十六

 ペンキが剥げて錆びついた階段を上り、201号室の前に立っても、和久田はインターホンを押すか戸を叩くか決めかねていた。あの時も、そして今も、ドアの背後で息を潜めているだろうフェルミを思い浮かべた。そうだ、武藤が201号室の前まで階段を駆け上がり、和久田が間に入り、パルタイ・フリオロフと交戦し、また階段を下りていくまで、パルタイ・フェルミは人間フェルミ瑠美の姿を保ったまま扉の向こうで息を潜めて様子を窺っていたのだ。和久田には直感でそれがわかった。そして今も。

 和久田はズボンのポケットから合鍵を取り出して、途中で直角に曲がったかまぼこ状のドアノブの上にある鍵穴に差した。

 右に回しても左に回しても手応えがない。握り込み、手首をひねると、ドアノブは抵抗なく動いた。

 開錠されている。

 和久田はドアノブを握る手を右に変え、手前に引いた。戸板の右端に備え付けられたノブを円周として、ゆっくりとドアを開いていく。アパートの正面にある街灯が発する無機的な白い光が夜の闇の黒さを薄めて、影がドアと部屋の間の床を藍色に塗りつぶした。奥に続く部屋は光がなく、屋外にあたるアパートの床面と屋内とは別の世界にあるかのようだった。和久田が201号室のドアを九十度開いた後でもそれは変わらなかった。彼の背後からさす街灯の白い光は、黒々とした201号室内部を照らすことなく夜の空気に溶けていき、和久田の目が暗闇に慣れるまで彼は沓脱より奥の様子を何一つ把握することができなかった。

 沓脱には高校指定のローファーとは別にフェルミが私服姿のときに履いている三足の靴があり、合わせて四足の小さな靴はどれもきれいにつま先と踵とをそろえて並べられていた。一糸乱れずという様子で並ぶ靴が、まるで標本のように見えたのだ。およそ人間が実現できる正確さではなかった。おそらくは両親と娘の三人住まいだろう武藤家の玄関も小奇麗なものだったが。

 空間はひたすらに黒く、奥深い洞窟の入口か、ぽっかりという具合に口を開けた怪物のようだった。しかし目が慣れると玄関からまっすぐ居間に続く通路の中途には左に浴室、右にシンクとガスの設備があること、通路の奥の居間には右側からきわめて弱い光が差し込んでいることがわかった。

 靴を脱いで右足を踏み出すと思っていたより大きく床板が鳴った。体重をかける度軋む床を一歩一歩進む。キッチン回りには一度として使われた形跡がなく、傍に冷蔵庫も置かれていないようだった。空気が一段と冷たい気がして身震いすると、また床板が軋んだ……。

 居間の右側には青地に白い水玉模様のカーテンが壁にわたされた突っ張り棒に金具でかけられており、今は奥側の端に寄せられていた。枕が転がり、ベッドを兼ねているらしいソファと、枕元の小さな本棚があるばかりだった。部屋の左側、ソファから大分離れた位置にあるテーブルには、いちおうの来客を想定してか、部屋の入口から見て手前に二つ、奥に一つ、合計三つの背もたれとひじ掛けのついた椅子が置かれていたが、その中央にはかつて和久田の家から持ち出した英英辞書・独独辞書がでんと置かれており、まっとうな目的で使われていないのは明白だった。テーブルも椅子も木製で三つの椅子にはデザインの統一性もなく、ひどく古びていた。おそらくのみ市などで使い古された品を見つくろってきたのだろう。机の横には透明なガラスのコップや陶磁器の皿を収めた二メートルほどの棚があった。

 人の生活の匂いというものが感じられなかった。当然だ、この部屋の住人は、その実人間ではないのだから。そしてその人ならざる住人フェルミは、奥に置かれた大きなノルド風の古い椅子に、左肘を背もたれの天辺にかけ、長い脚を膝のところで組んで座っていた。鎖とレースをふんだんにあしらった革地のゴシック・パンクの服飾やあの鮮やかで毒々しく絢爛な青い色はなりをひそめて、薄い上着を羽織っていた。照明一つ点けない部屋の中でも和久田に視線をやっているとわかる色素の薄い瞳は光っているようで、蛍の光か、さもなくば猫を思わせた。

