3

 とりあえず膝を揺らし、寝こける彼女を起こすことにした。

「んん……」

 眠りは浅かったようで、彼女はすぐに目を開き始める。すぐに顔を上げて、僕を

見て、それから母さんを見た。

 意識はしっかりしているようだ。それなら良い。


 基本的に、危険なことには近付かない。近付いてしまったら逃げるのが信条だが、逃げられない状況というのもある

 まさに今だ。

 そういう時は、頭を働かせ、状況がこれ以上悪くなる前に動かなければいけない。


「この子は」

 第一声が上ずった。口を押さえ、浅く息を吐く。ゆっくり喋ろう。

「この子は、クラスメイト。ほら、自己紹介して」

「え、あっ」

 彼女は僕と母さんを交互に見ると、慌てて立ち上がった。乱れた髪を手でまとめて

母さんへ頭を下げる。

赤城あかぎ理詠りえです」

 赤城理詠。そういう名前なのか。


「体育の授業の時、赤城さんの投げたボールが頭にぶつかって、それで倒れてさ」

 間髪入れず僕は話し続ける。赤城さんには無実の罪を押し付けることになるが、

まあしょうがない。僕の部屋で寝ようとした罰だと思ってもらう。

「で、付き添ってくれた」

「……早退だったんでしょ?」

「そう。僕は早退。だから学校が終わった後に……一旦家に帰ってからね。付き添いじゃなく、お見舞いっていうか」


「そうなの?」

 母さんは彼女、赤城さんに水を向けた。赤城さんはゆっくりと頷く。その様子を

見てか、母さんは一応納得したようだ。

「ごめんなさいね、吹葵すいきが迷惑かけて」

 迷惑をこうむったのはこっちだ、と内心で毒づく。

「赤城さんも疲れてるでしょう」

「いえ、そんな。彼のためなら、私」

「……カレ?」

「あっその、ええと……言葉の綾です! すいひくんとは、お友達で」

 名前、正しく言えてないし。


「……ところで、もう女の子には遅い時間だけど、大丈夫?」

 母さんの良い質問だ。これで自然に、赤城さんを帰らせる流れに乗った。

「えっ……と、はい。大丈夫、です」

 そう、と頷き、母さんは少し考え込み、また口を開く。

「じゃあ、夕飯食べてく?」

 そしてこれを赤城さんが断れば、



「え? いいんですか?」

 食いつきやがった。


「ちょっと待っててくれれば、すぐできるから。揚げ物なのよ。吹葵は一応、控えておいた方が良いだろうし」

「……待って。それ、僕のぶんを赤城さんに食べさせるってこと」

「あんたは素うどん。余らすのも嫌だから。どう? 赤城さん」

「それじゃあ、お言葉に甘えて」


 赤城さんの言葉には、少したりとも躊躇というものがなかった。

 母さんが見ている手前、表立って止めることもできない僕は、準備できたら

呼ぶから、と階段を降りていく母さんの背を見送るしかなかった。



「……なあ」

「何?」

 赤城さんが振り向く。実に機嫌が良さそうだった。こっちは体調不良と現状苦悩の

ダブル頭痛に苛まれているのに。


「なんで断らなかったんだ」

「お食事、ありがたいし」

「母さん、色々聞いてくるぞ。ボロが出たらどうする」

「まあ、お腹さえ満たせれればあとは……」

「僕が困るって言ってるんだ」


 ため息を吐きながらベッドから降りる。

「風村吹葵」

「?」

「かざむら、すいき。僕の名前だ。さっき君、すいひって言ってただろ」

「すいき……変わった名前。漢字で何て書くの?」

「風が吹くの吹くに、葵紋の葵。変な名前なのは分かってる。さっき君が話してた

母さんがつけたんだよ」

「そう。私はクレン。苗字はないし、漢字もないわ。ただカタカナで、クレン。

分かりやすくて親切でしょ」


 何気ない赤城さんのその発言を飲み込むのには、随分時間が必要だった。


「待てって」

「え?」

「さっき、名乗ったろ。赤城さん。赤城理詠って。そのクレンてのは、なんだ」

「本名」

「赤城理詠は」

「偽名。名前聞かれたとき、ただクレンって名乗るだけだと、怪しまれるからって。苗字もないし」


 赤城さん、改めクレンさんは、僕のベッドに腰を降ろした。

「……じゃなんで僕に名乗ったんだよ」

「なんでって?」


 ここに来てようやく、僕は彼女の姿をじっくりと見ることになる。腰の辺りまで

伸びる、流れるような黒い髪。落ち着きのある顔立ちと相まって、和風美人とでも

言えば良いのだろうか。

 初めて見たときに感じたすらりとした印象は、今も変わりない。クラスの女子と

何が違うんだろう。


「……本当。何でかしら」

 とぼけた返答だった。いや、本人は真剣なようだったが、僕としてはとぼけた答えとしか言いようがなかった。

 ズキズキする頭を押さえつつ、足を床に下ろす。並んで座る格好になった。

「からかってるならやめてくれ」

「嘘じゃないの。クレンって呼んでくれた方が嬉しいのは本当」

「赤城さんで行くからな。母さんに不審に思われたくないだろ」

「じゃあ、二人きりになったらそう呼んで」


 遠慮したい想定だった。




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇




 予想に反し、その日の夕飯は、存外平穏に終わった。

 母さんに声をかけられるまで、何を聞かれても良いように二人であれこれと設定を考えはしたが、結局母さんはうるさく話さなかったし、僕も話さなければ、赤城だかクレンだかも自分から喋ることなく、さりとて不自然に静まり返るでもない、割りと一般的な食卓だったと思う。

