十七

 和久田は自らが瀬川徹だった時期のことについてはほとんど覚えていない。それは自らの両親についてもあてはまることで、彼にとって母親といえば腹を痛めて瀬川徹、今の和久田徹を産んだ実の母親ではなく、もう十年近く一つ屋根の下で暮らしている叔母にあたる人物だった。

「母親?」

 だから彼はフェルミの口から「母親」という言葉が出たとき、少したじろいだ。母親になりたい、だって? 何を言っているんだこいつは。だったらおれほど不適格な人間はいないじゃないか。

 彼にはジャッジができない。フェルミが母親になろうとしたところで、本当の母親を知らない和久田には、フェルミが目指そうとするものと実際の母親というものの間の差異の有無を見分けることができない。あるいは和久田は、確固たる母親というものを知らないからこそ、大多数の人間よりも強く動揺したかもしれなかった。

 そもそもパルタイに生殖能はあるのか、あるとしてもフェルミの肉体はそれが十分に発達しているのか、もしそうだとしてもその体で妊娠出産は危険すぎるのではないか……疑問が脇道に逸れていってしまう。

「それはやっぱり、自分が子を産みたい、ってことなのか、フェルミ」

「そう言ってるでしょう」

「養子縁組とか、あるだろう。あれはだめか」

 それにあんな小さい体で妊娠なんてできるのか。と思ったが、言いはしなかった。言わなくてよかったと思った。答えるフェルミの顔にある憂いの色は、決して嘘を交えた類のものではなかったのだ。

「駄目です。養子なんてお話になりません。母親になりたいというより、自己複製の欲求なのかもしれませんね。胎内に子を宿すというのは、哺乳類における自己複製のもっとも原始的な形態でしょう? 爬虫類と哺乳類を峻別する哺乳類の『何であるか』性=本質というのは、そこではありませんか。でもきっと、パルタイは生物のように殖えることを想定していない種なんでしょうね」

 その顔はひどく悲しそうで、和久田の心の内に残っていた彼女への怒りや不信はたちまちするりと消えていった。こんなにも悲しそうな人の顔を、和久田は今まで一度も見たことがないような気がした。

「私もわかりませんよ、どうして自分が母親というものに対して執着しているのか。でも、事実私は母親というものに執着し、そうなりたい、そうありたいと強く願っているんです。あるいは何らかの起点のようなものかもしれません。自らと同じものを有した何らかの家族、自己の複製を、願わくば私が母親である形で、得たかったんです。恐らく私が最初に生まれたパルタイだからなんでしょうね。そしてそのための、私の因子を持った別の個体を作るための試作として、鎧型のザインがある」

 言ったでしょう和久田さん。あなたは殺さない、もしかするとあなたの願いは停滞するパルタイの事業に展望を開く作用があるかもしれないからと。

 停滞しているパルタイの事業という言葉が意味するのは、決してパルタイという集団全体のことではなかったのだ。

 フェルミは和久田の前に出るとその手を取り両手で包むように握り込んだ。

「私は私の一部を有するザインを、私の種を人間であるあなたに埋め込む。植え付けられた種は芽を出し、葉を広げ、茎をのばし、高く伸びて、やがて無数の枝葉と太い幹を持った木になる」

 手のひらの全体が円を描きながら撫で、人差し指の先が和久田の手の甲を滑る。

「パルタイに生物的生殖はできない、しかしディングを貸与できるのと同様に、パルタイの力と存在の一部を人間に埋め込むことならば十分可能です。人間とは、逆といえば逆ですけど」

 優しく和久田の手を撫ぜるフェルミの手はやわらかくあたたかかった。武藤の、周囲とは完全に断絶した彫像のような手とは異なり、触れたところから次第に溶けて混ざりあっていくのではないかと思わせる、そんな手をしていた。

 長躯のパルタイは慈愛を込めた目で和久田を見た。その自我がほんの三か月前に生まれた赤子同然のものとは思えない視だった。本当のことをいうと、どきりとしたのだ。矢で心臓を射貫かれたような、痛みのない、鼓動を速くするものが瞳と瞳を通じて和久田に流れ込んだ。にこやかにほほえむフェルミを前にして、和久田はどうすることもできず、「おれは」と、気付かないうちに引き結んでいた口が、またひとりでに開いた。

「おれは、母親がどうとか、よくわからん。フェルミが知ってるのは実はおれの叔母にあたる人で、両親はもう十年も前に事故で死んでるんだ。今までおれを育ててくれた二人や哲也も、そりゃあ悪くは思ってないけど」哲也というのは彼の義兄の名前だった。

「あの三人に感じる、親愛の情、みたいなものが、実際普通の家族に対するものと同じなのかどうか、おれにはわからない」

 和久田の母だと思っていた人物が実はそうでなかったこと、彼の両親は既に鬼籍に入っていることを打ち明けると、フェルミはぎょっと目を見開いたが、視線を右に向け、ぐるりと回し、また前を見ると、にこりと笑顔を作った。

「それでも構いません。いえ、むしろ好都合かもしれませんよ?」

 共同作業ですよ、と悪戯じみた口調でフェルミが呟いた。

「和久田さんの願い事っていうのは、何なんです?」

「わかるんじゃないのか」

「本人がどう思ってるのかっていうのも重要ですから」

「鎧っていうのは、まさにその通りだよ。一番最初の願いについてなら、どんぴしゃりだ。哲也に見せてもらった特撮番組の……いや、固有名詞でもわかるか。だったらそうしよう。ずっとクウガに憧れてて、今でもそうかもしれない。でも途中で色々あって、クウガにはなれないなと思った。悟ったのかな、わからん。でもあこがれの対象というなら他にもあって、その天道とか、あるいは西門なんかも、おれには到底できないようなことが当たり前みたいにできちゃってさ。でもさ、やっぱりできないんだよな、おれは。多分、英雄というか、そういう運命の下に生まれる人っていうのがいて、おれはそうじゃなかったんだ。もしかすると両親と一緒に死ぬはずだったのが、何かの間違いで今まで生き続けているのかもしれない……時々そう思う」

 結局和久田は彼女を追及しきれぬままに201号室を後にすることになった。彼女を憎みきれないほどに親愛の情を抱いている自己を改めて自覚して、和久田は隔靴掻痒の思いだった。

 結局自分には何もできないんだ。いや、何もできないならいっそ好都合かもしれない、武藤を殺すこともきっと失敗するのだろう。そうだ、それでいいんだ。フェルミも武藤も安全だ、双方好きにすることができるし、フェルミに和久田の命を奪う気がないのなら、武藤がフェルミに敵対する必要もないのだから。

 布団にもぐってもフェルミの手の感覚は消えなかった。独特の柔らかさがいつか強く和久田の手を握った武藤の白い手を想起させて、そこから彼女の白くしなやかな腕、白い丘様に膨らんだ胸、腹、腿のイミッジが湧いてくるまでそう時間はかからなかった。その彫像のような体を嬉々として犯し、縊り殺す怪物の姿も。怪物はあの鎖につながれた男の姿をしていて、淀んだ黒い水に濡れた髪は垂れ下がり張り付いて、和久田はその姿を見るのがひどく不快だった。

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