第三幕:写真

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 2018年、1月5日。

 クレンと出会い、別れて、4年が経とうとしていた。




 僕は、風村吹葵すいきは、東京の大学に進学していた。

 学校の成績は、高校最後の一年で冗談のように伸び、先生に驚かれた。勧められるままに受けた大学に、なんとなく合格してしまった。

 東京で一人暮らしを始め、大学に通うようになり、アルバイトも始めた。サークル活動はウマが合わないのでしなかったが、ゼミというものに入ると、否応なく人と

接する機会も増えた。

 ゼミの仲間は気の良い連中ばかりで、淡々とした僕にもよく絡んでくれた。僕も

それで、ちょっと明るくなったと、アルバイト先で言われたりもした。



 ……クレンのことは、忘れない。忘れられない。忘れられやしない。

 それでも、こうして毎日を生きていくと、彼女のことを意識しなくなっていく

自分に気付いてゆく。


 勉強に逃避せずにはいられなかった一年。

 大学という新たな環境に翻弄された一年。

 新しい土地と人間関係に慣れてきた一年。

 社交性も増して人当たり良くなった一年。


 スマホの電話帳がパンパンになるほど知り合いが多い訳でもない。

 一日に何度もLINEにメッセージが届いたりすることもない。

 深く繋がれた恋人や、なんでも語り明かせる親友がいる訳でもない。

(というか、人間関係については未だにぼっちと言った方が良いだろう)

 能力だって、講師や教授に目をかけられるほど優秀な訳でもない。

 アルバイトだって普通だし、サークル活動だってやっていない。

 もうすぐ始まる就職活動に対して、何かカードを持っている訳でもない。


 それでも、この四年を経て、僕は『人並み』に近付いていった。

 そして近付くたび、クレンの存在が遠くへ行くように感じてしまう。



 アパートの窓から、夜空を見上げるたび思い出す。

 あの夜のこと。

 どうしようもなく愚かな僕が、どうしようもなく彼女を傷付けたあの夜。

 あの夜から随分遠くまで来てしまったと、自覚するたび僕は思う。



 これで、良いのだろうか。




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇




 僕がアルバイト先に選んだのはネットカフェだった。選んだというか、たまたま

アパートから近かったから、応募してみたら通ったという具合で、もう三年目だ。

 ネットでは楽だのなんだのと言われがちな仕事だが、実際はそう暇じゃない。

 何百とある個室を、使い終わったらすぐに掃除して、放置されたマンガは棚へ

戻し、食器類も戻し、ゴミも捨てる。個室内はもちろん、店内は常に清潔を保たな

ければいけない。ドリンクバー周りなんかは、いつも人がいるのにすぐ汚れるので

大変だ。オーダーが入れば軽食も作る。ブランケットは戻されたらすぐに洗濯する。監視カメラを見ながら、妙な事を致し始めそうなカップル客や個人客には注意を払い『騒音』を上げ始めたら即刻で注意を入れに行く。マシントラブルもしょっちゅう

なら、代金が支払えないという客もちょくちょくいる。そういう客に対しては毅然と対応しつつも、クレームに対しては腰低く頭を下げ続けなければいけない。客が

少ない時は暇だろうって? まさか! そういう時は手持ち看板を持って街頭宣伝。僕なぞに目もくれない通行人へ向け、雀の涙程度の割引率しかない優待券を差し出し続けなければならない。この時は暑い日も制服を脱げないし、寒い日も雨雪が

