十八

 翌朝八時に登校すると、西門に出くわした。階段から教室の間の廊下で、和久田は正面に立つ彼のおよそ五メートルほど手前で止まった。表では野球部員が朝練のためにグラウンドいっぱいに広がっており、グラブでボールを取るたび響くパチンパチンと革の鳴る音が聞こえた。廊下にはほかに人はいない。朝の八時に登校するような人間は朝練のある運動部員か、そうでなければめいめい教室で予習か読書かに勤しんでいるし、それほど真面目でない人間はそもそも学校に来ていない。

「結局さ、武藤ちゃんとはあの後どうだった? いや、さっき教室で顔合わせたんだけど、微妙に気まずい感じになっちゃってさ」

「問題ないよ。フェルミのことでちょっと色々もめたけど」

 ははは、と西門はまた軽く笑った。あの一種独特の悪徳をにじませる笑いだった。

「フェルミちゃんか。二股とかかけない方がいいぞ徹」

「そうだな」

 この男のことだ、きっと勘付いているのだろう。和久田と武藤の間の関係が、少なくともろくなものではないということ程度は。あるいは多分フェルミも含めた三人の……いや、それは少々過信含みかもしれない。

 西門を見る和久田の目は、きっとまだ淀んでいる。

 和久田は西門光生がうらやましかった。背は高い、目付きも和久田より温和で笑顔だってずっと爽やかなものに相違ないし、和久田よりもよりよい方法で物事を見て、判断することができる。和久田は五代雄介がうらやましかった。世界を股にかける冒険家、絵にかいたような聖人君子。たとえそれがまったく見ず知らずの誰かであったとしても誰かの笑顔のために命を懸けられる人間。和久田は天道がうらやましかった。快刀乱麻を断つ勢いで窮地の和久田を救い、和久田の手に余るような優れた知恵を授けた恩人で、何よりも無二の親友であり、黄金色の目が今でも脳裏に焼き付いている。

 暗澹たる思いで唇をゆがめるようにして和久田は薄く笑った。惨めだ、惨めきわまりない。結局どうしようとも和久田には「うまくやる」ことができない。永劫回帰ではないが、似たようなことを性懲りもなく何度も繰り返している。フェルミの計画も、あるいは和久田を核に据えようとした時点で失敗を運命付けられているかもしれなかった。

 それから西門は歩き始めて、和久田とすれ違う形で階段の方へ向かっていった。

「どこ行くんだ」

「トイレだよ」

 振り返った笑顔は明るく、きっと自分にはあんな笑顔は作れまいと和久田は思った。



 西門が言った通り教室には武藤がいて、教室の最後列、窓際から数えて二番目の席で静かに頁を繰っていた。装丁のしっかりした臙脂色の表紙の分厚い本で、和久田は似たものが彼女の居室の本棚に置かれていたことを思い出した。

 階段から遠い側に黒板があり、したがって和久田は後ろ側の入口から教室に入った。静かに頁を繰っていたといったが、和久田が入っていくと即座にこちらに、というよりは教室に入ってきた詰襟を着た影を横目に見た。そしてそれが和久田だとわかると一瞬硬直し、それから逡巡する素振りを見せたのち、ぎこちなく視線を頁に戻し、椅子を引き直して姿勢を整えたりした。わざわざ椅子を引かなくとも人ひとり難なく通れるだけの空間は保証されているのに、だ。

 フェルミとは今朝も顔を合わせていない。和久田が早く出たせいかもしれないし、あるいは彼女は例の《鎧型のザイン》のための準備に追われているのかもしれない。とにかく、和久田にはわからないことだった。そして武藤はそれら諸々のことについて、恐らくは、ほとんど何も知らない。ただ《鎧型のザイン》の名と、フェルミには尋常の手段では叶えがたい願いがあるということ以外には、ほとんど何も知らないはずだった。無論、和久田の知覚できる範囲においては。

 ディング……超常の力の一部を展開させたとき、その顕現の前触れとして、和久田は非常に密な波のようなものが両手から発されているのを感じていた。手のひらの中心から同心円状に、波紋さながらに高い耳鳴りを伴って広がる力の波が先行し、星の瞬く間隙を縫って尋常の世界に一対の超常が展開される。手の全体を覆う黒い層は極めて薄く、甲にはモザイク画を思わせる記号の連続で、鮮やかな青の、おおよそ円形の模様が現れていた。所々に菱形に近い記号の頂点が飛び出していた。

 ザインやひいてはディングが人間の願いを叶えるために存在し、人間の願いを読みとって形を成すとするならば、和久田の手の甲に浮かんだ模様は日輪を現しているのだろうか。

 この二三日授業に身を入れていられる状況でもなく、進んだ授業の分を埋め合わせようと教科書に目を通そうと頁を開くと、隣で声が上がった。

「フェルミは」

 武藤だった。片目で右を見ると、彼女はほんのわずかに震える指で閉じた本を静かに卓上に置き、そのまま呟くような調子で言葉を続けた。

「フェルミは、今日は、どうしたんですか?」

 教室には二人を除いて誰もいなかった。窓際は高校の敷地の縁、後者を隠すように植えられた桜の並木に面していて、花弁の散った色鮮やかな葉桜が見えた。灯りの点かない教室はわずかに暗く、薄く透けるような色をした武藤の白い肌は、教室と地続きの空間の中にいて、同じ空気の中にいるのに、まるで違う世界の存在であるかのように見えた。彼女は軽く俯き、唇をぎゅっと引き結んでいた。筆で一筋引いたような細い目の周りの筋肉は固く強張って白い肌を内側から波打たせ、黒い陰影を形作っていた。

