4-2

「……クレンは間違ってなかった」

 一番大事な結論は、簡素に、最初に。

「もちろん、人を殺すってのは悪いことだし、避けるべきことだけど、あの時は

仕方なかった」

「……人殺しを『仕方なかった』でいいの?」

「事実だよ。ベストを尽くしたんだ」

 手の中で肉まんの包み紙を弄ぶ。クレンは膝を斜めにし、僕の方を見上げていた。

「クレンが115人殺して、あの成体を止めた。あの成体が殺していただろう何千人の命を守ったことは、確かなはずだ」

「……そうなのかな」

「そうなんだよ」

 あるいは、何か僕の思いついていない方法か手段で、もっと犠牲を少なく、あの

成体を止めることができたのかもしれない。

 だが、既に起こった現実は違う。そうはならなかった。

 だから、他になかったのだ。

「他に手段なんて、なかったんだよ」

 僕は強く断ずる。

 彼女を肯定する。彼女自身すら否定しかねない彼女を、肯定する。



「結局あの夜は、僕が悪かったんだ」

 そして第二の結論は、こうだ。

「クレンに頼られて、怖くなった。まるで僕が人を殺したみたいな罪悪感があって、それが怖かったんだ。だからクレンを傷付けた」

「…………」

「ごめん。本当に、ごめん」

 クレンは押し黙っている。あるいは、そんなことを今更言ってどうするんだ、と

思われているのかもしれない。

「もう二度とあんなことはしない。クレン」

 僕はクレンの眼を見る。

「……もう一度僕に頼ってくれないか。僕を、支えにしてくれないか」

「吹葵」

「僕は凡人以下の人間だよ。きっとクレンの戦いを支えることはできない。お金とか技術とかでは」

 辻本さんの鋭い目を思い出す。

 ああ、本当にその通りだ。僕は本当にどうしようもない、何の特技も能力もない、ただ火事場で少し馬鹿力が出せるだけの、孤独なぼっち男に過ぎないのだろう。


「……けれど、心を」

 ああ、なんて軽薄な言葉。自覚はある。

 だがそれを、僕は口にする。

「クレンの心を支えられないかな。辛いこととか、苦しいこと。そういうことを

共有して……ちょっとでも、支えられないかな。いや、支えたいんだ」

 話せば話すほど、笑えるくらいに浅薄だ。あまりにも抽象的で、頼りない。

 それでも、そう言うしかない。だって、そうだろう。

「クレンが好きだから」

「……吹葵」

「あれから四年も経ってさ、ずっと好きだったなんて、ストーカーみたいに思うかもしれない。だけど本当なんだ。クレン。クレンの力になりたい。クレンと一緒にいたい。クレンと……」



