ことは三年前の初秋、まだ武藤の髪が白かった頃にまで遡る。

 生来の白髪と赤目により戸外での活動を制限されていたことも手伝って、武藤陽子は無類の本の虫として育った。外見を気味悪がってか、はたまた武藤の態度が昔からそっけなかったからなのか、彼女にはまともに友人というものを持つことがなかった。そんな小学六年生の武藤にとって初めてとなる、そして唯一の親友である関谷駿介は、武藤の祖母と同じ病院に入院したばかりの癌患者だった。

 ある時武藤が祖母の見舞いに行くと、新しく来た隣のベッドの患者が、武藤が読んでいるのと同じ作家の本を好んでいるという。ねえ、そうでしょう? 祖母が同意を求めると、右のベッドのやつれた少年が笑って「ええ」と声を挙げた……彼こそ、関谷駿介である。

 彼女が愛読していたのは、アガサ=クリスティと室生犀星。小学生相手には共通の話題などろくに見つからないような趣味をしていたが、関谷はクリスティをことの外愛する人だった。

 武藤が週に一度、都会から離れたその病院に通う中で、二人の間に固い絆が育まれるまで時間はそうかからなかった。それまで常日頃沈鬱な雰囲気を纏っていた武藤は目に見えて明るくなり、関谷もよき話し相手を得たお陰か癌の進行が緩やかになっていった。秋が深まれば病衣の関谷とサングラスをかけた武藤とで病院敷地内のベンチに腰掛けて鮮やかな黄色を眺め、春が来れば満開の桜の下、桜吹雪の中を歩いた。都会から少し離れた場所にあるその病院にはたくさんの銀杏と桜の木が植わっていた。

《ビオス》なる存在の話が関谷の口から告げられたのは、二人が出会って約二年が過ぎた、武藤の中学二年の秋の頃、彼女の祖母が三度の手術ののち退院してすぐのことである。対価と引き換えに願いを叶える存在というその都市伝説は、ネットの海にその姿を現して以降、少しずつ広まっているらしい。ベッドから出る回数がめっきり少なくなった関谷は、型落ちのパソコンを使って様々な名前で呼ばれるこの存在について調べていた。

 ――ねえ、もしも願いが一つだけ叶うとしたら、陽子ちゃんは何を叶えてもらうかな?

 関谷がそんなことを聞いた。武藤は無邪気にもこう答えた。

 ――目が、外をちゃんと見れるようにしてほしいです。

 彼女の目はひどく光に弱く、太陽の光の降り注ぐ空間ではサングラスを掛けていないことには眩しさのあまり目を開くことさえままならないほどだった。

 せっかくこの病院には綺麗な銀杏や桜があって、二人で見に行っても、自分はサングラス越しでなければ何も見ることはできない。それがひどく残念だった。できることなら、せっかくの二人の時間をより充実したものにしたい。

 もしかすると《ビオス》に会えるかもしれないよ、陽子ちゃん――そんなことを関谷が言った少し後、病室に奇妙な来客があった。

 蜂蜜色と乳の間の肌をしたその女は、フレームが無数の鮮やかな色で染められた丸眼鏡をかけ、薄い青色の髪と目をしていた。細かな色の違いがわからない武藤だったが、あえてその色合いを説明するなら、よく晴れて鰯雲が浮かぶ秋の空の色、だろうか。髪と目はまったく同じ色をしており、空色の上には緑、黄、赤、紫、桃、青と、鮮やかな光が浮かんでいた。ひどく冷える日で、彼女は濃い色のトレンチコートを身に纏い、厚手の黒いストッキングに脚を通していた。細い爪には髪や目と同じく空色のマニキュアが塗られている。

 はじめて武藤が彼女を見たとき、なにかが異様だ、と感じたという。武藤が病室に向かうと、二人は話し込んでいた。こちらに気付いて振り返った彼女と目が合ったとき、背筋を寒気が伝い、心の中に粟立つようなさざ波が生まれた。自分の腹の底まで見透かされているような視線だった――しかしその空色の女は武藤に軽く会釈するとすぐに帰ってしまい、武藤も最初感じた異様さは気のせいかと思うようになったので、それ以来特に言及することもなかった。



