十九

 午前の授業を終えた和久田は、西門や井坂をはじめとする男子連に混ざる気もなく、かといって四月からこっちよくしていたようにフェルミが誘ってくるわけでもなく……そもそもフェルミは今日も欠席している……、自分の席で弁当箱を開こうとして、やめた。一つには武藤のすぐ隣で食事をするということに抵抗をおぼえたのと、またもう一つには昼休みの教室の喧騒があまりにも耳障りだった。人の声が遠くからしか聞こえない場所に行きたかった。

 だから和久田は包みを持って階段を下り、三棟並ぶ同じ形の校舎の幹線道路側から数えて二番目と三番目、第二普通校舎と特別校舎の間にあるコンクリートうちっぱなしの場所に来た。

 ちょうど校舎の間にある空間の北の端にあるその場所は、すぐ南隣にある倉庫と建物を囲う植え込みによって目隠しがされている。複数人がたむろするには手狭だが、一人でいる分には何の問題もない。入学以来入るべき部活動なりを探しもしないで暇を持て余していた和久田が探しあてたスポットだった。知り合いの誰も教えたことはない。

 日陰になって冷たいコンクリートに尻を着けるとにわかに力が抜けていく。ここ数日張り詰め通しだった神経がようやく緩みきった心地がした。

 教室や廊下から漏れ聞こえてくる声が妙に遠く聞こえる。フェルミの溌溂とした甲高い声も今は聞こえてこない。静かだ、と思った。

 これでいいんだ、これでいい。武藤とはもう何の関係もないただの同級生で、席替えもしてそれからひと月と経てば何のつながりもなくなる。フェルミはどうだろう、彼女の《鎧型のザイン》製造計画の片棒を担ぐ、あるいは母親になるという願いに何らかの形で協力するとしても、高校生フェルミ瑠美との付き合いはこれからも続けていかなければならないものだろうか。

 それもいいのかもしれない。あの童女が笑顔の裏で何を考えているかはいまだに計りかねるところもあるけれど、少なくとも親しい仲であるとみなされることについて悪く思っているわけでもないようだし、それは和久田も同じ気持ちだった。正体がパルタイであることを抜きに考えればフェルミ瑠美は好人物であるし、何より今や和久田はその正体や所業を知っていながらなお憎みきれないほどに、あの悪魔の如きパルタイの一角たるフェルミを受け入れてしまっている。

 弁当箱の中身を空にして、水筒から麦茶を蓋を兼ねるコップに注ぎ入れると、一気に飲み干して息をついた。

 さて、これからどうしよう……携帯電話で時間を確認すると、予鈴まではまだ余裕があった。しかし今日は午後一で体育の授業がある。ソフトボールなのでジャージが必要なはずだった。武藤の美しい四肢を覆い包んでしまうジャージを和久田は憎んでさえいた。無論彼女の美しさは衣服で体を覆い隠す程度で変わるようなものではないけれど、それでもという思いがあった。

 本人の弁によれば、現在の武藤はメラニンを得たからといって日焼けするようなことはないようだった。関谷俊介がかくあれかしと望んだ白い肌は、一年と三カ月近い間まったく変わらず保たれているらしい。

 彼女が死ぬその瞬間まで、いやもしかしたら死んで後まで、あの北国の雪のような肌はそのままなのだ。染み一つなく、黒子一つなく、イデアの化身さえ思わせる純白色。そして絶対に傷つくことのないその下には桜色の肉と暗赤色の血が詰まっている……。

 和久田は両脚を投げ出し、背中を校舎の外壁にゆだねて、首を前に倒して膝と膝の間にあいた空間をぼんやりと見つめていた。前触れなしに革靴とコンクリートの立てる乾いた音が聞こえて、驚いた和久田は視線を前に向ける。

 傍から見れば眠っているかあるいは気絶しているようにも見える体勢をしていたことに気付き、しまった、何か余計なことでも起こらなければいいが、などと考えたが、幸いにもというべきかその心配は全く無用に終わった。

