2

 ずりずりと、体を引きずるように歩く。

 まだ正午なのに、ひどい一日だった、と総括したくなる、そんな一日だった。


 まず、朝。目を覚ましたら屋根の上だった。

 固い屋根で一晩過ごしたということで、全身が痛かった。

 コートの胸部には穴が空いて、下のシャツまで裂けていた。

 胸には浅い傷が付いていて、ヒリヒリと痛んだし、冷えた。

 時間を見ようとスマートフォンを探したら、なんと真っ二つに割れていた。

 狙撃ライフルで撃たれても平気だという売り文句のケースもろともに。


 がっくりしながら部屋に戻ると、もう学校に向かわなければならない時間だった。

 母さんの用意した朝食はよりによって目玉焼きトースト(慎重に食べないと黄身で服を汚す)だったので、食べずに家を出た。

 朝のバスは遅れていて、人が多く、ぎゅうぎゅう詰めで立ちっぱなしだった。

 息を荒げて教室に駆け込んで、机に座ってもぜーはー言うのが止まらなかった。

 名前も知らない女の子に心配されて、大丈夫、と言おうとして咳き込み、余計に

心配された。

 喉が苦しいのも、体が熱いのも、一時間目に入っても収まらず、ここでようやく、僕が風邪を引いている可能性に気付いた。

 それでも一時間目終わりには落ち着いたので、大丈夫かと思ったら、二時間目が

体育だった。


 ここで休めば良いのに、まあ面倒だしな、と参加してしまうのが僕だ。


 案の定、時間半ばほどでフラフラになり、飛んできたバスケットボールを

頭に食らってあえなくダウン。

 保健室で休まされた後、家に帰されることになった。

 名前の知らない女の子にカバンを持ってきてもらって、また心配された。

 帰りのバスの中でも、知らないおばあちゃんに心配された。



 そうして最寄りのバス停から降り、ようやく僕の家が見えてきたところである。

 やはり体育が良くなかったのだろう。体が熱いし、息も熱い。視界もなんだか

ふらふらとして、一刻も早くベッドに倒れ込みたい気分だ。

 ぼんやりした頭で、昨日の夜のことを思い出す。


 白い怪物。

 翔んできた女の子。

 赤い棘。


 すべてが現実離れしていて、今のくらくらした頭で思い出すと、何だか良い感じにモヤがかかって、すべてが夢だったかのように感じられる。

 だが、違う。あれは確かに現実に起こったことだ。

 胸の傷と、破かれた上着と、壊れたスマートフォンが何よりの証拠。

 そうだ。何でかは分からないが、僕はあの子に赤い棘を投げつけられて、たまたま胸に当たる前にライフルで撃たれても平気がスマホが盾になったので、体の方は

無事だった。

 それがなければ、僕は心臓をあの棘に刺されて、死んでいたのかもしれない。

 話のタネにしようと手に入れたケースに、まさか本当に命を救われるとは。


(殺されかけた)

 ぼんやりした頭で時間をかけて導き出した結論は、あの女の子の存在と同じく、

非現実的でよく分からなかった。

 もしそれが当たっていたとしても、殺される理由なんかない。

 それとも知らないうちに、殺されるほど恨まれていた? ……いや、ない。

 自慢じゃないが、僕はぼっちだ。一人で通学し、一人で授業を受け、一人で食事を食べ、一人で帰る。殺されるほどの恨みを買うタイミングが、そもそもない。


(まあ、どうでもいいか……)

 誰もいない家の鍵を開け、ぐずぐずと靴を脱ぐ。

 昨日の夜のことなんて、今はどうでも良かった。一刻も早く横になりたい。

水を飲んでとか、薬を飲んでとか、そういうことすら面倒だ。とにかくベッドに

横になろう。そしてぐったりと眠ってしまえば、こんなひどい一日は昨日の方に

追いやれてしまうのだ。



 部屋の扉を開ける。寒い。

(……窓が開いてるからか)