「ねえ、一つだけ」

 クレンは視線を落として、僕の言葉を打ち切った。

 僕は口を閉ざす。

 どんな反応も、覚悟の上だ。拒絶されることだって、一番最初に想定している。

 それでも。


「……抱きしめてくれる?」

 そんなネガティブなことを考えていたからだろうか。

 その言葉をどう受け止めれば良いのか、僕は最初分からなかった。ただ、クレンは水平線を見ている。

「分かった」

 僕はその背中を、そっと包み込むように抱きしめた。腕を鎖骨の辺りに回して、

あくまで優しく。

 その腕に、クレンが手を添える。

「あったかい……」

「……二人だからね」

「吹葵だからだよ」

 そしてクレンは、僕の腕を強く抱きしめた。

「吹葵だからなんだよ……」

「……」

 僕もクレンの体を強く抱きしめる。

 女の子の体を抱きしめると、折れてしまいそう、なんて表現をすることがある。

でもこの時は、そんな事は思わなかった。クレンは温かく、柔らかく、それでいて

しっかりと、僕の腕の中で生きている。そんな存在感に、心まで温もる。



「四年前。吹葵と二ヶ月過ごしたでしょ」

「過ごしたね」

「あの時のこと、今でも思い出すよ。あの頃が一番幸せ……っていうのは、ちょっと違うけど。一番幸せだったのは、優凪さまのお付きをしてた頃だろうし」

 それでも、とクレンは続ける。

「幸せだったんだ……あの二ヶ月。私のことを知って、受け入れてくれる人がいて、帰る場所があって、下らない話ができる人がいて」

「二番目に幸せだった?」

「ううん。別の幸せ。優凪さまの付き人だった頃は、なんていうか……子供っぽい

幸せだったのかな。幸せにしても、遠くて、思い出すと、辛くなる。吹葵と一緒の

二ヶ月は違う。思い出すと、温かくなる」

 こうして僕が抱きしめているクレンも、僕が感じているのと同じ温もりを、感じてくれているだろうか。


「……斉木さんね。吹葵のこと話したら、笑うんだよ。そんなくらいの奴、いっぱいいるって。ただたまたま会っただけの相手に惚れてるだけだって」

 斉木さん。クレンの後援者の女性だったか。さすがによく分かっている。

「それが何だって言うの……」

 けれど、クレンはそう言って僕の腕を掴んだ。

「もし吹葵より頼りになる人がいても、恰好良い人がいても、頭の良い人がいても、あの時私を受け入れてくれて、あの時私と一緒にいてくれて、あの時私を見ていて

くれたのは、吹葵しかいない。吹葵以外、いないんだよ」

「……クレンを傷付けたのも、僕だけど」

「それは今、謝ってくれたから良い。うん、あの後はもう、本当に死ぬほど辛かったけど、でもしょうがなかった」

「ごめん」

「うん、許す」

 クレンは微笑んで、僕の腕を愛おしむように撫でる。


「……でも、不安だったんだよね」

「何が?」

「吹葵が私のことを覚えていてくれるか……ううん、覚えていても、私のことをどう思ってるか。ずっと不安だった……だってそうでしょ。吹葵は四年間、大学に通っていろんな人に会ってさ。その中には私より素敵な人だっていたはずだよ」

「……だからあんなにカマかけるような事を言ってたのか」

「ごめん。でも……うん。不安だったから、なんて理由にならないか。やっぱり、

ごめんなさい」

「構わないよ、全然」

 否定はしない。外見の良さ。人当たりの良さ。頭の良さ。人の魅力は色々だが、

それらにおいてクレン以上だった女の子も、間違いなくいただろう。

 でも、だからと言ってそういう子に心揺らされることはなかった。元より届かない高嶺の花だからということもある。だけど彼女たちは結局、クレンではなくて――

「――ああ」

 同じなんだ、結局。僕もクレンも。


「……四年間ずっと好きだったからって、自分のこと、ストーカーみたいって言うのやめてよね。私もストーカーになっちゃう」

「良いじゃないか。お互いストーカーなら。お互いの後ろを追いかけ回して、ずっとぐるぐるぐるぐる」

「何それ」

 僕らは二人で笑い合う。笑い合ったあと、クレンはふう、と息をついた。



「……私が赤の一族の中でも嫌われてるのは、分かる?」

「想像はできるよ」

「今は人手が足りないから、私も認められてるけどね。もしも将来赤の人と白の獣の均衡が取れて、赤の人の一族……じゃなくて、組織になるのかな。ともかく、それが立派でしっかりしたものになって、白の獣を押さえることができるようになったら、私はそこから追放されると思う」

「……え」

「汚点だからね。人殺しは」

 クレンの横顔は穏やかに笑っている。僕もなんとなく、それは分かる。辻本さんの言葉を思い出した。人殺しをタブーとする方針を守るのであれば、クレンのような

存在が新生した一族だか組織だかにいるのは、良くないことなのだろう。

 しかし納得はできない。今だって、間違いなくあの人は、赤の人という存在は

クレンに頼っているの、追放だなんて。


「だからね、吹葵」

 胸の中でわだかまりを抱いていると、クレンが振り向いてきた。

「そうなったら、吹葵の所に行って良い?」

 切なる眼差しで、僕を見上げてくる。

「もう赤の人としての私が必要とされなくなって、白の獣を殺す必要も、そのために誰かを殺す必要もなくなって……そうしたら、吹葵の所にいても、良いかな」

「……クレン」

「五年後か、十年後か、いつになるか分からない……けれど、もしそうなったら、

一人の、ただのクレンと、一緒にいてくれる?」


「当然だろ」

 僕は少し腕を緩め、改めて正面からクレンの身体を抱きしめる。

 温かい。胸の鼓動が、息遣いが。クレンの生が伝わってくる。

「……きっとそれまでに、また必要になったら、私、人を殺すよ」

「構わない」

「その時もきっと、吹葵のことを思ってるよ?」

「構わない……当然だ! クレンが何をしようと構わない。構わないに決まってる」

 その身体を強く抱きしめる。髪に手を滑らせながら、腰を抱き寄せる。少しでも、少しでも多くクレンを感じられるように。

「誰かに責められたって関係ない。誰かに間違ってるって言われても、関係ない。

クレンが周りにどう思われようと、関係ない。僕が支えになれるなら、いくらでも

思って欲しい。使って欲しい」

「……うん」

「いつかクレンが自由になったら、僕の所に来てくれ。そうしたら、クレンが感じた辛かったこと、苦しかったこと、全部教えてもらう。全部分け合おう。その時までのことも……それから先のことも」