 腥と吹いた風に髪から産毛まで全身の毛が聳つ。……固い音が聞こえたのは和久田のすぐ目の前三メートルとない場所からだったのだ。前触れなどなくて当たり前だ、そもそも打ちっぱなしのコンクリートがむき出しになっているのは、倉庫の幅であるおおよそ四メートルに少し余分を足した程度の狭い範囲なのだから。

 目の前に,灰色の紳士服を着た灰色の紳士がいた。つま先の尖った靴は飴色に紫を足したような夢幻的な色彩を帯び、面長で角ばった顔をして、髪は艶めいて黒く、鮮やかな橙と赤の中間のような炎のように揺らめく瞳があり、外から見える顔と両手の肌は……いやきっと被服で隠された全身も……湿った灰の色をしていた。

 彼は即座に理解した。この灰色の男こそ、武藤との契約により関谷の魂を取引した《ビオス》を追う者、フェルミを人間フェルミ瑠美として戸籍を捏造しパルタイから《インテリジェンス》と呼ばれる者。

「都村、さん?」

 特別意識せずに言葉が口をついて出た。男は物々しく頷いて言った。

「いかにも私が《ビオス》の都村。君が和久田くんだね、和久田徹くん」

 彼は外見ではおおよそ三十くらいの顔をしていた。髪はワックスで固められて一面黒い色をしている。口調こそ気さくな風だがその声は著しく低く又重厚であり、遠くから聞こえてくる地鳴りを思わせて、軽薄な感じは決して与えなかった。

「今日は君の顔を見にこうしてここに来た。武藤くんに、懸想、しているそうじゃないか」

 言葉を選ぶような間がひどく不快だった。なるほどこいつもフェルミと同様自分の願いの何たるかを知っているわけだ。

「何ですか。武藤がもう一人の、なんだったか、そう空色のビオスを殺す前に、武藤自身が殺されちゃかなわないってわけですか」

 ところが都村の返事はひどく素っ気なかった。

「殺す? 不穏当だね」

 その素っ気なさに和久田は戸惑った。他方都村はそんな様子をまるで意に介さないように首を回して周りを見渡すと、君立てるかいと小さく言って、先の方を持って杖の柄を差し出した。手を前に伸ばすと同時にその杖は和久田の目の前に現れた。持ち手は手指にフィットするように凹凸が加工され表面は合成樹脂で覆われたひどく現代的な代物だった。和久田はビオスの手を借りることなく立ち上がり尻をはたいた。

「少し歩こうか」



 北の端を出発した都村は堂々と敷地内を歩いた。誰かとすれ違うことはなかったし、校舎の窓からこちらを見やる影も一つとして見えなかった。都村は西にある裏門を通って真昼の住宅街に出た。校庭にも、おおかた方形に土地を切り分ける形に曲がり、また時折曲線を描いて枝分かれする道にも、人はおろか犬猫や鳥の影さえなかった。

「空色のビオス、と君は呼んだが、名前は武藤くんから聞いていないのかね。いや名前などどうでもいいか、ともあれ話題はそのもう一人についてなんだ」

 ふと和久田は気付いた。白昼堂々こんな場所をうろついて大丈夫なのだろうか。まごうことなき超常の気配をこんなにもまき散らしている以上きっと武藤は気付いているだろう。

「武藤くんのことなら心配しなくていい。あの力を与えたのは誰だと思っているんだ。多少機能を衰えさせるくらいなら簡単なものだからね」

 最初は光の加減かと思ったが、都村の肌は太陽の光の下で見ても変わらずモノクロームのままだった。ちょうど公道にはみ出した庭の木が垂らした枝が彼の顔の隣にあり、濃い色の葉が灰色のすぐ隣に並んでいた。白黒映画の中から出てきたように見えた。しかしその目は、人間の埒外の炎の色に輝いている。

「私は武藤くんと、もう一人のビオスを捕まえて彼女の前に突き出すことを約束した。しかし彼女を捕まえるのはこのビオス都村であっても困難でね、はいどうぞとその場で引っ張ってくることはできそうにもなかったし、時間がかかることが予想された。