「理不尽ですよね、自分から秘密をばらしておいて『今言ったことは秘密にしろ』だなんて」

 前触れなくそう言ったので和久田は少し戸惑った。

「武藤の話か」

「ええ。結局ディング、ザイン、ケルペルのことについて、武藤さんは何一つ知らないんでしょう? 滑稽じゃないですか。ビオスを探す過程でとはいえパルタイを殺そうとしているのに、パルタイについての情報を他人から得ようとは毫も思っていない。矛盾というか、非効率の極みだ」

「そうだな」

 そうだな、だと? 何かもっというべきことがあるのではないか。しかしそれは何だろう。鎧型のザインとは何だ、現状を打破するというのはおれを素体に超人を作ろうということなのか、怪物をおれの頭に埋め込んだのはお前なのか、それから武藤にかけられた呪いは超常に対しては十全にはたらかないのではないか、お前の願いというのは何か。

 自分が死のうと知ったこっちゃないというのが和久田の結論だった。瀬川徹は両親と共に死んだ、あの時自分が生き残ったのは本当に偶然で、トラックが軽自動車の前を潰すか後ろを潰すかで両親と自分とどちらが死ぬかが分かれたにすぎないのだ。もしもフェルミに《存在への意志》を持っていかれて、その結果として和久田徹の体が死んだとしても、それが何になるだろう? 多少は惜しまれもするだろうし、叔母夫婦も義兄も、西門をはじめとした知己も悲しむだろうが、時間が経てば何もなかったかのように、何もかも元に戻る。瀬川徹が和久田徹になり今まで生きてきたのと同じように。

「個人主義的というか、他人の手を煩わせたくない人間なんじゃないか」

「それが自分の親友の仇の行方を知る手掛かりになるとしても?」

「あるいはそういう個人的なことだからこそ自分一人でやりたいとか」

 もしかすると、武藤も同じなのかもしれなかった。瀬川徹は死に和久田徹になったが、解釈によっては武藤陽子もまた一度死を経験しているのだ。彼女の髪が黒く変わり、両の目が太陽の光にあふれる世界に適応したときに、白い髪と赤い目の武藤陽子は永久にこの世からいなくなった。そして彼女がビオスと契約したときから、あるいは、既に彼女は自分を死んだものとして生きているのかもしれない。既に死んでいるから誰とも交渉を持とうとしないし、他人を煩わせることも好かず、自分の体を無下に扱うことさえできてしまう。

「ずいぶんとまあ無謀ですね。無謀というか、なめられたものだ、というか」

「フェルミ」

「はい?」

「知ってると思うけど、今日フリオロフに会ったよ。この部屋の目の前で」

「ええ、知ってますよ。ケルペル《不定形》でアリスの爪を封じて、鋏で戦意を折る。うまく呪いを利用しましたね、敵ながら天晴という感じですよ本当」

「彼女も……フリオロフも……鎧型のザインがどうとか言ってたな」

 和久田を射抜くように向けられていた視線が、少し逸れた。

「ニールス、彼が言ってたことも覚えてるぞ。なんでも超人に向けた計画の先駆けだっけか、勝手におれを実験台にする前提で進んでるらしいじゃないか」

「実験台じゃなくて被検体です」

「なんでも、お前の願いを叶えるのに必要だとか、なんとか」

 沈黙。

 あのフェルミが一瞬の内に押し黙ったということが、なによりも雄弁にあらゆることを物語っていた。

 色素の薄い瞳が濃い青色を呈して、重層的な極彩色のベールが表面にかかるように瞳が色を変えていくのがわかった。フリオロフが見せたのと同じ色の瞳だった。そうしてフェルミはうっすらと笑った。

「見えますからね、パルタイは。人間が何を願っているのか。ゆえにこそ私は鎧型のザインの被検体としてあなたを選んだんです。確かにあなたは最初はクウガを願っていた。どれだけ諦めようとも未練がましく、あの英雄・五代雄介と同時に、黄金色の目をした御友人にも憧れ続けていた。だからこそ鎧型のザインを作ろうとしたんですよ。しかし、ある時を境にそれが変わった」

「おれはもし鎧型のザインを貰ったりしたところでもう二度と前みたいなことはしないぞ。おれが正義活動をやめにしたのは自分の力不足じゃなくて、おれには最善だと思った判断でさえ最善じゃない、おれには絶対に最善の判断なんてできないってわかったからなんだからな。いや、大事なのはそんなことじゃない……」