 武藤にとって関谷は唯一の友人だったが、彼にとっても武藤は数少ない話し相手だった。武藤より三歳年上の関谷はこの病院に来る前、別の病院にも長いこと入院していた。彼が通っていた学校の知り合いも、武藤と会った頃にはちらほら顔を出していたが、この頃にはまったく姿を現さなくなって久しく、関谷駿介は病に冒される間に外部とのつながりを少しずつ少しずつ、そして確実に失っていた。

 彼の容体が急変したのはその年の暮れのことである。年が変わり、一時はICU行きになった関谷が元の病室に戻ってきたとき、痩せた顔を見慣れていた武藤にさえもわかるほどに彼はやつれ、疲れ切っていた。より強い薬の影響で髪はすっかり抜け落ち、手足は輪をかけて細くなり、骨が浮き出た。

 武藤は赤い毛糸で帽子を編み関谷に贈った。髪のなくなった頭に毛糸の帽子を被り、それを鏡で確認すると、弱々しくも確かに笑顔を見せた。

 ありがとう陽子ちゃん、大事にするよ。

 それから三日後を境に、武藤の髪は永久に黒く染まることとなる。

 変化はあまりにも突然だった。朝起きると視界が妙に鮮やかに、また少し薄暗く感じられ、視界の端に黒いものが見える。鏡を覗くとそこにいたのは昨日までの自分とは似ても似つかない人物で、髪は黒く、後でわかったことだが瞳の色もすっかり変じていた。数日に渡り検査を受けたが、わかったことといえば、最早武藤の体には十人並みの色素が備わっており紫外線や太陽光を浴びても何の問題もないことだけで、なぜこのような変化が起こったのかはその道のプロフェッショナルをして見当もつかないということだった。

 検査が終わると、武藤はいの一番に関谷に会いに行き、自らの変異を伝えた。横になった彼は脇に立った武藤を見上げて、時折頷きながら、半ば眠るようにして話を聞いていた。そして武藤はぼろぼろになった彼の手を握り、こんなことを言った。

 ――駿介さん。体、大丈夫ですよね。きっと治りますよね。今すぐでなくっても、いつか……。

 また今年も一緒に桜、見に行きましょう? 私もサングラスなしで桜が見れるようになりました。きっと今年の桜は今までで一番綺麗で……駿介さんと一緒に見たいです、私。

 いつの間にか武藤は細い手にすがりつき、涙を流していた。関谷がどんな顔をしていたのか、ぼやけた視界で見た顔を、武藤はよく覚えていない。

 その日の深夜、関谷駿介は死んだ。十七歳だった。

 ベッド周りは早々に片づけられ、葬儀は粛々と執り行われた。以来武藤はその病院に足を運ぶことはなくなり、一年が経って、関谷家から武藤宛に手紙が届いた。関谷が、自分の死の一年後に郵送するようにと言づけておいたもので、つまりは遺書のようなものである。

 その遺書の中で関谷は武藤の肉体の変化は自分があの空色の髪の女と取引したために起こったことであることと彼らとの契約の方法を記し、彼の死が寿命ではなく契約の対価として魂を売り渡したことによると暗に告白した。彼ら《ビオス》との契約の方法を記した節の末尾にはこうある。『もしも陽子ちゃんに命を捨ててでも叶えたい願いがあるなら、彼らに頼ってみるのもいいかもしれない』……関谷は最早病に耐えて生きることに我慢ならなかった。これ以上の痛みの中で生きるよりも、残り僅かな命を捨ててまで自らのよき友人にまっとうな人生を送らせることを選んだのだ。

 武藤は一時自ら命を絶つことさえ考えたが、しかしそれはできなかった。このとき、既に彼女は親友と《ビオス》より贈られた呪いにとらわれていたのである。


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