3-1
「…………」
公園に足を踏み入れて数歩。クレンが足を止めた。
「クレン?」
「……何でもない。ちょっとこれ、持ってて」
僕はクレンの言うままに、ホットサンドを受け取る。
「どうかした?」
「何でもない。ちょっと荷物、持ってもらいたくなっただけ」
そこから先は、クレンが先導する。微かに鼻を動かしながら、辺りを窺うように。
「……大丈夫?」
「うーん……あまり大丈夫ではない、かな」
ひとしきり辺りを見渡すと、クレンはポシェットからスマートフォンを取り出す。詳しい操作は分からないが、緑の画面が見えた。LINEでも起動したのだろう。
「……んー、ねえ、吹葵」
「何?」
ぽちぽちと人差し指で操作しながら、クレンは歩き続ける。
「正直なところ、いつまでこれ続けようか?」
「……それ言ったってことは、もう続ける気ないって事だろう」
「ふふ、分かっちゃう?」
スマートフォンをしまったポシェットを、クレンは僕に押し付けてきた。本当に
荷物持ちだ。代わりにクレンは、その手に赤く光る剣を発生させた。
「できるだけこの公園からは離れて……じゃ、行ってくる」
「ああ。……いってらっしゃい?」
なんとなく言った見送りの言葉に、クレンは目を丸くすると、照れくさそうに
笑って、地面を蹴った。
空へと滑り出していく彼女。僕は二つのホットサンドをゴミ箱に放り、公園の
出口へ走っていく。
そこに、一つの影が立った。
「気付いていたのか」
学部長だ。僕は足を止めた。
「いつだ。まさか最初からか? 暗示にかかっていたフリをしていたのか?」
「……はい、いいえじゃ答えられません」
僕は少し迷ったが、その話に付き合うことにした。
「最初から気付いてはいたけど、暗示にはかかりました」
「なおの事分からんな。気付いていたなら……いや」
さすがに僕が一から十まで話すまでもなく、学部長は色々と分かっているようだ。
まったく簡単な話で、学部長は『白の信奉者』だった。
ゼミ前面談と称して、一番時間に余裕ができ、就活なんかを見据えて行動範囲を
広げていく三年生に暗示――赤い不可解な光を見たら報告に行く、という類の暗示をかけていたのだろう、とクレンは推測していた。
あまり突っ込んで話していないため詳しいことは分からないが、そういうことを
『信奉者』は得意とするのらしい。
気付いたのは、スマートフォンに覚えのない音声データが入っていたからだ。
講義を受ける時に使う録音アプリで録ったらしいそれは、どうも僕が暗示にかけら
れながらもひっそりと起動した物だったようだ。
まったく覚えていないが、初めて学部長の元を訪問したとき……クレンと再会した翌日には、暗示は一旦解けていたらしい。
「赤の一族の入れ知恵か?」
「……自分なりに考えたんです」
それに気付いた時――学部長に向けて僕が無意識の内にクレンのことを話したり、『赤の武器』がどうとか言っている音声データに気付いた時は、かなり焦った。
どうしてこんなことを話しているのか。どうして僕はそれを覚えていないのか。
分からないことだらけだった。
……分からないことだらけだったが、考えた。
赤の武器を作れなければ、縁を嗅ぐこともできず、手を引かれなければ空も
飛べない僕が、恐ろしい何かに対抗するためには、そうするしかなかった。
「……行かないようにすることを真っ先に考えたんですけど、でも僕は無意識の内に学部長の部屋に行ってた訳ですから、それは無駄だろうな、と」
「なるほど」
遠くの方から、かすかに硬質なものと硬質なものがぶつかり合う音が聞こえる。
学部長は浅く腕を組み、僕の話を聞いていた。
「だからしばらくの間は、毎朝起きると同時に録音アプリを起動してました。お陰でモバイルバッテリーを買うことになった」
「ということは、私と話した内容は筒抜けているか」
「音声データの編集ソフトの使い方も覚えました」
「……しかし、私のことを彼女に話したか、聞いたはずだ。その時の回答に障りは
なかった。ノーと答えただろう」
「そうです。いいえって答えられました」
どうするにせよ、結局学部長に、僕と学部長の話した記録をクレンへバラした、と気付かれれば、その時点でダメだったのだ。
だから、思い込んだ。
「口元を隠して鏡の前で喋り続けるとか、思い込みたい内容を寝てる間ずっと聞く
みたいな下らないこととか……ああ、あと、自律学の講義でやったこととか、やれる限り全部」
もともと、思っていることは全部口にしないタチだった。周囲に合わせて、思っていることの逆を言うことも学んだ。
そもそも、人生の最大の後悔は、思ったことを直接口にしたことだった。
そんな僕に、たったひとつ、思ったままのことを言わないでいるなんてことが、
できない訳がなかったんだ。
……あるいは、そんな自負すらも、あの時『いいえ』と答えた僕の力になった
のかもしれない。
「なるほど。確かにそうなら、ホットサンドも食べやしないだろうな」
学部長が強く勧めた『デートコース』。赤の人の一族が壊滅させられたときの
方法を考えれば、その可能性も当然思いつく。
「一通りわかった。見事じゃないか、風村くん」
学部長は鷹揚に頷く。
「赤でも白でもない君が、私に一杯食わせた。自慢できるんじゃないか?」
「……どうも。僕も、そう思ってました」
「ああ。ところで……何故私はこうして君を足止めしていたと思う?」
――背後から、蹄の音が聞こえてくる。
「……聞こえてきたね。赤でも白でもない君ができるのは、そう、そうやって私の
作戦の一つを覆すのみだ。今から来る私の獣に対しては何も――」
「――ああ、何もできやしねぇだろうな」
荒っぽい男の声。学部長はそちらに視線を向け、目を見張った。
「『豪槍』……!」
二十代後半くらいのがっちりした男だ。この寒いのにジャージにタンクトップと
いう、見てるだけで凍えそうな出で立ち。
腕を振るうと、右手の中に巨大な棒……いや、槍が生まれる。
……足止めしていたのは、僕だって同じだ。
白の信奉者がいることが確実となったこの場に、赤の人の生き残りの一人が来るということは、事前にクレンから聞いていた。
「バカな……『穢れた赤』の助力をするのか? お前が!?」
「何を勘違いしてるか知らねぇが、あんな薄汚い人殺し女でも。テメエみたいな頭のイカレた神秘主義者に比べりゃ数段マシに決まってるだろうが。おいガキ、そいつ
押さえとけ」
彼はクレンと同じように、空へ滑り出した。アーチを描いて僕を飛び越え、背後に聞こえる蹄の音の主に飛びかかる。
「ッ!」
学部長は踵を返して駆け出した。言われた通り、僕は追う。確かに普段運動も
しない僕だが、学部長は初老男で、きっと運動もしていないだろう。
負けるものか。僕が人に誇れるものなんて、若さくらいだ。クレンには悪いが、
彼女のポシェットは早々に放り捨てた。
「待て!」
追いつきそうになった所で腕を伸ばし肩か首を掴もうとするが、学部長も必死だ。振り払われる。
(負けるか……!)