 その後クレンだか赤城だかを母さんが車で送ることになり、僕は腹を一杯にして

落ち着くと自分の部屋に戻った。

 鼻慣れない女の子の匂いで不思議な気持ちになりつつ、ベッドに潜り込む。

もしかしたら彼女がまた来るんじゃないかとしばらく窓を眺めていたが、結局彼女が来ることはなく、僕はそのまま眠ってしまった。


 翌朝になれば、少しばかり体がだるいくらいで、体調はすっかり回復していた。

 母さんが作り置いていった、いつもより消化の良い朝食を食べ、市販薬を飲み、

マスクもして(花粉症の父さんが買いだめしていた)、学校へ向かう。

 朝の内に何人かのクラスメイトの心配を受け流せば、あとはもう、元通りの

学校生活。真面目に授業を受け、必要なぶんだけ話し、時間割を終える。


 ただ、昼休み。

 昼食を終えたあとの時間だけは持て余した。スマートフォンを壊されたせいだ。

(弁償とかさせられるかな……)

 何となしに考えたが、赤城クレンがまた僕の前に姿を現す保証はないし、仮に

もう一度会ったとして、素直に弁償の要求に応じるとも思えない。大体、色々な人が口々に弁償弁償と言っているが、本当に何か物を壊された時、相手からお金を取って解決することなんてあるのだろうか?

 ……なんてことを机に突っ伏して考えていたが、また名前も知らない女の子に

思わしげな目線を向けられていることに気付いたので、僕は立ち上がり、図書室で

時間を潰し、昼を終えた。




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇




 放課後。

 夕暮れの家の近くで、それを見た。


 白い犬だ。

 犬種は分からないが、とにかく犬である。犬が、曲がり角の家の塀の上に、

良い姿勢で座っていた。

 白くつやっとした毛並みに、白い耳、白い目。

 足は六本あり、長い尾の先には針のようなものがある。


(……いやいやいや)


 普通にバケモノだった。こんな気楽に遭遇してしまって良いものなのか、これ。

 後ずさりする僕を、その犬は見た。塀から飛び上がり、僕の後ろに着地する。

「いっ……」

 針付きの尻尾をぶんぶんと振って機嫌良さげなそいつは、僕をじっと見て、小首を傾げる。すぐさま飛びかかってくるとか、そういう事はない。

 やがて犬は尻尾を振るのを止め、塀の上に座っていたように、アスファルトの

地面の上におすわりをした。


 そうなると、僕の方も毒気を抜かれる気分である。

(襲ってくる訳ではないのか?)

 犬の様子をじっと見る。あちらも見返してくる。白く瞳孔のない目は見慣れず

不気味ではあるが、それは無感情に見えるからで、善意がなくとも悪意もなかった。尻尾も器用に畳み込み、鋭い針はその一番内側に仕舞われている。

「……気遣ってるのか?」


 僕はそっと、犬に近付く。一歩、二歩。

 犬はじっと待っている。

 僕は近づきながら、そっと手を伸ばそうとする。そう、実は僕は、こう見えて動物好きなのだ。動物は良い。何せいきなり喋りかけて来たりしないからな。


 あと一歩で、その頭に触れる。



 そう思った瞬間、ヒュン、と風切り音がして、赤い光が犬の脇腹に差した。


 いや。

 それは赤い棘だった。

 赤い光が尾を引く棘が、突き刺さったのだ。


「あ」

 声を漏らした僕の前で、犬は横に飛ぶ。

 六脚で綺麗に着地し、畳んだ尾を開き、鋭い針を前面に出して唸っていた。

 表情も眼差しも敵意に満ちている。さっきまでおとなしく僕に撫でられるのを

待っていたものと同じには思えない。


 そして、それが向けられる先にいるのは、当然彼女だ。

「吹葵くん、ちょっと逃げてくれると、かなりやりやすいのだけど」

 赤城さん。あるいは、クレンさん。

 声が聞こえた、と思ったら、目の前に彼女が着地した。オレンジの夕日が照る、

括られた長い黒髪と、赤いマフラーをなびかせて。

 ……いやいや。『着地した』って。どこから飛んできたんだ。

「逃げるって」

「すばしっこいのが相手だと……ね!」


 彼女は地面を蹴ると水平に滑るように飛び、白い犬へ迫った。犬の方は、よく

見えないが、逃げたりはしていないようだ。

 僕は言われた通りに逃げるかどうか迷ったが、結局その場に留まった。

 大した理由はない。動くに動けなかった、とでも言うべきか。


 彼女と犬の戦いは、取っ組み合いの様相になっていた。

 まず長い尻尾を彼女が掴み、鋭い針の部分を赤い棘で突き落とした。その後は

犬の体を押さえつけ、棘で刺そうとする。

 だが犬の爪や牙で反撃を受けて、一旦は逃げられてしまった。彼女はまた跳んで、上から犬の体を押さえつける。

 そして、赤い棘を握り込んだ拳を振り下ろす。

 何度も、何度も。


(……案外乱暴だなあ)