「吹葵……っ」

「僕はクレンの味方だ。絶対に」




 それからしばらく、僕らはまるで固まったみたいに抱き合って過ごしていた。

 言葉を交わすことはなかったし、動いたりすることもなかった。

 ただ抱き合っていた。抱き合って、互いの体を、体温を、心拍を、呼吸を、ありとあらゆるお互いのことを感じていた。


 離れようとしたのはクレンだった。

「……そろそろ行かなきゃ」

 時間が来たのだ。ちょうど、クレンの位置からは公園の時計が見えていた。僕らは名残惜しくも離れる。冬の朝風が冷たく吹き抜けた。

「一つ、お願いして良い?」

「一つと言わずにいくらでも」

 そう返すとクレンは僅かに笑って、それから少し申し訳無さそうな顔をする。

「……連絡先、お互いに消さない?」

「……ん」

 意外なお願いだったが、意図は分かった。

「その時が来るまで、一人で頑張る、って感じ?」

「そんな立派なものじゃなくて……なんだか連絡できちゃうと、際限なく甘えちゃいそうだから。そういうの、全部、後の楽しみにとっておきたい」

 後の楽しみ。理由はそれで十分だ。



 スマホを取り出し、互いに連絡先を消して、互いにそれを見せ合った。そして僕はスマホをしまう前に、一つ提案した。

「連絡は取らないけど、写真が欲しい」


「……なんか恥ずかしいな、これ」

 クレンははにかむように微笑んで、僕の方を見る。綺麗な立ち姿に穏やかな風が

吹いて、黒髪が美しくなびく。

 そのはるか後ろには、海と空と水平線。高い空はまだ夜の青なのに、水平線近くは淡桃の白んだ空。そしてそれを映す海。


 こんなにも。

 こんなにも美しく愛しい画が、この世のどこにあるだろう。


「……ポーズとかピースとか、する?」

「いいよ、そのままのクレンで。っていうか、もう撮った」

「え! 髪バラバラなのに!」

「そんなことない。綺麗だよ」

 歩み寄りながらそう言うと、クレンはまた顔を赤らめて、照れくさそうに笑った。



「うん、これで安心」

「安心?」

 僕が訊き返すと、クレンが頷く。

「そう。不安だったんだよ。吹葵、これからもずっと私のこと、待ってくれるか」

「……不安なのか」

「だって、そうでしょ。吹葵はこれからしゅうかつして、もっと色々な人に会って、その中には女の人もいるでしょ。きっと私よりずっと魅力的な人だっている。

そういう人に会ったら、吹葵は私の事を忘れちゃうんじゃないかって」

「……写真を撮ったら安心なのか」

「というか、吹葵が写真を撮りたい、って言ってくれたから安心、かな……吹葵?」


 僕はクレンの間近まで寄ると、もう一度その体を抱き寄せた。左手は腰に、右手は頬に。動揺に揺れるクレンの瞳を、間近で見つめる。

「……あ」

 何か言おうとしたその唇を、塞いだ。目を閉じ、その柔らかな感触と熱だけを

感じる。クレンの唇を、感じる。


 唇を離し、目を開いた。クレンも目を閉じていたが、ほどなく目を開く。潤んで

いたが、笑ってもいた。

「……びっくりした」

「キスすれば、忘れないんだろ」

「あれはファーストキスだからだし……というか、そんなことしたって、私は吹葵のことを忘れたりなんかしないよ」

「いや、忘れそうになってた」

「そんなこと……」


「忘れないで欲しい、クレン。僕のことを」

 僕はその瞳を見つめて、言う。できる限り静かに、力をこめて。

「クレンのことを忘れない、風村吹葵っていう奴がいることを、忘れないで欲しい」



 クレンは目を見開いて、それから顔を伏せ、僕の胸を軽く叩いた。

「……ばか」

「それはクレンバカという意味?」

「馬鹿だよね、吹葵。やっぱり」

 腕を離すと、クレンは数歩後ろへ下がる。眼尻を指でこすり、顔を上げ、それからまた、ぱっと笑った。

 太陽のような明るい笑みではない。慎ましい月のような、クレンの笑み。


「行くね」

「いってらっしゃい」

「……いってきます」


 またいつかのようにやり取りをすると、クレンは駆け出す。

 駆け出して、地面を蹴り、空高くへと滑り出した。

 決して振り返らずに、まっすぐに。


 僕はその背姿を、クレンが空へ翔んでゆく姿を、やがて見えなくなるまで、ずっとずっと、見つめていた。

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