二十
崩れ落ち、床に膝をついて蹲る武藤が見たのは、すぐ隣に座る同級生の顔だった。しかしその表情は未だかつて彼女がどんな人間を相手にしても見たことのないもので、仄暗いこの場所で両の目はその奥から、深海から湧き上がる深い青色に光り輝いているように見えた。
彼は今や自らの望むまさにそのものを目の前にして、視界を明滅させるほどの未聞の歓喜に打ち震えていた。生白い目は暗がりでわずかに青みがかって、瞳の奥には尋常ならざれど超常のものですらない光が一点爛爛と輝いている。
武藤は何か言おうとしていたようだったが、その弱々しい提案の意志は消え、目には戸惑いと、危機を察知し鋭く輝く迎撃の意志があった。和久田はそこに金剛のように堅固で城砦のように堅牢な峻厳を見た。
「和久田、さっ」
半ば蹲ったまま横に這おうとする武藤の肩を掴み、跳ね上げる。正中線を曝して冷たい床にあおむけに転がる武藤に馬乗りになると、右手を彼女の首にあてがい左手でブレザーのボタンを外していく。
もう一度だ、もう一度はっきりと見たい、拳で鳩尾を打ち据えられた時の顔を、もう一度。
どうも脱がされているらしいと気付いた武藤がにわかに色を変えるが、違う。そんなものは望んでいない。いやまったく望んでいないといえばそれはそれで嘘になるかもしれないが、少なくとも優先順位の第一位はそんなものではない……。
右の手指に触れる首は柔らかく、熱を持っていた。起き上がらないよう押さえつけると左右の腱と喉笛の感触が伝わり、とりわけ熱い血管の熱が指先に触れた。
指が煙や炎を上げて今にも炭化しそうだった。自分は今聖の領域にあるものを貶めている。触れてはならないものに触れている。片や汚染され輝きを曇らしめられて、片や聖性の熱に焼かれて命や魂さえ燃え尽きようとしている。
ブレザーのボタンを外し終えると、ワイシャツのボタンは一々外す手間をかけずに、ただボタンとボタンの隙間に指をかけて左に乱暴に引っ張った。細い糸で止められていたボタンがはじけ飛び、生白い胴体と、胸を保護するための薄い空色の下着が露になる。
「ごめん、武藤」
気付けば和久田は口から贖罪の言葉を連ねていた。何度も何度も嘘をついた。彼女を騙しさえした。今でさえ武藤は何かまったく別の狙いが和久田にあると思っている、誤解を生んだのは和久田の怠慢に外ならない。そのことすべて本来なら彼には耐えられるものではなかった。だからこそ今ここに至って彼の口から溢れるのは他ならぬ謝罪の言葉以外の何物でもないのだ。
剥き出しになった鳩尾に一発拳を落とすと、武藤は体を一度くの字に折ろうとしたところを押さえつけていた左手に首を圧迫されたことで激しく咳き込み、押さえつけるもののない脚は大きく跳ね上がる。涙が零れるのを和久田は見逃さなかった。拘束を解こうと体をねじる武藤の荒い呼吸が喉を通っていく時の熱や振動、速まっていく鼓動に押された血が血管内を巡るその動きまでもが掴んでいる首から感じ取れた。抵抗する武藤は、一度などは腰を跳ね上げさえしたものの無駄だった。
冷えた空気の中に露出した柔肌は熱を放ち、胸は不規則に上下していた。和久田は武藤の腰の上にまたがるような姿勢でいながら、細く引き締まった白い腹が伝える熱を空気を通して感じることができた。
「ずっと嘘をついていた。もちろんマゾヒストだなんてのは大嘘だけど、人を殺したいだなんていうのも、真っ赤な嘘なんだ。誰彼構わず殺したいだなんて、そんな風に思っていたわけじゃない。誓ってそうだ。おれはシリアルキラーなんかじゃない。おれが殺したいと思ってたのはいつだってたった一人だけだ。武藤を措いて他の誰かを犯して、殺して、食べたいだなんて、ただの一度も思ったことなんてない。ごめん、武藤。ずっとずっと嘘ばかりついてきた、でもようやく本当のことが言えるんだ、おれが殺したいのは武藤だけだ、武藤だけなんだ。誰かを殺したいだなんて、武藤、お前を措いて未来永劫そんな人間いるはずがないじゃないか」