 攻撃を受けた犬が、血を流したり苦痛で鳴いたりといったことはなかった。

そういえば、さっきまでも鳴いたり吠えたりということはしていなかったな。

 そんなことを考えている内に、彼女は動きを止め、白い犬は消えていた。肩で息をしつつ立ち上がった彼女は、そのまま僕の方へ歩いてくる。



「はあ、ふう……逃げろって、言ったのに」

「なんか、すごく乱暴だったな」

「……やめて。気にしてるの。ほんとはもっと綺麗に戦いたいのに」


 彼女は一旦僕の横を通り過ぎると、近くの電柱の脇に置いてあった紙袋を取り、

僕の方へ戻ってきた。

「昨日のお夕飯のお礼に」

 自然、二人並んで歩き始める。

「母さんなら多分いないよ」

「お忙しいのね」

「……まあね」

 家の懐事情なんてわざわざ話すでもないだろう。僕は話を切り替える。


「さっきのあれは?」

「あれは『白の獣』。もう消滅させたから大丈夫」

 白の獣、と言うらしい。見た目通りだ。

「まさかこんな所にいるとは思わなかった。今まで見たこともなかったのに」

「それは吹葵くんがそう思っているだけ」

「……思ってるだけ?」


 家族以外から下の名前で呼ばれるなんて初めてで、少しむずがゆい。

 だが、そこよりも気になる話を、彼女がしようとしていることは分かった。


「あれはえにしを喰うの。自分に繋がる縁、人に繋がる縁。誰かが覚えて、誰かに

覚えられる。そういう、目に見えない繋がりを食べて力にする」

「…………」

「その力と在り方をまとめて『縁喰いえにしぐい』と呼ばれるわ。そして私は、奴らと同じ

縁喰いの力を使って白の獣を倒す、『赤の人』」

「…………」

「もっとも、できることは赤の武器で殺めた相手の縁を吸い取って力にするだけで、自分に繋がる縁を直接力にすることはできないのだけれど」


「……そういう」

「ん?」

 歩きながら話されたいろいろなことについてすぐには咀嚼しきれず、僕は思わず、こんなことを言ってしまう。

「そういう、赤城さんの設定……的な?」

 半ば茶化す言葉に、返ってきたのは笑みだった。そう言われても仕方ないよね、と

言わんばかりの。

 僕はちょっと申し訳ない気持ちになって、だけどそのことを僕が申し訳なく思う

という事実が、なんだか腑に落ちなかった。

 僕に、彼女の言うことを理解しなきゃいけない理由なんて、ないはずだ。


「うーん……とりあえず、ほら」

 彼女は数歩先に進むと、振り返って紙袋を後ろ手に持ち、僕を見て歩き始めた。

「二人きりの時はクレンって呼んでって言ったじゃない」

「……クレンさん?」

「そう。私も吹葵くんって呼ぶから」

「クレンって、下の名前なんだ」

「上下なんてないけど、名前が個人、苗字が家を表すものって意味なら……まあ、

下の名前、かな」


 分かるような分からないような理屈だ。それに……

『私はクレン。苗字はないし、漢字もないわ』

 昨日の夜の彼女の言葉を思い出す。

(本名に苗字がないクレンさんは、家もないって事なのか?)

 ……考えすぎだろうか。



「それじゃあ、家に着いたらもうちょっと詳しく話させてもらって良い?」

「え」

「お礼のお菓子、直接渡せなくてもせめて直接届けたいし、それに……」

 どうしてそんな事をするのか。何が『それじゃあ』なのか。色々と言いたいことはあった。

 あったのだが。



「……人と話すの、久しぶりで」


 こんな、



「楽しくて、どきどきするの。だからもうちょっとだけ」


 こんなことを、



「今日だけでも、良いから」


 こんな淋しそうな笑みで言われて、やめろ帰れと言い切れるほど、僕は決断力の

ある人間ではない。


「…………」

 結局僕は首を縦に振った。

「やった♪」

 打って変わって楽しげに笑うクレンさん。今日だけだから、とか、遅くなると

母さんが帰ってきて面倒だから、とかの僕の注意も、聞いているのやら。



 あの一瞬に垣間見えた淋しさの正体が何なのか。

 この黄昏時の僕は、まだ知るよしもない。

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