2

「お待たせしたね」

「いえ……」


 僕は十分ほど待たされてから、学部長の部屋に通された。

 入ったことのない部屋だ。他の教授の部屋より少し大きいはずだが、部屋の中にはいろいろな物があり、体感的にはあまり変わらなかった。壁には背の高い本棚が

そびえ立ち、中にぎっしりと本が詰められているのも同じだ。



「要件は何かな」

 学部長は少し太った初老の男性だ。親しみやすい雰囲気の人だが、話したことは

あまりない。

 会ったことがあるのは、どれくらい……いや、確か、そうだ。所属ゼミを決める

前に少人数でグループ面談をして、その時にいたのだったか。

 ゼミ前面談は、三年春に行われるうちの学部の通例行事だった。



「赤い光を見ました」

「ほう」

 僕が言うと、学部長は目を光らせた。カセット式の録音機を応接用テーブルに

置き、ソファに座り込む。その対面のソファに、僕は座る。

「どんな光だった?」

「赤い、光の……剣です」

「剣。なるほど」


 革張りの手帳をめくる学部長。

「どんな人間が持っていた」

「クレン……」

「クレン?」

 かすかな違和感。何故僕は、この人の前で、クレンの名前を。道路で名前を呼ぶ

ことすら、躊躇したのに。



「…………」

「言うんだ」

「……何を……」

「ふうむ」

 学部長は立ち上がると、僕の方に毛布をかけた。そして暖房を強める。ごうごう、と古い空調機特有の音が響く。


「肩の力を抜くといい」

「はい……」

 耳元で囁かれた通り、肩の力を抜く。そのまま全身の力が抜けていく。僕は

うなだれるような姿勢になった。

 学部長がまた僕の前のソファへ戻っていく。僕は力の入らない手をポケットに

入れた。スマートフォンがある。



「聞き方を変えよう」

 学部長は応接テーブルの後ろの引き出しからメトロノームを取り出した。

 カチ、カチ、と、ゆっくりした間隔で音が鳴り始める。ごうごうという空調の音。歩くよりも遅い間隔で鳴る、メトロノームの音。

「赤い剣を持っていた人間の、外見は」

「……髪……黒くて、長い。スタイルが良くて……眼が、綺麗で……大人っぽくて……でも、笑うと、子供みたいで……」


「……女か。そうなると赤城理詠だな」

 学部長は老眼鏡をかけ、手帳をめくる。僕の言葉を聞いているのかいないのか。

「『穢れた赤色』が東京に……野良の亜成体狩りか、あるいは新しいエネルギー源でも見つけたか。読めんな」

 膝を組み、高級そうなペンで手帳を叩く。

「手段を選ばん忌々しい殺し屋め。ああも外道を平然と働く輩を、奴らも良く……」

 忌々しい殺し屋。外道を平然と働く。

 クレンのことか。クレンのことを、言っているのか。



「取り消せ……」

 朦朧とする意識の中、僕はなんとかそれを口にした。

「む」

「取り消せ……取り消してください。クレンは、クレンはそんな子じゃない」

「…………」

 正面の学部長は静観の構えだ。僕は指に力を入れる。

「クレンは、殺したくなんてなかったはずだ。殺したことを、後悔してた。僕は

それを、分かっていたはずなのに」

「記憶が混乱しているのか?」

「平然としてる訳がない……今のクレンのことは知らないけど……平然としてる訳がないんだ。だって、そう。殺す相手を選ぶようになったって、そういうことだろ」


「……クレンというのは、赤城理詠のことか」

 その問いかけに、僕は頷きかけ……ぐ、と食いしばった。

 自分で自分の目に力を込めて、ぼやけた視界を少しずつはっきりさせる。強いて

肩の力を入れようとする。

 カチ、カチ。ごうごう。遠ざかっていた規則的な音が、少しずつ戻ってくる。

「……何なんですか、学部長。どうして、僕に、そんなことを……いや……」

 徐々にはっきりしてくる視界の中、学部長は目を細めている。

「そもそもなんで……なんで僕は、ここにいる。どうしてだ。どうしてクレンの、

赤の武器のことを、あなたに話してるんです」

「…………」

「おかしい……おかしい。いったい、何で」



「どうやら、君は色々と知っているようだね」

 学部長はポケットからオイルライターを取り出し、火を点けた。

「まさかこんな大当たりが身近にいたとは。灯台下暗し。学部生なんて目にできれば十分と思っていたが……」

「何を……」

「いいんだ。力を抜いて。楽にするんだ」

 ライターの火が近付いてくる。僕はそれに、否応なく視線を釘付けにさせられる。カチ、カチ。ごうごう。音が、遠のいていく。学部長の声だけが、明然と。

「思い出すんだ……そして忘れるんだ。意識と、無意識。今の君の意識は、無意識へ仕舞われるべきものだ」

「なに、を」


「ゼミ前面談の時に話したことを思い出そう。意識とは風船のようなもの。無意識は

その中に詰まる空気。外から見えるのは意識だが、意識は無意識に従わずにはいられない……いいか、今私は君の無意識に話しかけている」

 全身が温かい。手足の感覚がない。頭がぼうっとしている。

「今日のところは、もう帰って良い。疲れているだろう。無意識に抵抗するのは