 君も少しはパルタイを知っているのだから想像はつくだろうが、ビオスの力はあれらよりさらに広く強い。ビオスがビオスを捕らえるというのは、不可能とは言わないまでも、一朝一夕にできるようなものじゃあないんだ。そういえば武藤くんは《超常》という便利なタームを作っていたな、今度から借用させてもらおう。ともかく私は彼女、武藤くんと交渉した結果一年の猶予を得た。一年だ」

 強調するように繰り返された言葉を、和久田もまた頭の中で反芻した。一月から一年だから、既におおよそ四分の一が経過している。都村が約束を反故にさえしなければ、あと九ヶ月で二人が交わした契約はその要件を満たすことになる。

「今のところは縄を綯い網を張って向こうが引っかかるのを待ちながらどうにか捕まえられないか色々試していると、そんな段階なんだが、まだ時間がかかる。次彼女に会った時にでも伝えてやってほしい。時間はかかるが、必ず君の友人の仇は捕えて君の前に突き出してやると」

 話している間に都村は武藤の家を通り過ぎ、十字路をいくつか曲がって曲線を描く道を抜けていった。一々道を選ぶ際に迷いがなかったので最初はどこかはっきりとした目的地を目指しているのかと思っていたが、次第にただどこへというでもなく歩き回っていることがわかった。杖はいつの間にか消えてなくなっていた。突然彼は歩みを止めて後ろにいる和久田の方へ振り返った。

「君の学校にいるフェルミだが、潜入後どうなったかな」

 つい昨日あんなことがあったばかりの質問だったので、和久田は身構えた。

「それはパルタイを統率する《インテリジェンス》としての質問ですか」

「インテリジェンス? ああ、ははは」

 彼は和久田の言葉を不穏当だと評した時のように言葉を繰り返した。そして笑ったように見えたがその声は乾ききっており、表情も決して笑っているようには見えなかった。

「あれはパルタイ達が勝手に言っているだけだよ、私はパルタイにはできないことも色々できるから、彼らに種々な便宜を図ってやっているというだけさ。私は彼らの行動や意思決定には一切かかわっていない。フェルミのことを聞こうとしたのも、単なる好奇心、から来たものだと思ってもらえれば幸いだ」

「普通に高校生活を楽しんでますよ。僕の知る範囲では、ですけど」

「そうかね」

 それからまたしばらく都村は無人の住宅街を歩いていたが、ふたたび立ち止まると袖を捲って右の手首の腕時計を見た。和久田も制服のポケットから携帯電話を取り出しホーム画面を開く。

「そろそろ戻らなければならない時間かな」

「そうですね。最後にいいですか」

「何かな」

 和久田はまっすぐ都村の炎のような目を見つめた。おれがのこのこついて来たのは別に決して考えなしでのことじゃあないのだ。

「あなたの目的は何なんですか」

「目的?」

「フェルミは、パルタイの目的は《超人》に至ることだと、そのために人間の《存在への意志》が必要なんだと言っていました。ビオスにはそういう目的はあるんですか」

「ビオスの使命というか、役割、ということならある。人間の願いを叶えること。いや、パルタイに対しても同じようなことをしているから、より正確を期すなら、他の願いを叶えることか」

「あともう一つ」

 都村は一度視線を腕時計に向けたが、また和久田を見た。

「武藤の願いを叶えたら、やっぱり彼女の魂を持っていくつもりですか」

 都村はしばらく黙っていたが、やがて「だろうね」と言った。

 ……。

「さて、戻ろうか」

 一体ここはどのあたりなのだろう、と辺りを見回した。背の高い木や三階建て四階建ての建物に遮られて二人のいる場所からは汚れた白い色をした校舎の姿を見ることはできなかった。