それなら全身で行くだけだ。タックルなんて恰好良いことはできないが、ぎりぎりまで近付いて、思い切りしがみつき、押し倒す。
「ぐ!」
「こいつっ」
足掻こうとする学部長の頭を乱暴に押さえ込む。
「ま、待て! 私が悪かった! 穏便に、穏便に行こうじゃないか」
「そういうのは捕まってから言う事じゃない……!」
頭につづいて、腕も押さえ込む。学部長は腕をビクビクと震わせた。
「頼む、頼む! それが君のためでも……ある!」
瞬間、その袖口から白い何かが飛び出し、僕に飛びかかってくる。
(……蛇!)
クレンと初めて出会った夜に見たような奴だ。ただし羽は生えていない。そいつは僕の首に絡みつくと、そのまま締め付けてきた。
「っ……ぅ!」
僕はどうにか指を押し込んで剥がそうとするが、締め付けは固く強い。その隙に
学部長は逃げ出そうとする。
(く……そ……!)
首への痛みと空気不足の中、僕は考える。そう、僕は考えるしかない。
ヘビを剥がすことは可能か? 白の獣はみんな、物理的に頑丈だ。何か上手い手を思いつければできるかもしれないが、ヘビの弱点なんて分からない。手元にあるのはスマホとハンカチくらい。これで何かできるか? スマホで弱点を調べる? そんな余裕がある訳がない! 他に何かあるか?
(……できない!)
なら簡単だ。このまま力尽きるまで学部長を押さえ込む。幸い、首を締めるヘビは細くて小さい。学部長が服の下に隠しておけるくらいだ。なら、首の骨が折れる、
なんてことにはならないだろう。ならないと信じたい。
「んんッ!」
「ぐむ!?」
息ができないなりに力を込めて、もう一度学部長の頭を掴んで地面に叩きつけた。そして体を押さえ込み直す。
「ば、馬鹿な……まだやるのか? 命は惜しく、ごぶっ!」
もう一度だ。死なす気で打ちつける。力が残っている限り。
「ぐふっ! こ……っぐぅ! この、この!」
だが、結局片手で数えられるくらいの数が限界だった。僕は力を失い、学部長の
上にのしかかるしかできなくなる。学部長はそれを押し退け、立ち上がる。
「こいつ……何故ここまで」
ぼやける視界の中、立ち上がってこちらを見下ろしてくる学部長の額から赤いものが流れている。血液だろうか。
首の締め付けがゆるくなり、ほどける。白く細いものが、学部長の腕へと戻って
いくのが見える。学部長が向かう先は、駐車場だ。
(くそ……っ)
ガンガンと痛む頭を押さえ、なんとか立ち上がる。よたよたと歩き始める。
ふらつきながら、それでもまっすぐ前に進む。
「おい」
その肩を誰かに掴まれた。振り払い、前に進む。
「……おい」
今度は強く掴まれた。振り払えない。やめろ、と言おうとして、激しく咳き込み、足がもつれ倒れ込んだ。
「ああ。それで良い。じきアレが来るだろうよ。あとは俺に任せるんだな」
(くそ……!)
ガードレールに背を預けなんとか上半身だけを起こした僕の目の前を、ジャージの足が過ぎていく。何か言おうとしても、舌が回らない。頭が、動かない。駄目だ。
考えないと。特別な能力も、何もない僕が、考えられなくて、どうする。
「……吹葵!」
クレンの声が聞こえた。開いたままのぼやけた視界に、彼女のシルエットが
浮かぶ。しゃがみこんで、僕の目を見てくる。
「吹葵、ねえ吹葵! ……首、ひどい。絞められたの? 吹葵……ねえ!」
僕の身体を揺さぶってくるクレン。ひどく慌てて……やめさせ、ないと。こういう時は……体を揺すると却って危ないと、災害対処の授業で……
「どうしよう……心臓マッサ……? 人工呼吸? AED? ってなんだっけ……どうし……ねえすい……ねえ……!」
「……チャゴチャやかまし……るんじゃね……」
「……願いします……吹葵……!」
「……慌て……じき治る……ンなら救急車でも…………」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
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