疲れるからな……しかし、君にはぜひ話を聞かなければならない」

「はい……」

「今日、学校に来た目的は他にあるかな?」

「……図書館に……学期末レポートの……」

「ではその要件を終わらせたら、帰ると良い。早く課題を終わらせ、そうしたらまた私の所に」

「はい……」

「いいか。まだ火を見ているんだ。これから、この火を閉じる。しかし君は、まだ

火を見ている。ほら、閉じた。まだ火は見えているね?」

「はい……」

「それでは君は、これからゆっくり眠っていく。そして目を覚ます。目が覚めた

あと、無意識に目を向けることはない。いいね。ゆっくり、ゆっくり――」




「……失礼しました」

 なんともだるい体を引きずって、僕は学部長室を後にする。

 恥ずかしい話だ。まさか会いに行って話を聞いている内に、眠ってしまうなんて。学部長も、話が長引いてすまなかった、と笑っていたが、こんなことを知られたら

どう思われるか。

(それでもまた来てくれって……気さくな人だったな)

 学部長って忙しくないのだろうか、と不謹慎なことを思いつつ、僕は歩き出そうとして、

「おっと」

 ポケットからスマートフォンがこぼれ落ちた。まったく、どこまで迂闊なんだか。

「……しっかりしなきゃな」

 またクレンに会えた時に恥ずかしくないように。

 僕は気を引き締めて、図書館へ歩き出す。




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇




「……そうか、赤城理詠の本来の名前を、クレンと言うのか」

「はい」

「真名ということだな。あるいは符丁か。それで君は、名古屋で彼女と」

「はい」

「浜名湖の成体を殺したのも、彼女だと?」

「はい」

門倉かどくらという男に覚えは? 不健康に痩せていて、丸い眼鏡の」

「いいえ」

「頭がブタか、コウモリのような鳥の亜成体を見たことは?」

「はい」

「……なるほど。なるほど」




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇




「この前から体調の不良などはないか?」

「はい」

「よし……暗示を深めても問題はなかったようだな。で、その、この前のことだ。

接触の予定があると言っていたね」

「はい」

「レコーダーを用意した。ほら、胸ポケットに入れても分からないくらいだろう。

会って話す時はスイッチを入れるように」

「……はい」

「不服かね。別に寝るような関係ではないんだろう」

「はい」

「なら良いだろう。会う前にこのボタンを押す。別れたらまたこのボタンを押して、電源を切る。そして次の日、この時間に私の所に来るんだ」

「はい」

「もちろん、このことは誰にも話してはいけない……今まで私に会っていることを

誰かに話したか?」

「いいえ」

「よし。今後も話してはいけない。これは風村くんと私の秘密だ……」




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇




「赤城理詠から接触があった?」

「はい」

「……君らが深い関係だというのは本当だったのか。よもやあの赤城理詠が、他人に自ら接触するなど」

「…………」

「いいや、疑う訳じゃない。君の彼女への想いはよく聞かせてもらったからね」

「はい」

「録音はできたかね?」

「はい」

「自分で聞いたりは?」

「いいえ」

「私のことを彼女に話したりは?」

「…………」

「……私のことを彼女に話したりは?」

「……いいえ」

「よし。連絡先は交換したか?」

「いいえ」

「次に会う約束は?」

「はい」

「いつかね。場所などは」

「1月20日……那珂橋なかはし駅前。夜の10時に」

「……ははは。デートでもするつもりか! いや、学生だからな。普通のことか」

「直前まで、亜成体狩りをして……それから来ると」

「それは好都合。さぞかし疲れているだろう……予定は立っているかな?」

「いいえ」

「よし。では今から私の言うことをよく聞いてくれ。何、悪いようにはしない。ただそう。デートプランを提案しようということだ。そうだな……」




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇




「後期試験、ご苦労様。まあ、レポートなんかはまだあるだろうが……」

「はい」

「明日は予定通りに行けるね?」

「はい」

「よし。良い事だ……ああ、良い日になるぞ、明日は」

「はい」

「フフ……君にとってもそうか。だが私にとってもそうなのだ」

「…………」

「赤の一族は……一人たりとも生き残ってはいかん」




◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇




 1月20日、夜10時。

 那珂橋駅前にて、僕はそわそわとクレンを待っていた。待ちながら、この後の予定を何度も何度も頭の中で反芻する。

(ホットサンド……公園……遊具……ホットサンド……公園……遊具……)