「心配しなくていい、すぐに送り届けよう」

 ビオスのその言葉と共に、和久田の視界が急速にぼやけ、まったく異なる像が結ばれていき、太陽の光の熱が遠のき、暗く冷たい感覚が全身を包んでいく。

「武藤くんをよろしく頼んだよ。あれは極めて弱い人間だ、人の間で生きていくことが難しいくらいには……それには外的だったり内的だったり、ともかく色々な要因がある」

 都村の声もまたどこか遠くから聞こえてくるかのように反響して聞こえた。足場が傾いだりということはなく、意識もはっきりしていたが、それだけに今起こっていることが理解できない。いや、誰がこれをしているかはわかっているのだ。そして何をしているのかも見当はついている。しかし……

「人とかかわることを避ける性格や、他人に近付くことを躊躇わせるような身体的特徴、それから彼女が生きてきた中での出来事、というのもあるだろう。だが私としては、いやビオスとしては、そこもできる限りどうにかしたい。それもまた」

 住宅街の像は既にビオスの表情も見えないほどぼやけていたが、目の前にいる灰色の男はうっすらと微笑んだように思えた。

「いや、あまり喋り過ぎるのも野暮か。ではまた会おう、和久田くん」

「――都村さん!」

 和久田は思わず前へ駆け出した。一歩、二歩、アスファルトを踏む。三歩目で履物がローファーから指定の内履きに、地面がアスファルトから学校の廊下に変わった。

 本当に暗い。照明が点いていないのだから当然だった。和久田は踊り場に立っていた。目の前には短い階段があり、光は階段の終わった先にある屋上に続く古びた扉のすりガラスから入ってくるものが全てだった。

 そして、その扉の少し手前、階段が終わったところには、ブレザーの制服を着た黒い髪、白い肌の女生徒が座り込んでいた。彼女は突然の足音に驚いて顔を上げており、目の周りの肌は赤味を帯びて熱を持っているように見えた。

 和久田はその少女の姿にただならぬものを感じ、同時に自らの身の内で内臓が高熱と流動性を持ちにわかに対流するのを知覚した。目の周りが赤くなっているのは明らかに彼女が涙を流した証拠で、武藤が泣いていたという事実がこれ以上なく腹立たしかった。

 その武藤は突然現れた人影に目を丸くしていた……目を丸くというのは比喩であって、実際彼女の細い目は見開かれたところで円を描くような形になりはしない……だが、それが和久田であると気付くと、目元をひくつかせ、唇をわななかせて、何やら言葉を探しているように見えた。

「どうしたんだ、武藤」

 喉が普段よりこわばっているようだった。固い声に武藤が身を縮こませた。いよいよ何かがおかしい。

「どうして目をそんな赤く腫らしてるんだ」

 武藤は何も言わず逃げるように目を逸らすだけだった。あの武藤が相対していながら目を合わせようとしないどころかそれを避けようとしているということ自体が、和久田に何かしらの疑念を起こさせるには十分な根拠だった。

「誰がやった」

 気付かない内に空いている左の五本の指に次第に力が加わって、おごめき、ぎりぎりと自らを巻き込んで拳となった。今度こそ和久田の声は怒りに震えていた。和久田の胸に宿っていたのは義憤と、それからさながらお気に入りのおもちゃを壊された子供の癇癪に似た気持ちだった。

「大丈夫です、目は腫れてるわけじゃなくて少し擦っただけで、それに誰かに何かされたわけじゃありませんから」

 武藤は早口で答えた。

「よかった」

 和久田の表情から緊張が抜けると、武藤も薄く笑顔を作った。作り笑いは固く、唇の端は震えて、ただ、と呟くと小さくなって顔ごと視線を大きく逸らした。

「じゃあどうした」

 図らずも尋問さながらの問いを投げた和久田相手に、武藤は怯えるように身を震わせ、次いで頭を下げた。

「すみません、私のせいでただでさえありもしない噂を立てられていたのに、私は、火に油を注ぐような真似をしてしまいました」

 曰く、こういうことがあったらしい。

 和久田が早々に教室を出た後、残った武藤がそのまま自分の席で昼食をとっていると、一階でパンを買ってきた西門以下男子連がどやどやと戻ってきた。一城高校の第一校舎には食堂があり、そのすぐ脇には近所のパン屋が出店の形で構えている。彼らは教室の後ろ廊下側にたまって雑談に興じながら食べ物を広げていたが、時折声をひそめ、同時に武藤を横目に見ているのが特別意識しなくともわかった。

