『少女は黄昏(ソラ)へ翔んでゆく』
浴川 九馬
第一幕:運命は赤い棘
1
昔から、夜空を眺めるのが好きだった。
望遠鏡で星を見るとか、キャンプに行った先、芝生に寝転んで見上げるとか、
そういう特別な経験をした訳じゃない。
ただ、夜空を見上げるのが好きだった。自分の部屋で、窓越しに。
それが嫌になったのは、中学に入った頃だったろうか。
初めて顔にニキビができて、自分の顔を見るのが嫌になったんだ。
夜空を見上げると、窓ガラスに自分の顔が映り込む。鼻の横の吹き出物も。
それが嫌だったから、僕は思い切って窓を開けた。
すると、夜空の手前に僕が映り込むことはなくなった。
本当の夜空がそこにあった。
以来、僕が夜空を見るときは、窓を開けて見ることにした。
夏は虫除けを焚いて、冬は外出用のコートを着たりして。
そして高校生になった頃、僕は窓枠に足をかけた。
体をかがませ窓をくぐり、上の方へ手を伸ばし、屋根のへりを掴む。
雨除けを足がかりに、身体を持ち上げて、屋根の上へ登った。
そして、屋根の上に寝転がった。
視界一杯に広がる夜の空。
他に何もない。ただ星と月だけが光り浮かぶ、混じりっけない夜空。
最高の気分だった。
……でも、そんなことは誰にも言えない。
僕は知っている。
一面に広がる夜空の美しさに感動するなんて、キャンプに行った小学生あたりが
こなすイベントだということを。
学校の部活、予備校の勉強に勤しむ中高生たちは、毎日のように夜遅くまで
外にいて、夜空を見上げるなんてことはないということを。
今どき同級生のみんなが最高だと言うなら、それはもっとすごい、たとえば
ライブに行ったとか、新しくできた店に行ったとか、新しいゲームだとか、
そういうものであるべきだってことを。
高校生になって初めて上がった、家の屋根から見上げる夜空が最高だ、なんて。
恥ずかしくって誰にも言えやしない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
夕飯の後、食器を洗うのは僕の役目だ。
仕事から帰って二人分の夕飯を用意した母さんは、食べ終える頃には電池切れで、
ソファに寝転がり、寝ているのか起きているのか分からない状態で、ただぼんやりとテレビを眺めている。
「お風呂、沸かし直したよ」
「んー」
返事にも力がない。母さんは寒がりなので、冬は人より厚着して出かける。それが
重たくて、冬はいつもより疲れるんだとか。
僕は水道を止め、手を拭き、リモコンでテレビをワイドショーへ切り替える。
「あー」
疲れている母さんはニュースを嫌う。聞いているだけで嫌になるらしい。
母さんはゆっくりと起き上がり、鈍い足取りで風呂場に向かって行った。その
背中を見て、申し訳ないと思いつつ、いつかのドキュメンタリー番組で見た、
特殊な音波で追い払われる野生動物を思い出してしまった。
テレビを消そうとボタンに手がかかりかけ、ニュースの音声が耳に留まる。
「――先日のニセ戸籍事件以来、各地で似たようなケースが多数確認されています」
ニセ戸籍事件。
その名の通り、存在しない人物の戸籍が作られていたという事件だ。しかも
その戸籍に基づいて色々調べると、その存在しない人物が、学校に通ったり、
病院に行ったりしていた記録が出てくるのだという。
「……ええ。本当に知らないんです。なんにも」
その存在しない人物の戸籍上の母親だった人が、テレビで語っている。
「子供なんて、いませんよ。ずーっとうちは子なしで。何だか分かりませんが、
気持ちが悪いですよねえ」
僕はテレビを消し、家の階段を上がる。
部屋の電気をつけて、時計を見た。時間は十時。
(……まだ早いな)
僕はそれから二時間ほど机に向かった。勉強しつつ、時々スマートフォンを
弄ったり、ノートに落書きをしたり。まあ、一時間くらいだろう。
大学受験に向けてバリバリと勉強に取り掛かるのは、この冬が終わってからだと
決めていた。だからと言って、他に何をしているでもないのだが。
時計の長針と短針が12を指して重なる頃、僕は階下に降りた。
台所で断熱カップにオレンジジュースを注ぎ、電子レンジで温める。そして自分の部屋に戻る。上着を着込み、帽子をかぶり、手袋を着けて、窓を開く。
「寒っ……」
そう呟きながら、カップを先に屋根の上に置く。続いてクッションを。そして
最後に僕自身が、屋根の上へ。