なければ上着を着ることができないのだからたまらない。券をどうにか配り終えたら店に戻り、また店内を掃除して――




 そんなある日のことだった。


「……はい。追加料金はございません。ご利用ありがとうございました」

 午後八時二十分。シフト時間の終わり近く。

 残り時間でやるべきこと、それが終わったらするべき大学の講義課題などを

考えながら、ほとんど手癖で利用終了の手続きをする。

 料金前払いの長時間パック利用者だ。時間延長さえしていなければ、こういう客は楽で良い。長時間利用者は、自分がそこで長時間過ごすものだから、個室の中も

綺麗に使ってくれている傾向がある。そんなことを思いながらレジ画面を見て――



『赤城理詠』



 表示された利用者名に、妙な引っ掛かりを覚えた。どこかで聞いた名だ。大学で

同じ講義でも受けていたのだろうか。

 赤城理詠。頭の中で読んでみる。赤城理詠。あかぎりえ。あかぎ――


「!!」



 心臓が止まった。

 止まって、また動き出すと、今度はじわりと汗が吹き出てきた。

 あかぎ、りえ。あかぎりえ。字面で見たのは初めてだが、その名で彼女を呼んだ

ことなど、数えるほどしかないが、間違いない。


 クレン。

 顔を上げる。その背姿が、長い黒髪が、店外へ消えていく。雑踏の中へ。


「待っ……」

 声を上げかけ、それを飲み込む。今は勤務時間中だ。カウンター内に他のバイトはいない。客が来たらどうする。

 いや、そもそも彼女がクレン本人だという確証はあるか。ありきたりな名前じゃ

ないが、珍しい名前でもない。長い黒髪の女性もそう珍しくはない。

 そもそも、声をかけてどうする。今更何を話すつもりだ。何を話せる身分だ。

あんな風に別れておいて。ほんの四年であの遺恨が消えたとでも?

 あれがクレンでも、彼女は僕を見たはずだ。僕の声も聞いた。その彼女は僕に

対して何も言わなかったぞ。彼女はもう僕のことを忘れたんじゃないか。あるいは、忘れたがっているんじゃないか。あんな、青春と言うにはあまりにも血なまぐさい

愚かな過去を――



(馬鹿か!)

 脳裏によぎる無数のささやきを一蹴で追い出すと、僕は駆け出す。カウンターを

飛び出す。

 勤務時間? 人違い? 何を話す? 忘れたがっている?

 知ったことか! ここが場末のネットカフェだろうと、彼女の名をもう一度見た、この瞬間が運命だ。

 後のことなんて考えるな。

 今駆け出さなければ何も得られない。



「待っ……て! 待ってくれ!」


 自動ドアから出ると、震えるような冷たい外気が僕の身を突き刺す。

 店前の道路は、自動車が行き交うような大通りではないが、人通りはそれなりに

多い。店から飛び出して左右を見る。さっきの後ろ姿。あの日とは違う色のコートに変わらない色のマフラー、そして束ねて垂らした黒い髪。見れば分かる。見失い

さえしなければ。

(……いた)

 駅に向かう道の中に、その後姿を認める。クレン、と名を叫びそうになるが、

彼女は赤城理詠を名乗っていた。みだりにその名で呼べば迷惑になるかもしれない。というか、見えているなら走れば追いつける!