 西門はどんな風にしていたのだろう? 少し気になったが武藤は彼について言及しなかったし、和久田もわざわざ聞こうとはしなかった。

 そして武藤は思った。あの人たちの誤解を解かなければならない。自分と和久田は決して恋仲にあるわけでもないし、彼即ち和久田は強く自らを律することができる聡明で善良な少年なのだ。

 武藤は一度弁当箱をしまって机を空けると、その上に今朝持ってきたツルゲーネフ全集の一冊を置いて、そのすぐ右横を手のひらで打ち据えると共に勢いよく立ち上がった。わざわざ深く腰掛けなおしておいたために椅子が音を立てて後退し、追いうちをかけるように内履きの踵をひっかけ、ひっくり返った椅子は背もたれを激しく打ちつけて大きな音を立てた。

 騒々しい昼休みに教室の隅から発された音とはいえ、あまりの物騒さに生徒たちは一斉に談笑を止めて教室後ろ窓際を見た。武藤は全身に力をみなぎらせて背筋をまっすぐと伸ばし、拳を握り、大きく体を開いて教室の反対側にいた男子連を睨みつけた。

 塊になっていた全員が自分を向いているのを確認すると、武藤はまっすぐ彼らの方へ、教室を左右で分ける直線上まで歩いていく。こんなことをするのは初めてだった。心臓が早鐘を打つ。こういう時一般的にはどうすればいいのか武藤はわからない。しかしどうにかして言わんとするところを伝えなければならない。これは和久田の名誉の問題なのだ、他ならぬ自分がどうにかしなければならない問題なのだ。口の中に溜まっていた唾を飲み込み、眦を決して、もう一度全員の顔を順にねめつけた。

 ……フェルミが人殺しの化け物の仲間であることも暴露したかった。しかし彼女は事実このクラスにうまいこと溶け込んでいる上クラスメイトには何ら危害を加えていないようだし、あえて暴露することによって、もしかするとあちらが暴走する可能性もある。何より和久田がフェルミに対する干渉をきらっている。だから、ひとまずそれだけは隠し通さなければならない……。

 一通り言うべきことは言い尽くした、はずだった。どこか視界が回っているようにも感じながら言葉を終えて、また男子連をにらみ、ついでに武藤を見ていた教室中の人間にもきつい視線を投げつけ、また男子連を見たとき、具合の悪いことに気付いた。

 それは言語で表現するのが少しばかり難しいもので、あえて一言で指し示すなら、薄い、というものだ。何が薄いのか? 周囲の反応がである。

 ……なんですかその間は。何か言ったらどうなんです。

 なぜだ、もっとこう、掴みかかってくるような反駁が来るものではないのか? 目の前の男子連も、クラスメイトも、決して怒りとは言えない感情をその視線に込めていることは武藤にも理解できた。

 言ってしまえば、武藤は冗談の通じない人間だったのだ。彼女は大多数の人間の社会に馴染めないほど真面目で、自らの言葉から噓偽りを退け、誇張も絶えてしない性分だったが、その真面目さは今回ばかりは裏目にしか出ようがなかった。

 クラスの連中は、冗談半分で和久田と武藤の、あるいは和久田とフェルミの仲を面白おかしく喋っていたのであって、その実誰も本気で三人が何かしら爛れた関係にあるなどとは思っていなかった。噂される側の和久田でさえ本気にはしていなかった。一から十まで大真面目に受け取っていたのは、武藤ただ一人だったのだ。

 武藤は次の一手を完全に見失った。反論してくる彼らにより強く言葉を返していくつもりだったのに、見事に肩透かしを食らった。武藤は即座に別のやり方を思いつくだけの能力を持ち合わせておらず、この場ではそれは致命的だった。