抵抗むなしくされるがままの武藤に依然馬乗りになり、和久田はさらに二度裸の鳩尾を拳で圧迫したところで止めた。拳を落とすのではなく、圧迫するというのは、つまり内出血の可能性をできる限り減らすための考えだった。いや、彼としては特段考えもせず、無意識の行為だったかもしれない。少なくとも予め拳を鳩尾に据えて決して離さないことで、武藤がその拳による《攻撃》を回避できなくなったことは事実だった。
最初に拳でもって鳩尾を打ち据えた時から、武藤の目には恐怖の色があった。三度目の前、拳を鳩尾にあてがいそのままにされた武藤の顔に見えた恐怖は、いつかの淫夢の中の彼女を思い起こさせて、体が内側からかっと熱くなった。血が温度を高めているようだった。
和久田はついに両手を武藤の首にかけた。青いモザイク模様のディングを展開し、指を喉笛と腱の後ろにめり込ませた。柔らかい熱が汗で湿り指に吸い付く、玉体の熱が蕩けて指に染み込む。涙で視界が歪んだ。和久田は笑いながら泣いていた。のしかかった腹と腰から伝わる熱は命の熱だった。
……なるほど確かに武藤を縛る呪いは彼女を傷付ける可能性があるものを徹底して排除しようとするかもしれない。しかし、どうだ? フリオロフの鋏はちょうど真正面から向かってきたために、ただその運動が停止するだけに終わった。
つまり、超常をもってすれば、《呪い》の網をすり抜けることも不可能ではない。
殺せる! ディングを展開した手でなら、きっと武藤を絞め殺せる!
まず絞め殺す。縊り殺して、死体を犯して、それから肉を食う。一度死ねば呪いだって関係なくなる、歯を立てられる。それにもしかすると、破瓜の出血さえも彼女の《呪い》は受け付けないかもしれない……和久田はそこまでは言わなかった。ただ目の前の体を、少なくとも骨になるまで食い尽くすということだけは決めていた。曲線を描く肋骨に付いた肉を血と諸共にしゃぶるのを想像するだけで、全身を稲妻のように貫くものを和久田は感じることができた。
「パルタイになんか殺させるか、フリオロフなんて、あんな能面みたいな面した奴に殺されてたまるか」
和久田は体全体で武藤の首筋を圧迫していた。ディングの持つフェルミの《流転》の力で力のベクトルを絶えず下方向に限定し、浮かせた腰を落とすことで痙攣する体を押さえつけた。
首を絞められた武藤はというと、やはり身をよじり和久田の腕をつかんで引き剝がそうとするけれども力が足りず、顎を上げ大きく口を開けて酸素を求めていた。ぬらぬらとした桃色の口腔と舌を見ると、和久田の体内の炎はいっそう激しく燃え盛った。噫我が腰の炎、我が魂、我が命の光! 渾身の力でもってか細い少女の鶴首を絞め上げる。こりこりと喉笛が音を立て和久田は一瞬意識を飛ばしそうだった。
「武藤、おれが殺したいのはたった一人だけだ。嘘をついていた、本当にごめん、ごめんごめん……」
引きつった筋肉は笑顔を作り、我知らず和久田はぼろぼろと涙を流していた。
顔の色が変化していく。手を緩める。深く息を吸って胸部が膨らみ、吐くと萎んでいく。二三度して言葉を発しそうになったところでまた絞め上げる。手も腕も、体中何もかもが熱くなっていた。しかし緩めて絞めてを三回ほど続けただろうか、武藤顔を見て、ふと違和感のような何かを感じ、和久田は一瞬、ほんの少し、首を絞める力を緩めた。
和久田の腕をつかむ手の力も弱弱しく、彼女は今や抵抗を諦めているようにも見えた。白くか細い指が所々鬱血して赤くなり、一歩引いた心持でそれを見た和久田は自分がとてもひどいことをしたような気がした。彼の中の武藤を崇拝する気持ちがそうさせたのだろう。白い首もまた鬱血しているのだろうか、和久田はそれを見ようとはしなかった。彼の視線はもっぱら武藤の顔に注がれた。