 朝慌てていたからだろう。カバンを机に置き、上着を脱ぎ、制服を脱ぐ……のも

億劫なので、もうこのまま寝込もうと、ベッドの掛け布団をめくった。




 そこで、女の子が寝ていた。


 昨日の夜の女の子が、昨日の夜と同じ格好で、ベッドの中で丸くなっていた。




「……ん、ん」

 掛け布団をめくられた事で彼女はうっすらと瞼を開き、ごしごしと目をこする。

 そして、僕を見る。

「え……」

 眠りが浅かったのか、彼女はすぐに目を丸く見開いた。

 ばっと起き上がり、改めて硬直する。長い黒髪はまとめられず、その肢体の上を

さらさらと流れていた。

「……ああ」

 驚きから、やがて何か得心したように目を細める彼女の顔を、ぼんやりと見る。

「そうか。どおりでおかしいと思った。昨日、私は……」


「あの」

 申し訳ないが、彼女の独り言にはストップをかけさせてもらった。

「そのさ。何でとか、誰とか、聞かないから」

「え」

 人差し指を立てて、横に払う。



「これから寝るから、どいてくれ。僕のベッドだ」



「……はい…………」

 彼女は当惑した様子のまま、すごすごとベッドを降りる。僕はそこへ倒れ込んだ。


 どうでもいい。

 白い怪物とか、赤い棘とか、何で僕を殺そうとしたかとか。

 本当にどうでもいい。今の僕はひたすらに熱っぽくて、頭が痛くて、めちゃくちゃダルい、ただの病人だ。


 倒れ込んだままのろのろと掛け布団の中へと入っていく。普段とは違う匂い。

さっきまでここで寝ていた彼女の、どこか甘い香りがした。

(勝手な事を……)

 普段の僕ならどうか分からないが、今の僕にとってその異物は、ただ鬱陶しい

だけだった。苛立ちにも満たない、もっと動物的な不快感が胸に募る。


「あの」

「何」


 ベッドの外に追い出した彼女が何か言おうとしている。


「気になったり、しない……?」

「気になる?」

「昨日の夜のこと。説明とか、して欲しいなら、私」

「いらない」


 正確ではない。『今は』いらない、だ。

 今は、の三文字を言い加えるのも、今は面倒だった。


 彼女は僕のベッドの脇に腰を降ろして、今度はこう言った。

「……私の前で寝て、平気なの?」

「なんで」

「だって昨日……」

「いらないって言っただろ」

「だけど」


 僕はいい加減腹が立って、頭を押さえながら起き上がった。

 三角座りで僕のベッドに背を預けていた彼女は、そのままこちらに振り向く。僕はそんな彼女の頭を掴んで、顔を近付かせ、睨んだ。

「っ」

 彼女が息を呑み、目をそらす。知ったことじゃない。


 言っておくが、普段の僕はきわめて温厚で、平穏な心持ちで日々を生きている。

目立たず、さりとて迷惑をかけず。流れには逆らわず、自分の身はきちんと守って。喜びや楽しみは密やかに、怒りや悲しみは飲み込んで。

 だが、今は別だ。

 今まさに眠ろうとしている僕に対してあれやこれやと話しかけてくる彼女は、

のっぴきならない外敵だ。

 怒らなければいけない。

 怒って、黙らせなければならない。


「一度しか言わないからな」

 掴んだままの彼女の頭を軽く揺らし、声を振り絞る。

「僕は君が今まで何したとか、そんなことにちっとも興味がないし、重要じゃない。モンスターハンターしようが、誰か殺していようが、人のベッドに入り込もうが、

ほんとにどうでもいい」

 彼女がそらしていた視線を、こちらに向けた。僕は続ける。

「いいか。大事なのは、今だ。今君は、静かにする。僕が寝るのを、邪魔するな」


「……」

 彼女は目を丸くして、小さく頷いた。それを確かめて、僕は解き放たれた気分で

再びベッドに倒れ込んだ。

 視界がぐるぐるして、頭がズキズキする。まるで心臓が頭の中に移動してきて、

脳がしっちゃかめっちゃかになっているみたいだ。

 もう指先一つも、脳細胞一つも、動かしたくはなかった。




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇




 蛍光灯の光に瞼を刺され、僕の意識は戻った。

 何よりまず、熱い、と感じた。頭が熱い。熱が出ているんだ。頭痛はだいぶ楽に

なったか。そして空腹。喉も渇いている。

 僕は目をこすり、体を起こす。

 ベッドに倒れ込むように眠ったはずなのに、いつの間に僕は仰向けになっていて、

掛け布団がきちんとかけられていた。そして膝の辺りに、不自然な重み。

(こいつ……)

 そこには、あの少女がいた。ぺたんと床に座り込み、僕の掛け布団の中の膝に

上半身を預けていたのだ。

 自分の腕を枕にして、おとなしい寝顔である。そういえば、僕が帰ってくる前は、彼女が僕のベッドの中で眠っていたんだった。彼女は彼女で、眠かったんだろうか。


 それから僕は、窓の外を見た。空が青黒い。夜だ。帰ってきたのは昼頃だった。

随分寝てしまったようだ。そろそろ母さんが帰ってくる……


「あんた」


 いや。


「体調崩して倒れたって聞いたんで、一応、残業任せて帰ってきたんだけど」


 そろそろではない。

 僕はこの部屋の蛍光灯のスイッチがある所……すなわち、部屋の入口へ、ぎぎ、と首を向ける。


 母さんがいた。

 コートを着たままの、僕の母親が、信じられないものを見る目で、僕を見ていた。


「……女の子連れ込んでるの?」



 できる事なら、このまま眠り直したいところだった。

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