 なまじ注目を集めてしまっただけに教室中の視線が武藤を向いて、その全員が彼女の次の言葉を待っていた。握った拳の内側と両腋と内腿が熱を帯び粘性の汗でぬめる。額と頬が熱い。寒さなど感じない気温の中で膝ががくがく震えて、体が今にも浮かびあがってしまいそうに感じ、恐怖に駆られて走り出した。第三校舎の最上階にたどり着いたのは、人目を避けに避けた結果だという。

 それきり武藤はふたたび押し黙った。話が終わったことを察して、和久田は「そうか」とだけ言った。

「本当すみません、和久田さん」

「いいよ、別に」

 和久田はすっかりなげやりになっていた。なにが惚れた腫れたの噂だ、そんなこと、武藤に比べればないも同然の事柄に過ぎない。

「気に病むようなことじゃない、おれはそんなこと全然どうでもいいんだ」

 彼は武藤以外が相手であればともすれば失礼にあたるかもしれない事を言った。しかし和久田はこの言葉に一切の問題がないことを理解していたし、武藤もそれは了解しているだろうと彼は踏んでいた。

 和久田の集団における処遇などという下らないことに武藤が思い悩んでいること自体が問題だし、こんな埃っぽい場所で今のように小さくなっているのは武藤陽子とはいえない。彼女はもっと高潔で、気付けば和久田は、ひどく意気消沈した武藤本人への怒りを抱いていた。力を緩めていた左手がふたたびこわばっていく。

 だが、今更怒ったところで何になるのだろう、とも同時に思った。一度は握りしめていた拳を大きく開き第一第二関節を二三度曲げると、じゃあ、と言って武藤に背を向けた。

「どちらへ?」

「どちらへって、教室だよ」

 戻るべき場所に戻るだけだ。こんな黴臭い場所では水筒の蓋を開ける気にもなれない。

 どうせ井坂や西門あたりからまたその話を聞かされることになるのだろう、とぼんやり考えていると、後ろでたん、たんと少し乱暴な音が聞こえて、武藤が叫んだ。

「待ってください!」

 足を止め振り返ろうとすると、脇から胸へと腕が回され、抱きしめられると同時に和久田の体は後ろ向きに引っ張られた。

 背に顔をうずめるようにして、武藤は背後から和久田を抱きしめていた。

 顔をうずめるようにとはいっても、実際には武藤はやや前のめりになった体勢で額を和久田の背に付け、両腕を和久田の胴体の前に回してかき抱くようにして彼の体を押さえつけていた。

「何か、私にできることはないんですか」

「無い」

 引き剥がすと、武藤は顔を上げて、今にもまた泣き出しそうな顔をして、すがるような目つきで和久田を見た。

「何かしてもらおうなんて思わないし、そうだ、そうやって目の周りを腫らしてる方が、おれはよほど嫌だ。おれは別に、関谷さんやらビオスやらのことに首を突っ込む気なんて毛頭ない。フェルミ、パルタイのことだって、おれ本人はどうなったっていいんだ。つまり、あいつらが好き勝手したところでおれはどう思いもしないってことだ。薄情だろうけど、よく知りもしない人が事故で死んだところで、よくあることだ。そうだろう? 事故や災害で人が死んでも、まったく関係ない人だったら、あまり深く感情移入できる人は多くない」

 和久田が言うと、武藤は薄く笑った。改めて見てみると、喋っている間に消えたのだろう、すっかり目の周りの赤味は取れていた。

 まだ肩口を掴んでいた武藤の手を取り、引き離す。右手を掴まれた武藤は観念した様子で左手の拘束も解いて、ゆるりと和久田から一二歩離れる。下からのぞき込むように和久田を見るその目はいまだに震え、戦慄き、とてもではないが平素の彼女の孤高の色はそこには見えなかった。

 和久田は指を折り畳み、拳を作って、武藤の鳩尾を射抜いていた。

 恐らくは胴に痛みを覚えることなど本当に久しぶりなのだろう、少女は反射的に胴体を後ろ向きに跳ねさせて、和久田に向ける両の目を白黒させながら、鳩尾をおさえて膝から崩れ落ちた。

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