死を覚悟した彼女は、本当に薄く、満ち足りた笑顔を浮かべていたのだ。
強烈な違和感を覚えて、手の甲に浮かぶモザイク模様の青は薄く揺らぎ、和久田はほんの一瞬だけ首を絞めるその手を緩めた。そしてその隙を狙うかのように、彼の両腕を電撃に似た激しい衝撃が襲い、次いで面の衝撃が正面から胴を打ち、和久田の体は一メートル半ほどある短い階段を転げ落ちた。
何が起こったのか、吹き飛ばされて空中にいる間はわからなかった。しかし階段を転げ落ちている間には、自分を襲った衝撃がなんであるか彼は既に把握していた。
和久田は武藤の言葉を思い出した。ずっと前のようで、しかしほんの二日前のことだ。彼女の家で、武藤が自らの《呪い》についてこう言っていたじゃないか。
『あの人は、何があっても私が生きながらえるように、寿命以外で絶対に私が死なないように、私を――私を、改造したんです』
聞き流していた。
関谷の《呪い》は完璧だった。蟻の這出る隙もない。パルタイら《超常》でも、人間である和久田がディングの力を利用しても、ビオスが武藤にかけた呪いは絶対にそれらすべてを弾き返し、武藤を守る。この人間の魂は自分のものだと宣言せんばかりに。己の命を引き換えに尋常の世界を与えた人間に最大の幸福を与えるために。
踊り場まで落ちていき、階段の向かいの壁まで転がって、和久田は一度頭をしたたかに床に打ちつけていた。ひどい痛みだ。頭のみならず全身が打ち身からくる痛みを発していた。だがそんな痛みはどうでもよかった。彼はその痛みにかかずらってはいられなかった。内臓をひとつかみにされ、雑巾のようにしぼり上げられるような激烈な痛みが暴れ回っている。和久田の良心と忠誠心があげる痛みだった。体中が震えている。歯の根が合わない。罪の意識が形を成した大蛇に己を内側から食い尽くされてしまいそうだった。
震えながら酸素を取り込み呼吸を整えるまで回復した武藤は、いわゆる四つん這いの動きでおずおずと吹き飛んでいった和久田の様子を覗き込んでいたが、その目にはやはり怯えが見え隠れしていた。和久田はその武藤と目が合うと、ここに来た時持っていたものを一顧だにせず一目散に階段を駆け下りていく。
吐き気がした。視界が歪み、揺らぎ、今にも倒れそうなのを速度を保つことで自立し続けようとするかのように走った。いつの間にか内履きになっていたがそんなことには構うこともできず屋外に飛び出し、ふらつく脚がさすままに校舎の北端へ向かっていった。そしてその角を……おそらく習慣を無意識になぞったのだろう……駐輪場がある東の幹線道路側へ曲がろうとしたところで、足を何かに引っ掛けけつまずき、顔といわず胸といわずコンクリートの地面にしたたかに打ちつけた。
和久田がひっかけたのは人の足だった。その人物は身長百七十センチに届く女子としては長身の部類に入る《超常》で、和久田より頭一つ高い背の頂点にある二つの色素の薄い目が、今は影の落ちた顔の中で炯と輝きながらあなどりを含み和久田を見下ろしていた。
「そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな」
和久田はその文句を知っている、よく知っている。中学の授業で扱ってから思い返す旅何度も何度も読み返した、ヘルマン・ヘッセの短編の中の言葉だった。ヘルマン・ヘッセの短編の文句をさながら芝居の台本に書かれた台詞を適当に読み上げるように声を発したこの女生徒のこともよく知っている。彼女は和久田のすぐ隣のアパートに住んでいる、イタリア系アメリカ人と日本人の間に生まれたと自称する人外の輩なのだ。
「『少年の日の思い出』か」
和久田はその話の中の少年にempathyを感じていた。きっとだからなのだろう、彼が何度もその短編を読み返したのは。
