第二幕:青春を取り戻すように

1

 朝。

 目覚まし時計のアラームが鳴り、僕は目を覚ます。

 カーテンの閉ざされた部屋の中は、しかし寒くない。暖房がついているのだ。


「ううん……」

 僕がもぞつきながら目を擦り、ゆっくり身体を起こす。

 すると、

「おはよう、吹葵」

 声がかけられる。

 僕の勉強机。そのスタンドライトで、図書館の本を呼んでいたクレンに。

「……おはよう」

 僕も挨拶を返し、伸びをする。そんな僕を見て、クレンが微笑んだ。



 2014年、3月12日。

 クレンと出会って、二ヶ月。

 このやりとりは、もはや日課となっている。




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇




 僕らの関係は、概ね上手く行っていた。

 クレンが白の獣を殺すのは夜の間だ。つまり睡眠時間は日中から夜の早い時間に

かけてとなり、僕が学校から帰ってくるころに、ちょうど目を覚ます。

 その後どう過ごすかは、その時々だ。ただ最近は、僕が学年末テスト対策のために

勉強に勤しむことが多かったので、彼女が僕の部屋にいることは少なかった。

 母さんと夕飯を取るのは、頻度が増えて不審がられると面倒なので、十日に一度と決めた。またクレンが来るかも、と話したときの母さんはもっぱら嬉しそうな様子でクレンが参加する日の夕飯はたいてい豪勢だった。


 夜になれば、クレンは白の獣を狩りに出る。僕は十二時に眠る。

 ……クレンが僕の部屋で寝泊まりするようになってから一番変わったのはここだ。

 何せ、女の子である。

 あの独特な甘い匂いを漂わせた女の子である。

 たとえただの石鹸(彼女は入浴を銭湯で済ませているらしいので、特別なシャンプーとかは使っていない)の匂いだとわかっていても、やはり意識してしまう。

 彼女は女性らしく、それでいて無防備だった。毎日、そんな彼女の匂いに包まれて眠らなければならない。これは正直言ってかなりキツい試練だったが、しかしそれをクレンに上手く伝えることもできず、やがて僕は慣れていった。