 今こそ言わなければならなかった、そんな気がした。

「フェルミの願いっていうのは、何だ?」

 いつしか、フェルミの瞳から極彩色のベールが消えて、原色の青で染められた目が凝っと和久田を見た。色だけが人ならざるものへと変わったフェルミの目を見て、和久田はこのパルタイの、小さな童女としての姿を思い出した。彼女は音もなくまっすぐ立ち上がった。

「パルタイは子を為すことができません」

 そう言ったフェルミに、和久田は眉間に少ししわを寄せたように思う。子を為す? 話題があまりにも唐突に感じて、不意を突かれた。

「パルタイ同士で、あるいは雌型のパルタイと人間とで何度か試しましたが、結局どれもうまくいきませんでした。誕生して三ヶ月にも満たない種族ですから、お腹が大きくなるにしてもこれからではあるはずですけれど、わかるんです、毎回毎回、失敗したんだって」

 また胡乱な話が始まったと身構えていた和久田だったが、フェルミのいつものご機嫌な雄弁はなりをひそめていた。静かに語るその顔は本当に本当に悲しそうで、彼は今や何も言えなかった。

「たしかワクタさんのお友達が見つけたっていう、一番最初に河川敷でホームレスがたくさん死んでた奴があるでしょう。あれ、私がやったんですよ。意識を得た直後で不安定だった私は手っ取り早い目標を探して似たようなことを二三回やってたんですが、一発大きく出ようとしたんでしょうね、河川敷に住んでるおじさま方のお家にお酒も差し入れしながらあがりこんで下を脱がせて、十五個集まりましたから都合十五人、それが一回か二回か三回かわかりませんが、とにかく満足させて、その隙に全員の《存在への意志》を抜き取りました。人間案外簡単に軽くとはいえ満たされるもので、パルタイが《意志》を引き出すのにはそれほど大きな満足も必要ではないこともそれでわかりました。基本は一人ずつ、たまにその場に居合わせた別の家の人なんかも相手にして、そこはちょっと大変でしたけど。その後残った体を適当に並べ替えたりうつぶせにしたりしなかったりして。引きずった跡のつかないようにまとめて持ち上げて飛んで一か所に集めました。残ったお酒の缶やら瓶も適当に散らかして体裁を整えたり。その時のことはもうそれほど記憶に残っていません。まだまだ不安定な時期のことでしたからだと思います。本当にはっきり覚えているのは一つだけ、それまでと同じことです。ああ今回も駄目だった、また失敗だ、この腹の中には命の生まれていることはない……年齢や栄養不足もあったでしょう、それでも少なくとも十回分はあったはずなんです。あるはずでしょう? いくらなんでも。でも駄目だったんですよね。何度やっても私は命をこの体の中に手に入れることができなかった。パルタイとも人間ともできないというなら、一体どうしたところで、できようがないじゃありませんか」

 と、そこでフェルミは笑顔になって言った。立ち止まった。その笑顔を、怖い、と思った。

「ワクタさんこのふた月、何回オナニーしました? 何回射精しました? 私思うんですよ、その分の精液全部私にくれていたらどれだけいいだろうって。もしかしたら、そうもしかしたらがありうるかもしれない。単に試行回数が不足していただけだったかもしれない。きっとそんなことはないだろうってことはわかります。だけど夢の中といえども、すぐに縊り殺してしまう命の中に射精するくらいなら、この私の中にその分を放ってほしかった。針の穴に糸を通すような……いや、それは精密さを言う慣用句だから……針の先ほどであっても望みがあるなら、そこに使ってほしかったのに。それに多分、ムトウさんを想いながらしたんでしょうけど、ワクタさん、あなただって、武藤陽子があなたの想像するような人間じゃないことくらいわかってるんじゃないですか? あれは神でも何でもない、生贄にするにも病弱な、ちょっと陰のあるところが胸を病んだ女性の姿に重なるだけのただの人間です。そしてそれが外ならぬ価値の転倒であるということもまた……」フェルミはそこで口を閉じ目を軽く伏せた。「いえ、このくらいにしておきますけど」

 それからフェルミはまたしても口を鎖して、少年の背にはりつくような位置に詰め、やや間をあけて今度は目を閉じた。やがてフェルミは「私はね」と念押しのように一言声を発して、言った。

「私はね、母親になりたいんですよ」

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