「懐かしいな」
コンクリートに手をつき起き上がって見上げる和久田を、フェルミは腕を組んだまま無言で見下ろしていた。
「和久田さん、何があったんです?」
フェルミは和久田に貸与しているディングから発される電波のようなものを拾ってそのディングが、ひいては和久田がどこにいるのかおおまかに把握することができた。貸与されたディングと貸与したパルタイとの距離が近いほどその精度は正確になる。フェルミはそのようにして和久田がその都度どこにいたのかは把握していたが、しかしその場所で和久田が何をしていたのかまではわからなかった。
ただ手掛かりになるのは、第三校舎の屋上へつながる階段で一度ディングの力が行使され、その証拠にフェルミの持っていたタブレット上のアイコンが激しく光り輝いたということだ。
問われた和久田は顔を背けるように俯かせて、打ち震えた。
もうこの時には和久田はすべて理解していた。ずっと自分の心に巣食っていた怪物が何であり、どこに起源を持っているかも。なぜ一瞬首を絞める手を緩めたのか、その理由も。カトリックの祭司風に、あるいはツァラトゥストラに理想を仮託した哲学者風に言うならこうだ、「悪徳はある、しかしそれはあなたに属している」。
悪徳はフェルミが持ち込んだのではなかった。ずっと昔から和久田の中にあって、その存在に気付いていなかっただけなのだ。
「ずっと、クウガになりたいと思っていた」
あの怪物はフェルミが植え付けたようなものではなかった。既に鎖は打ち砕かれていた。その鎖を砕いたのでさえフェルミではないのだ。
「ああそうさ、早々に諦めたよ。でも似たようなことはずっと考えてたんだろうな。おれは、まさか自分が望んでいたものの反対の位置に生まれた時からずっといただなんてかけらも考えもしなかったさ。フェルミ、前おれが、お前がおれの頭に植え付けた云々言ったよな、あれはお前のせいじゃない」
和久田は今話している自分がどちらであるのか、何であるのか、わからなかった。今や主従が逆転している。今や? 否、最初から逆転しているのだ、ずっとそれに気付かず、自分は何もできないが普通なまっとうな人間だと思い込んでいたにすぎない。
「おれは武藤をレイプして殺したいと思ってる。心の底から」
怪物は和久田だった。和久田徹は怪物だったのだ。
そして和久田は、自らの内の武藤陽子を崇拝する部分と凌辱する部分とが根本の部分で極めて密に絡み合っていること、ほとんど同根であることも理解した。
無論ある時点までは怪物はなりをひそめて、いわゆる《和久田徹》の社会的に健全な人格が表に出ていた。武藤の鳩尾に拳を叩きこむ前後に起こった思考のざわめきを合図に、表と裏が逆転し、夢の中の順序を跳び越して歪んだ再現が行われたのだ。表と裏……あるいはほとんど同根にある崇敬と下卑た欲望もまた、コインの表と裏のような関係性にあるのかもしれなかった。
ひっくり返ったさらに後、現在の和久田の人格は、一体どうなっているのだろう? 彼はひどく罪を感じているが、同時に武藤にかけられた《呪い》を破れなかったことに自らの喉笛を爪で掻き切ってしまいそうなほどの悔しさと怒りを覚え、臓腑を駆け巡る痛みに脂汗をかき、痛みのあまり今にも身悶えしそうなのを必死にこらえながら、それらすべてを俯瞰するようなひどくさめた感覚も持ち合わせていた。
フェルミを前に言えるのは、犯し、殺すところまでだった。食人の願いなど、本人以外の誰に向かって告白できようか。
和久田を見下ろしていたフェルミは表情のない顔から一転、妖艶という形容の似合う薄笑いを浮かべて言った。
「ちゃんと言えたじゃないですか」
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