 大抵の問題は、僕が適応することで解決する。今までの人生と同じだ。



 そして、朝。

 起きればクレンがそこにいる。

 僕の図書カードで借りてきた本を読んで、僕の目覚めを待っている。

 そして母さんが用意した朝食と、彼女が買ってきたパンを半分ずつ分け合って。


「いってらっしゃい」

「いってきます」


 こんなむず痒いやり取りすらして、僕は学校へ向かう。




 人間に直接危害を与える『亜成体』を倒すための、神戸や福岡へのクレンの遠征。

 悪い冗談のようなバレンタインデーの大混乱。

 母さんがインフルエンザで倒れるとか、父さんが一時的に帰ってくるとか。

 そんなささやかな日々も通り過ぎていって、僕とクレンの『いつも』は少しずつ、

かたちとして定まっていった。

 僕は孤独を忘れていたし、クレンも過去を忘れているかのように見えた。クレンも僕の孤独に触れることはなかったし、僕もクレンの過去には触れなかった。


 その結果、僕とクレンは互いに互いを呼び捨てで呼ぶようになったり、時に僕は

クレンの白の獣狩りに同行したりもした。

 客観的な目から実のあるアドバイスをすることもあれば、単に夜の街中を二人で

歩くだけの時もあった。


 それから、ほかに変化と言えば……



 屋根の上に上ってまで、夜の空を見なくなったくらいか。




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇




「ただいま」

 その日、僕が家に帰ってきたのは12時頃だった。学年末テストの最終日は午前で

終わりである。そのため、クラスの皆は重圧から解放されて、カラオケに行ったり

ゲームセンターに行ったりするらしい。


 もちろん、僕はそういう遊びに誘われることもなく、家に帰ってきた。

 もっとも、誘われたところで断っていただろう。

 今日の僕には予定がある。



「おかえり」

 僕らの部屋では、クレンが地図帳に印をつけていた。机の上にはラジオが置かれ、ニュースを垂れ流している。

「お昼ごはんは?」

「松木弁当のカツサンド丼」

「やった! ありがとう、吹葵。好きなんだよね。元気出るから」

 僕の名前と『好き』を近付けられると、少しどきっとする。

「肉食女子め……」

「食べたぶん使うから良いのよ。良いの」


 そんな他愛ないことを話しつつ、僕はクレンの地図帳を覗き込む。

「見当はついた?」

「ニュースでやってる感じだと……浜名湖の東側ね。多分街からは外れてる」

「名古屋からだと……」

「一時間くらい」


 カラ戸籍問題を取り扱う全国区のニュースは、クレンの活動にとって有力な

情報源だ。問題が起きている地域には、人に危害を加える危険な亜成体がいる。

それを殺すのがクレンの第一の目的である。

 普段は幼体を駆除して少しずつ力を蓄えて、亜成体が出ればそこへ向かう。

一月には神戸、二月には福岡。そして今月は、浜松へ――



「……これなら、一緒に行っても大丈夫のはず」

「うん」


 僕とクレンの、二人で向かう。




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇



 3月12日、午後11時。

「まだ冷えるね」

「3月って、春のイメージあるけど、実際は冬だから」

 僕とクレンは、僕らの部屋で準備をしていた。靴を持ち込み、防寒用具を揃え、リュックの中には救急箱などなど。

「……こんなところかな」

「じゃあ、準備してくる」


 僕は寝ている母さんを起こさないよう、足音をひそめて階段を降り、二つの

マグカップにオレンジジュースを注いで、電子レンジで温め始めた。

 ほどなくして小気味よい音が鳴り、温め終わる。僕はクレンのカップを先に

取り出すと、冷たいオレンジジュースを少し注いで、飲みやすい温度にした。

二つのカップを手に持ち、階段を昇る。部屋のドアを足で開けた。



「お待たせ」

「ありがと」

 冷めた方のカップを渡し、軽く互いに打ち付ける。

「……乾杯?」

「ゆっくり飲んでよ」

 遠征前の一杯も、僕らの中で習慣になっていた。

 それでも、今夜は少し意味合いが違う。


「……本当に来るの?」

 気遣わしげなクレン。僕は答える。

「来ないほうが良いなら、やめる。クレンの足を引っ張りたくはないし」

「そうはならない。亜成体を倒すのに、十分な力は蓄えたし」



 そう。今回、浜松市の亜成体狩りに同行したいと言い出したのは、僕だ。

 理由は単純で、クレンが戦うところを見てみたいからだ。幼体相手の駆除はあまりにも作業的で、あっけなく終わってしまう。

 そうではない、クレンの戦いが見たかった。

 見たいと、思ってしまった。


 ……以前の僕ならそんなこと、思いもしないだろうと思う。

 人に危害を与える存在に、自ら望んで近付こうとするなんて。


 でも、クレンの話を――亜成体とどう戦い、とう倒したか、という話を聞けば

聞くほどに、僕はそれを、見たいと思った。

 誰も知らない彼女の姿を、この目で見たい。

 知りたいと思ってしまったんだ。



「……クレンが駄目だって言うなら、やめるよ」

 だから、このことは何度も繰り返した。今日までの相談の中でも、何度も。

「駄目じゃない。私も、吹葵くんに恰好良い所、見せたいし」

 そしてそのたびに、こういう返事が返ってきた。

 僕が彼女を見たいと思うように、彼女も僕に見せたいのだ。

 あの日、縁喰いや白の獣、赤の人といった秘密を話したように、彼女だけのことを僕にも教えたいという気持ちが、彼女にもあるんだろう。

 結局、僕とクレンのやりたいことは、ぴったりと重なっていた。



 オレンジジュースを飲み終わったら、本格的な準備だ。

 靴を履き、お互いの背中にカイロを貼って、上着を着込む。手袋、マフラー、

耳あて。一つ一つをしっかり身につける。


 窓を開き、クレンが僕の手を握る。手袋越しでも、温かくて柔らかい。

「……緊張する」

「翔ぶのにはもう慣れたよ」

「確かに最近は、最初みたいにひーひー言わないものね」

 からかうように笑うクレン。空いた手で頭を掻く。

「もう二ヶ月も前の事だろ」

「うん。……もう、二ヶ月かぁ」


 クレンは夜空を見上げた。釣られて、僕も夜空を見上げる。

 けれどその実、僕は夜空を見てはいなかった。

 ただクレンと同じものを見ていたかっただけだ。


「ふふ……」

 クレンがぎゅっと手を握ってくる。

「じゃあ、行こうか」

「いつでも。カイロは温めたし、マフラーも耳あてもばっちりだ」

「うん。よろしい」

 たん、とクレンのブーツがフローリングを蹴る。ふわりと舞って、窓枠へ。それも蹴り、夜の空へ。僕は手を引かれるまま、宙へ。

「明日は3月13日で、明後日は14日!」

「ん?」

 ひゅうひゅうと風の音を聞きながら、クレンの声に集中する。と、クレンは

僕に向けて振り返った。うきうきとした笑顔で。


「ホワイトデー! お返し、楽しみにしてるから」

「期待してよ」

「うん! ……だから、今夜はちゃんと恰好良い所見せるからね」

「期待してる」




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇




 青春とは臆病さを退ける勇気、易きに付く心を振り捨てる冒険心を意味する――


 アメリカの詩作家が語った言葉の通りの青春を、僕らは送っていた。

 恐れるべきを恐れず、裏付けあることの大切さを忘れた、視野狭窄の蛮勇。


 結局のところ、僕らは舞い上がっていたのだろう。



 3月12日。午後11時半。

 僕とクレンが離ればなれになるまで、あと半日もない。

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