 僕は走った。走りながら、何か考えることはできなかった。

「あの……!」

 声をかけながら、その肩を掴んだ。髪をなびかせ、彼女が振り返る。



「……っ」

 息を呑む。

 その眼差し。その顔つき。その髪。すべて。

「ああ……」

「……え?」

 忘れやしない。夢にまで見た。少しばかり、大人っぽくなっているけれど。

「吹、葵?」

「クレン」



 ……運命の再会を夢想したことはあった。

 それがこんな路上、変哲もないアルバイト先になるとは思いもしなかったけれど。


 この日僕らは、確かに再会した。




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇




「……まさか、四年越しに会っていきなり『あと45分待ってくれ』なんて頼まれる

とは思わなかった」

「……バイトだったんだ」

「真面目。その間に私がいなくなっちゃうとか、考えなかった?」

「その時は、その時だ」


 僕はあの後、自分のシフトをきっちり終えてから、改めてクレンと会った。

 長い黒髪も、すらりとした立ち姿も、寒さに赤らむ頬も、女性らしい体格も。

 何一つ変わらないまま、あの日から成長した姿の彼女に。


「ネカフェはよく使うんだ?」

「便利だから。シャワーなんかもあるし、ネットできるし」


 シフトを終え、着替えを終えると、ちょうどクレンがネットカフェから出てきた

所だった(改めて入店したのだ)。それから僕らは二人、並んで歩き出した。


「まさか吹葵が東京にいるなんて」

「こっちに進学してきたんだよ」

「うわー、大学生だ。勉強難しい?」


 寒空の下、多くの人々が行き交う中を、その中の二人として歩いて行く僕ら。

 こんなことがあるなんて、昨日……いや、それどころか数時間前の僕だって、想像すらしていなかっただろう。


「難しいというか、複雑。覚えることが多くで……ああ、でもノート持ち込める

試験とかもある」

「え、何それ。楽勝になっちゃうんじゃない?」

「楽勝なのもあるね」


 その会話の内容は、当たり障りない互いの近況報告に終始する。

 あの夜のことには、ごくごく自然に触れられない。


「……そっちは、相変わらず?」

「相変わらず。ニュース聞いて、あっちこっち行ったり来たり……ああ、でも色々と楽にはなったよ」

「楽に?」


 歩きながら、少しずつ人気ひとけは減っていく。

 先行するのはクレンだ。僕はそれについていくのみ。


「赤の人、生き残りがいてね? あの日遠征に出てた人が一人と、大怪我で入院させられてた人が一人に、体調を崩してて病院にいた子が一人」

「生き残り……!」

「その人達はしばらく潜伏してたんだけど、ちょうど八月くらいに会って……

それから、紹介してもらった後援者の斉木さんって人に、お世話になってる。

……その人、女の人だからね」



 そして、クレンが立ち止まった。

 辺りに人影はない。雑多なビルの裏手だ。

 彼女が振り返る。


「それじゃあ、この辺りで」

「うん……え?」

 僕は思わず訊き返した。クレンは柔らかな笑みを浮かべている。

「亜成体。増える一方だからね。一日も休んでられないよ」


 ……クレンの言う通りだ。

 かつてカラ戸籍問題と呼ばれていた事象は、もはやニュースに挙がることも少ないくらいに、日常的な現象となっていた。

 各地の地方自治体は、国の指導を受けて『存在しない人間の痕跡』を整理する

手続きを少なくして、それに起因する事件が起こったりもした。

 ネット上では『人間を殺して周辺の人間の記憶も改竄する○○の陰謀だ』という

陰謀論がまことしやかに囁かれている(○○にはいろいろな組織の名前が入るが、

もちろん『白の獣』は入らない)。


 そしてそれらの事実は、すべて白の獣の亜成体が数を減らしていない……いや、

増やしてすらいるということを意味する。



「でね、ほら。見てみて」

 クレンはひらりと手を振ると、僕の方へ差し出す。

 そこに赤い光が浮かぶ。と思うと、その赤い光は伸びて、短いながらも剣のような形状になった。

 伸びた刃の切っ先が、ちょうど僕の胸に触れた。

 あの日、忘れ得ぬ傷を負ったところに。


「まだ短いけど、こんなものも作れるようになった。恰好良いでしょ?」

「…………」

 言葉に窮す僕の前で、クレンは語り続ける。

「あの日の成体みたいなやつを倒すことはできないかもしれないけど、それも、

生き残ってた三人と力を合わせれば話は別だし」

 いつの間にか、視線を少し逸らして。

「……必要な時は人も殺すけど、殺す人は選ぶようになれたんだよ。知ってる?