 フェルミはどうしているのか? 和久田に聞かれたところで、どうしようもない。彼だってあの青いパルタイの動向について何も知らないのだ。少なくとも今朝起きてからこっちは一度も彼女を見ていないことだけは確かだった。

「朝から見てない」

「そうですか」

 いや、そういえば思い出した、つい昨日、武藤にはこれ以上和久田やフェルミにかかわることのないよう言っておいたではないか。それを昨日の今日で彼女は……少し迷ったが、結局言わなかった。さながら神、人智を超越したものの如き武藤に対しては、彼女がどんな状態であれ、和久田はきっと絶対に強く出られないだろう。そのくらい、彼の武藤への信仰心は堅かった。奇妙なことだが、その崇拝の念だけは本物だった。昨日は例外中の例外だ。背後にフェルミがいることがわかっていればこそ、何が何でも武藤を退けねばならないという思いで相対し、それゆえの姿勢でもあった。

「武藤はさ」

「はい」

「あの、フリオロフも、殺すつもりなのか」

 武藤はしばらくの間、無言で、じっと机の上の表紙を見つめているようだった。

「ゆくゆくは」

「勝てるのか」

 沈黙。

「わかりません」

「じゃあ……いや」

 何が、パルタイが人を殺すから、だ。武藤陽子を構成する要素の内で、和久田が唯一気に食わない、諸手を挙げて同意するのが難しい事柄は、そこだった。自分の両親が瞬時に潰し殺されたことを引き合いに出すつもりはないが、人間が外的要因によって死ぬのを止めることなんて、徹底することができるわけがないではないか。

「おれは知り合いというか、クラスメイトだからまだわかる。知り合い度合いが高い。でも他のパルタイを殺そうとしなくたって、別に構わないんじゃないのか。フリオロフの鋏はサイズはともかく子供用だったけど、それでももし目に入ったりしたら、失明待ったなしだ」フリオロフの鋏の刃先は丸く、刃はひどく幅広だった。

「ビオスを殺すなら殺すでパルタイとまで敵対しなくたっていいんじゃないか、な」

「私にはそれがどうしても許せないことなんですよ。それに、もし多少体が傷ついたところで、別にどうだって構いませんから」

 ――何がどうでもいいだ!

 流石にこらえきれずに和久田は傲然と椅子から立ち上がった。和久田は武藤が何者かに傷つけられることが我慢ならなかった。ふざけるな、そんなことが一度でもあってたまるか。武藤陽子が誰かに傷つけられることなんて、あっていいはずがない。

 左隣からした音に武藤は目を見開いた。突然立ち上がった和久田に少し驚いたようだった。どうして驚いたような顔をしているんだ……和久田は奥歯を砕かんばかりに嚙み締めた。当たり前のことだ。当たり前のことじゃあないか。お前のその五体がどれだけ美しいと思っているんだ。

 だがそれらの言葉を発声することは彼にはきわめて難しいことだった。立ち上がって、黙ったまま、彼は今度は下唇を噛んで視線を下におろす形で武藤から目を逸らした。

 私は、と武藤が言った。

「私は、超常に誰かが殺されそうになっているのにそれを黙って見ているなんて、できないんですよ。もちろんパルタイと誰が契約を結ぶかなんて滅多にわかりません。直接本人にあたった和久田さんは確かに例外的です。でも私はできることなら、パルタイを殺すことでどうにかなるなら、だれ一人死なないようにできたらと思うんです。たった一人だとしても。いえ、たった一人だなんて、そんなに特別なことじゃないんですけどね。昔からずっと一人で……」

 それに、と武藤は付け足すように言った。

「いいんです、私なんて」

 和久田は閉口した。

 いいんです。死んだっていいんです。私なんて。

 声は二人だけに聞こえる程度のもので、半径二三メートルほどの反響を残して溶けて消えた。教室の外、廊下側を見ると、同級の一人が身を隠すようにしながらこちらを窺っているのが見えた。時計は八時を回らんとするところで、人が来ても十分おかしくない時刻である。そして教室の外にいる彼が二人の関係について未だに誤解しているのは火を見るより明らかだった。そのことが和久田の心をまたたく間に掻き曇らせた。

 彼は一般論を言おうかと思った。体は大事にした方がいいぞ。しかしどうだろう、武藤はその程度のこと、即ち自分の身を少しでも丁重に扱おうとするというそのこと自体でさえも、忌避しているのではなかろうか? 結局和久田が口を動かし言葉にできたのは、そうか、という一言だけだった。

 そして和久田はそのまま足を踏み出して、つとめて武藤を見ないようにしながら教室の出入り口へと進んでいった。こちらを窺っていた男子生徒は和久田が近付いているのに未だに扉の陰でこそこそするような動きを続けている。

 その生徒は井坂であった。昨日だかは卓球部の見学に行くとか言っていたようだが……記憶が全体的にぼんやりとして、超常以外の事柄については薄い透明な膜越しに見聞きしているような心地がしていたため、彼の動きについても和久田はよく覚えていなかった……苦笑いか、にやついているのか、その中間のような顔をして、和久田が近付いてくるのを待っているようだった。

 井坂の顔を見て和久田は、ぼんやりと、「ああ今こいつに何を言ったところで信じないんだろうな」と思った。それは彼が数年来抱えている無力の感とはまた違った場所から来る確信だった。

 昨日の武藤と同じなのだ。ある事象に対して結論を下すためのドグマが、既に彼の中で固まってしまっている。それを変えることは容易ではない。まして当事者である和久田ならなおさらだ。

 だから和久田は井坂と目を合わせたきり、何も言わずにすぐ脇を通って教室を出て行った。

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