部屋が冷えるのは嫌なので、窓を閉める。
はあ、と息を吐くと、白い靄になって立ち上っていく。
それを目で追い、顔を上げる。
夜空だ。
澄んだ夜空だ。
冬という季節は、一年でもっとも空気に混じりっ気がないという。それの真偽を
確かめるすべはないが、確かにこの季節の夜空には心惹かれる。
……いや、適当を言った。僕はいつだって、夜の空には心惹かれていた。
さて、枕を頭の下に置き屋根に寝そべった僕だが、ここで何か特別なことを
する訳ではない。
視界を夜空だけにしてぼんやりする日もあれば、スマートフォンでネットを
色々見て回る日もある。
今日はネットの日だった。ニュースまとめサイトを開き、リンクからリンクを
踏んで、下らないネタから真面目なニュースまで、様々な記事を見る。
こういう事をおしゃれに言うとネットサーフィンと言うらしいが、僕はあまり
その言葉にピンと来ていなかった。なんというか、ちょっとおしゃれ過ぎる。
ネットを海に例えるなら、どぶんとその中に潜って、面白いものを見つけたら
じっくりと眺めて、また別の場所に潜って……
(ネットすもぐりって感じだな)
一人で考え、ふふ、と笑う。
もっとも、それを共有する相手はいない。母さんはだいたい疲れているし、
父さんは転勤族で単身赴任。学校にも、そんな下らない雑談をする友達はいない。
スマートフォンの画面を暗くして、それを眺める。それ自体は普通だが、実は
ケースは特別なものだ。
何やらアメリカの軍が使っているとかで、狙撃ライフルの弾丸すら防ぐという。
ニュースサイトの読者プレゼントに応募してみたら、当たったものだ。
手に入った時は、学校でネタにできるかも、なんて夢を見たものだが、現実は
寒々しい。わざわざ挨拶をする程度の仲のクラスメイトにこれを見せびらかした所で何にもならないということは、実行するまでもなく分かっていた。
(ぼっちか……)
そう。僕は、風村
中学の頃からだと思う。高校に入れば変わると思っていたが、変わらなかった。
二年になれば変わるかもと思ったが、やっぱり変わらなかった。
三年で変わることは、もう期待していない。じゃあ、大学に入れば……?
(……変わらないんだろうなあ)
さっきまで見ていたまとめサイトの記事を思い出す。『大学に入れば人生変わると思ってた奴wwwww』。並ぶ書き込みは疲れ切った先輩たちの愚痴ばかり。
行動しなきゃ変わらないぞ、というそれらしい忠言には、行動したって失敗したら余計悪くなる、という後ろ向きな反論。
変わらないのか、と不安がる言葉。俺は変わった、という、自慢のような励ましのような体験語り。俺は悪くなった、という自虐。
どれも、これも、真偽も分からない雑音にも等しい言葉たち。
そしてその雑音に左右される、僕。
両腕を広げて、屋根の上で大の字になる。
目を閉じて、冬の空気を吸う。肺とかお腹が冷え込み、冬の匂いに満たされる。
それを吐き出す。体の中で渦巻いていた息苦しさが、排出される。
やめよう。やめよう。
わざわざ夜空の下で、こんな気持ちになることはない。僕は目を開き、空を見た。
そう、ここでネットすもぐりをしていると、これが良い。嫌な気持ちになった時、
頭がぐちゃぐちゃになった時、あとグロ画像とか踏んだ時、ぱっと気持ちをなくして
夜空を見る事ができる。
心が綺麗に、清められるんだ。
いつもと変わらない夜の空。
暗闇の中、白い星がぽつりぽつりと瞬いている。
星図のようなたくさんの煌めきではない。何せここは都会、名古屋である。
たとえ冬でも、地上から見えるのは、一握りの一等星や二等星くらい。
でも、それでよかった。そのささやかな光と広がる闇が、僕の心の景色だった。
そろそろ1時になる。
冷めてしまったオレンジジュースも飲み終わった僕は、体を起こした。
その視界の右端に、赤い光が入った。
「ん?」
不思議に思って、そちらを見る。
ここは住宅街だが、少し先には大きな道路が通り、その向こうには雑居ビルが
立っている。
その壁の辺りに、赤い光が走っていた。
「……?」
目をこする。何かの光の反射だろうか。自動車のブレーキランプ? いや、それにしては細かった。
ほどなくして、また赤い光が灯った。光はスッと飛んで、消えた。そして、また
光る。また飛んで、消えて、また。
「何だ……」
僕は好奇心でそちらに足を向け、それからスマートフォンのカメラを起動した。
人に見せようとか、そういう気持ちはない。