小説みたいな話だけど、日本にも外国の工作員とかマフィアみたいな人がいて、

そういう人は記録を残さないようにしてるから……」

「……クレン?」



「だからね、吹葵」

 クレンは僕を見る。いや、僕に突きつける剣の切っ先を見る。

「もう私に関わらなくて良いの」



「……」

 ああ、と、今になって理解した。

 これは、拒絶か。そうだな。当たり前だ。剣を突きつけられておいて、何を僕は

のんきにしていたんだ。

「覚えていてくれて、嬉しい。見つけてくれて、声をかけてくれたのも、嬉しい。

嬉しいけど、吹葵。私はもう、大丈夫だから……」



「あの日の話がしたい」

 僕はクレンの言葉を遮った。彼女の表情が強張り、僕を見る。

 ――拒絶されることなんて、一番最初に想定していた。

 ただ僕が気付くのが遅かっただけだ。

 目の前にクレンがいるなら、問題ない。想定の通りに、話すだけ。


「あの夜のこと。もう一度話したい。話して、謝りたい」

「……謝ることなんてないよ。吹葵は何も」

「じゃあ謝ることは後で考える。でも、話をしたい」

「なんで……あの事に触れる必要なんて、ないじゃない」

「僕に必要なんだ」


 僕はわずかに、前に踏み出した。クレンは僕へ突きつけていた剣を引く。

「身勝手って思ってくれて良い。でも僕は、あの晩のことを全部覚えてる。全部だ。夢にだって見た。何度も。起きた時には心臓が爆発しそうで……悪夢だよ」

「なら、どうして話そうとするの? あんなこと……」

「クレンと過ごした瞬間を悪夢のままにしておきたくない」


 また一歩踏み込む。クレンは剣を完全に引いた。

「クレン。さっき、クレンはもう大丈夫だって言ったけれど」

「そう、だよ。私は大丈夫。強くなったし、少ないけど味方も、いるし」

「そんなこと関係ない。クレンが大丈夫だからって、僕がクレンと関わらない理由になったりはしない」

「吹葵」

「ああ。最初はそうだったよ。クレンが一人で、可哀想で、だからうちに来ても

良いって言ったんだ。でもあの時にはもう違ってた」


 更に一歩。クレンは後ずさったが、その一歩は僕が踏み込むより小さい。

「――僕も好きだったんだ、クレン。今もきっと好きだと思う。四年も経ったのに

こんなこと言うなんて、気色が悪いかもしれないけど」

「嘘……」

「嘘なもんか。その証拠に、あれから四年、他の女の子と仲良くなったりは……いやそれは僕がコミュ力ないからかもしれないけど……」

「…………」



 クレンは俯いて、また一歩後ろへ。

「……今日は、もう行く。白の獣の亜成体を、狩らなきゃだから。忙しいのは、

本当なの。本当だから」

「クレン……」

「でもね」

 彼女は柔らかに笑んで、僕を見つめた。

「また会いにいくから。すぐに」

「……わかった」

 僕は、頷く。


 次の約束とか、LINEなりメールアドレスの交換なりとかをしたいのが本音だが、

きっと彼女が急いでいるというのも本当なのだ。だから頷いた。

 もう一度、会いに来ると言ってくれた。

 それで十分だ。それだけで十分だ。



「吹葵」

 こつこつ、とブーツの踵を鳴らしつつ、背を向けたクレンが振り返る。

「制服、似合ってた」

「え?」

「っていうか、カッコよくなったね。四年前は、どちらかって言うと可愛い系だと

思ってたけど」

 くすりと笑うクレン。

「……声かけられた時、ちょっとドキッてしたよ!」

 そう言って、彼女は地面を蹴って空へと滑り出していく。


「――――」

 僕は呆然とそれを見送りながら、熱くなる頬を押さえ込んだ。




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇




 翌朝。

 僕は僕の部屋で目を覚ます。

 ……昨夜のことを思い出す。クレンとの再会。語らい。突きつけられた剣。



 赤い剣――


 ――赤い光。きれいな赤い光。超自然の赤い光。

 赤い光の武器だった。赤い光の。



「……ああ」

 僕は時計も見ずに、ぼんやりと着替え始める。

 今日は、大学に予定はなかったけど。いや、そうだ。



 学部長に、会いに行かないと。

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