初めて足を踏み入れた。
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