ただ、これを記録したいという気持ちがあった。
目の錯覚か、光の反射か、あるいはもっと別の――
スマートフォンのランプが光り、周囲を白く照らす。
すると、赤い光が見えていた辺りに、何か見えた。
……いや、違う。その何か、影のようなものが見えたのは、スマートフォンの
明かりのせいではない。距離がありすぎる。
だが、何か、見え……
「……や、ばっ!」
違う。見えたんじゃない。
近付いてきたんだ。飛んできたんだ。
僕はじりっと後ずさり、それから後ろを向いて反対側まで走る。屋根が平らで
助かった。そうでなければ足を滑らせていただろう。
ばん、と音がした。僕はそちらを振り返る。飛んできたものが、着地していた。
暗闇の中でも見える。白いからだ。僕はそれにスマートフォンを向けた。
光に照らし出されたのは、白く、長いものだった。ホースのような太くて長い
ものに、折れた長い針金のようなものに、カーテンのような物がくっついている。
(いや、そうじゃなくて……)
僕は目をこすって見方を改める。違う。これはホースでも、針金でも、カーテン
でもない。
ホースは胴体。
針金は腕。
カーテンは膜。
コウモリのような翼をもつ、ヘビ。
「いやいや……」
悪い冗談だ、と思えたのは一瞬。
その白いヘビは、牙の並んだ
「いやいや……!」
勘弁してくれ、と思う。こんなまるで、ゲームの中に出てくるようなモンスターに自分の家の屋根でエンカウントするなんて、どうかしている。
悪い冗談だとしか思えない。あんな赤い光を見たせいか。
(……赤い、光?)
そこに思い至り、僕は気付いた。
こいつは赤くない。白だ。真っ白だ。
さっきの赤い光は、どこに――
その瞬間の事だ。
赤い光が、飛んできた。
それは白いヘビの背中に命中した。ヘビはグエェ、と苦しげに声を上げ、
のたうち回る。
僕は顔を上げ、スマートフォンのライトをそちらへ向けた。
赤い光がどこから来たのかを見るために。
そしてそれが分かったのは、トン、という着地の音と同時だった。
すらりとした少女だった。
長い黒髪を頭の高いところで括った少女だった。
ダッフルコートに赤いタータンチェックのマフラーを巻いた、少女だった。
僕の家の屋根に、綺麗な女の子が立っていた。
その手の中に、赤い光が灯る。
僕が赤い光だと思っていたそれは、厳密に言うなら赤い光を発する
ものだった。指と指の間に挟んで持てるくらいの、棘。
彼女は腕を振るって、白いヘビに向かってそれを投げる。ヘビはまた転がる。
彼女はヘビに歩み寄ると、屈み込んでその体を押さえて、
「暴れるな……っ!」
いつの間にか新しく手に持っていた赤い棘を、背中に突き込んだ。
ヘビも暴れるが、掴まれていては逃げようがない。彼女は厳しい表情で、
白いヘビの背中を開くように、手を滑らせていく。
ヘビは次第に元気を失い、やがて動きを止める。
すると、そのヘビはすうっと消えて見えなくなってしまった。
こんなところまでゲームみたいだな、と僕は思った。
屋根の上は静かになった。
その女の子は、白い息を吐きながら立ち上がる。
深い息。ため息のようだった。
「あの」
僕が何か言おうとした瞬間、女の子は僕に向けて腕を振った。
「え」
「……馬鹿ね」
胸が痛んだ。
馬鹿と言われて、傷ついたからではない。
そこに赤い棘が刺さっていたから。
「こんな時間に、こんな所にいるなんて」
僕は力を失い、仰向けに倒れ込む。
視界いっぱいに夜空が広がる。胸のあたりの痛みから、温かい液体が広がっていく
のが感じられる。
(ああ……)
刺されて、血が出ているんだ、と思った。
力が抜けていく。
先ほどまで、高鳴る心臓に温められていた体が、急激に冷えていく気がした。
「……ごめんなさい」
姿は見えない。
だが、女の子は最後に、泣きそうな言い方で謝って、トン、という足音だけを
残し、消えた。
跳んでいったのか、本当に消えたのかすら、分からない。
あるいは、現実に存在していたのかすら。
何も分からないまま、僕の意識は消えていく。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
2014年、1月22日、夜。
僕は彼女と出会った。
寒い寒い、夜空の下でのことだった。
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