2

 沈みゆく夕日が、少女の姿を赤く照らし出す。

 長く伸びる僕と彼女の影法師が、一日の終わりを示している。




「答え合わせ、だって」

「母は天国に行きました」

 僕の言葉を気にすることなく、アオイと名乗ったその少女は、淡々と語り続ける。

「なんて言い繕っても仕方ありませんが、死んだんですよ。三年ほど前に」

「……それは、気の毒に」

「栄誉ある死でした。あの戦いを最後に、赤の人と白の信奉者の大規模な戦いは

起こっていません……ああ、赤の人と白の獣については知ってますよね」


 戦いとか、栄誉ある死とか、時代錯誤な言葉だと思った。

 だがそれについて思考を止める間もなく、また新たな事実を突きつけられる。


「……知っている」

 そう。僕はこの世界の裏側の戦いについて知っている。

 人の縁を喰らう白の獣。

 それに立ち向かう赤の人。

 いつ知ったのか。どこで知ったのか。そんなことも分からない。ただいつの間にか当然のように知っていた知識。

 真実だと確信しているのに、確かめようのない真実。

 誰にも話していないことを、アオイはぴたりと言い当てた。



「随分びっくりしてるようですが、すみません。私はそういうことに口を上手く

挟めないので、勝手にびっくりしていてください」

 賢いのかそうでないのか判断に困る言い分をして、彼女は話を続ける。

「母は誰よりも強い人でした。しかしその手は穢れていて、決して栄光にあずか

ことのできない人でもありました。自ら死地へ赴くことで、多くの人々を救って、

身を削るような戦いを終結させたとしても、それは変わりませんでした」

「……そうか」

「十人に聞いても九人が『あの女は地獄へ落ちた』というくらいに、悪い人でした。もっとも、たった一人、私が母の次に尊敬する女性が、母はちゃんと天国に行けた、と言っていたので、私はそう考えていますが」


「それを」

 僕はたまらず口を出す。

「それを僕に言って、どうするんだ。君も、君のお母さんも、僕は何も……」

「言ったでしょう。答え合わせに来た、と」

 少女の言葉は簡潔だった。

「人助けと思って付き合ってください。その後は、忘れても構わない」

「そんなことを言うな」

 僕は反射的に反論してしまう。

「忘れても構わないなんて、言うものじゃない」

「事実ですので」

 だが対するアオイも冷めたものだ。自分の目的しか見ていないのだろう。



「ともかく、三年前に母が死にまして、遺品を整理していたところ、私に託す内容の手紙がありました」

 少女のつぶらな瞳は、まっすぐに僕を見つめ続ける。

「私個人に宛てる手紙ではなく、私に託したいことの手紙です。とはいえ私も、

小学校に白の獣狩りにと忙しい身なので、そのために割く時間は一年に一日と決めていました」

「……一年に一日?」

「ええ。1月22日。毎年1月22日に、こうしてここであなたが来るのを待つことにしたのです。まさか三年目で会えるとは思っていませんでした。ラッキーです」

「なんで1月22日に、この場所でなんだ」

「今日が母とあなたの運命の日で、ここが母とあなたの約束の場所だからですよ」


 運命の日。

 約束の場所。

 覚えがない。どちらにもまったく覚えがない。そのはずなのに。

 どうしようもなく心がざわつく。



「さて、ここからが本番です。託されたことを果たしたいので質問をします。答えてくださいね?」

 こんなの、相手をする必要はない。気味悪い子供だとここを離れることもできる。きっとこの子も追ってきたりはしないだろう。

「……ああ」

 だが、この遭遇が運命と約束に基づくものだとしたら、たぶん僕はそうするべき

ではない。


「家族はいますか……娘さんがいるんでしたか」

「……今五歳になる。来年の春に小学校だ」

「奥さんはどんな人ですか?」

「奥さん、ではないよ。結婚はしていない。愛してるということもないが、嫌いでもない……信用のおける相手だ。ITベンチャーで成功して、収入や社会的地位も、僕より高いしね」

「もうちょっと簡単な言葉で」

「…………しっかりした人だ。異性としてドキドキはしないけど、頼もしい」

「なるほど」


 アオイは、いつの間にか手にもっていた学習ノートに僕の言ったことを書き込んでいく。カリカリと几帳面に。


「健康ですか?」

「健康体そのもの」

「友達はいますか?」

「……多少はね。少ないと思うけど」

「悪いことはしていませんか?」

「ああ。人に言えないことはしない。それだけが取り柄だ」

「幸せですか?」

「……まあ、幸せじゃないかな。毎日そこそこ働いて、生きるに困ることはないし、子供の成長は楽しみだし」


 そんな取り留めのない質問に対する答えを逐一ノートに書き込むアオイ。そして、こんなことを訊く。

「写真を、持っていますか?」

「……写真」

 何を示すかは言われずとも分かった。僕は財布からその一枚を出し、見せる。

 朝空を背景に笑う女性。

「これか」

「……ええ」

 今まで変化を見せなかった少女の目つきが、すっと細まった。

「幸せそうですね、母さん」



「……やっぱり、これは」

 君の母親の、クレンさんという女性なのか。

 そう訊ねようとしたところ、少女はすっと立ち上がる。

「どうも、ありがとうございました」

「え」

「託されたことは終わりました。なるほど、悪くなかったです」

「何が……」


 話が、一方的に打ち切られる。

 どころか、少女がもうこの場から去ろうとしているようにすら思える。

「母は天国で泣いているでしょう」

「……なんだって?」

 少女は一段ずつ階段を降りていく。僕の横を、通り過ぎる。

「泣いています。悲しみです。何せあなたは、結局最後まで普通の人で、母のことをちっとも覚えていなかったのですから。母は最後まで、あなたを想って戦い、きっと死ぬ時だってあなたを想っていたのに。残酷なことです」

「僕を、想って」

 ほんの少しの実感も湧かない。

 だというのに、胸がざわつく。さっきからずっと、ざわついている。


「……済まない。こんなことを言うとおかしいと思われるかもしれないが」

 僕は彼女を追い、その肩に手を置いた。

「もうちょっと、そのクレンさんについて話してくれやしないか」

「なぜですか」

「知りたいんだよ。確かに僕は、その、クレンさんのことについて何も知らない。

いや、多分何もかも忘れてしまったんだろうけど……だったら、知り直したい」



「お誘いはありがたいですが、お断りします」

 返事はすげなかった。アオイはもう、僕のことを見てもいない。

「白の獣の匂いがします。幼体でしょうが、見失う前に狩らなければ」

「白の、獣が」

「それでは」


 彼女はとん、とん、と階段を両足飛びで二段ほど降りると、そのまま力強く跳躍し空へと滑り出していった。

 僕は手を伸ばしたままそれを見送る。その姿は、すぐに公園の脇に広がる林の影になって見えなくなってしまった。



 一人、取り残される。

 僕は呆然として、その場に座り込みそうになり……



(……馬鹿か)


 違う。そうじゃない。僕は立ち上がる。


(馬鹿か!)




 地面を蹴り出す。

 彼女を、追う。

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