「吹葵?」

 後ろから声をかけられ、勢い良く振り向く。

 クレンがいた。雪のように柔らかい白色のコートに今日はブラウンのマフラーだ。肩からポシェットを提げている。

「あ……と」

「待たせちゃった?」

「……いや。今来たところ」

「お、定番だ」

 髪はゆるく後ろで三つ編みにまとめている。見たことのない髪型。


「ところで、さっきのは嘘でしょ。私が10分前に来たときは、もういたんだから」

「見てたのか?」

「ふふ……そわそわしてる所が面白くって、つい」

「……10分も放っておくことはないだろ」

「ごめんね。でも吹葵の顔、じっと見てるだけなんて、なかなかできないから」

「…………」

 そう言われるとどう返して良いか分からず、コートのポケットに手をつっこむ。



 僕は彼女を先導して歩く。思っていた通りの所に、ホットサンド売りの屋台が

あった。

「へー、こんな時間に」

「そう。ここは夜しかやってないんだ」

 興味深そうにメニューを眺めるクレンを横目に、僕は早々にメニューを決める。

「普通の奴にサワークリームを入れて」

「はい」

「え、何それ!」

 ぱっと顔を上げるクレン。僕はちょっと得意な気分になる。

「定番のオーダーなんだよ」

「へえー。じゃあ私もそれで」

「はい。お二つで700円になります」

「どうも」

 僕は用意していた硬貨三枚を手渡した。財布を出そうとしたクレンがすごすごと

手を引っ込める。

「悪いよ」

「奢るなんて言ってない。あとで払ってくれれば」

「……え、奢ってくれないの?」

「悪いって言った口で何を……」



 それから僕らは、そのホットサンドを持って公園へ向かう。

「そういえば、今ってお金はどうしてるの? 昔は殺した人からお金を取ったり、

その人の私物を売ったりしてたって言ってたけど」

「……思い出させないでよ。今は普通に支援者の人から貰ってる」

 支援者。この前の話でも聞いたが、なんとも不思議な存在だ。

「どうして……というか、どんな人なんだろう。その支援者」

「女の人。30歳くらいだけど、若くて、古い家の人で……赤の人の一族の他にも、

色々な知り合いがいるみたい。諜報員とか、忍者とか」

「ニンジャ……」

「現代の忍者は電気工事とか清掃業とかやってるんだって」

「何で?」

「どこに行っても、大きな荷物持ってても見逃されるから、とか。……嘘か本当かは分からないけど」


 那珂橋公園。都の管理している自然公園だ。緑豊かな場所だが、その入口近くに

ある児童公園は、綺麗に木々が開かれている。

 つまり、空が見える。そこでゆっくり、このホットサンドを食べながら話をしようということになっているのだ。

「……それにしても、女性を夜の公園に誘うなんて」

「別に良いじゃないか」

「悪いとは言わないけど、なんか遊び慣れてるみたいだなあ。そういえばさっきの

屋台でも注文、慣れてたし……」

 クレンは僕に追いついて横並びになり、顔を近づけてくる。

「やっぱり遊んでたりして」

「してない」

「女の子誘う定番コースとか」

「誘わない」

「ふうん」


 この辺りで勘弁してやろう、とでもいう風なクレン。僕はつつき返すことにした。

「そう言うクレンはどうなのさ。あれから」

「え?」

「例の生き残りの人とか、それ以外にも男と関わったりはしただろ?」

「ああ……生き残り二人は大人の男の人だけど、私は厄介者だからね。必要以上の

関係は持たないよ」

 厄介者、という表現は少し引っかかったが、


「でもね!」

 ぱっと明るい表情になって話を続けるクレンの話を聞くことにした。

「あと一人の子! その子今11歳なんだけど、女の子でね。すっごく可愛いの!

素直で、目なんかくりっくりしててね。私のことお姉さんって呼んでくれる!」

「へえ……」

「ほら、見て! 見て! エリカちゃんって言うんだけどね! もうほんと……

可愛いの……!」

 クレンはポシェットからスマートフォンを取り出すと、画像を見せつけてきた。

ピンクのふわっとしたパジャマを着て、恥ずかしそうにピースサインをした、薄茶の髪の女の子だ。

「ね?」

「うん、確かに可愛い」

「ね? ね? もう妹にしたいくらい……」


「……というか、スマホ持ってたんだね」

「え?」

 夢見るように昂揚していたクレンが、目をぱちりと瞬かせて僕を見る。

「LINEとか入れてる? いや、普通のアドレスとかでも良いんだけど」

「……ああ、交換する? 良いよ。振るんだっけ?」

「そうそう。なんか面白いよね、振ると交換できるって」

「どういう仕組みなんだろうね?」



 ……そんなことを話しながら。

 僕は公園へ足を踏み入れた。

 そこに待ち構えている存在にも、背後に潜む存在にも気付かないまま。

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