二十一

 和久田が去った後、武藤は大方ボタンの取れてしまったワイシャツを隠すようにブレザーを羽織り前をおさえると、階段を下り、一番近いトイレの鏡で首に鬱血がないか確認した。予想通り鬱血はなかった。

 それから、それぞれの校舎の間に渡された渡り廊下を通って教室までたどり着いた。午後一番の授業は体育、種目はソフトボールで、時節柄もありジャージが必要だった。そして教室を飛び出した武藤の手元には上下どちらのジャージもなかった。彼女は自分は面の皮が厚い方だと自負していたが、少しばかり気恥ずかしかった。

 着替えを済ませて校庭に出る。左手には備品の合成皮革のグローブをはめ、右手はだぼついた袖に指の先まで収める。数年来の癖だった。意識的にまた無意識に光、あるいは砂を避ける。本鈴が鳴り、整列、点呼の後ウォーミングアップに入る。視線だけで見回しても、やはり和久田の姿はなかった。

 三つの校舎を隔てたはるか先、幹線道路沿いの正門の辺りに二つの《超常》の気配を感じたのは、その時のことだった。

 ブゥゥゥゥ―――――――――――ン、と低く響くのは、これまで武藤が経験したどの《超常》とも違う、しかしながらやはり彼らに独特の気配。気配、というべきなのだろうか? より適切な語彙があるような気がしたが、そのような語彙を武藤は持たなかった。低く振動する器械が小刻みに肌を叩くような新手のパルタイの気配を感じ取って身構えようとするより早く、敷地中を巻き込む規模で劇的な変化が起こった。

 まず、視界いっぱいに超常の気配が充満し、瞬く間に周囲が黒い色に染まった。その黒は皆超常の黒で、所々には鮮やかな橙色の甲骨文字以下様々な書体の漢字とラテン文字、ギリシア文字、ヘブライ文字、アラビア文字、より古い時代のものと思われる簡素な線でできた文字や似通った記号の密集した文字、より具象的な絵文字が刻まれている。校舎の窓ガラスのある所からも同様の気配を感じた。どうやら目隠しのような役割を。その場にいた武藤以外の全員が多かれ少なかれ動揺する中、武藤もしきりに四方を見回していたが、頭はいたって冷静だった。

 橙色……即ちフェルミでもニールスでもフリオロフでもなかった。何を狙っているかはわからないが、恐らくはかつてないほど大規模な力の行使を行ったパルタイがいる。そしてもう一人いたパルタイが徐々に三つの校舎を通って運動場に近付いてきているのがわかった。

 この時生徒たちはトラックを回った後各々運動場全体に散らばって準備運動をしており、武藤は南の端の体育倉庫に近い場所から後者の方を見ていたが、橙色のパルタイの気配が空間全体に満ちていたのと、もう一人の肌に覚えのあるパルタイの気配に集中していたために、ちょうどトラックの中央にいた体育教師のすぐ隣に現れたもう一つの文字に気付くのが遅れた。

 楷書で、「門」。

 走ってきていたはずの気配が消え、その文字が浮かぶ空間が観音開きの戸棚のように左右に開き、色素の薄いそばかすの浮いた肌と灰色の瞳を持つ長身痩躯の青年が現れた。

 突然現れたその青年は、運動場に向かっていた気配が消えていることからニールスであることは明白なはずなのだが、しかしそこにいる青年からは一切《超常》の気配が感じられなかった。普段フェルミが人間に化けているように人間としての姿をとっているのだろうと気付くまでには多少の時間がかかった。もう一つの橙色の気配の中心は第一校舎の屋上に移動していた。今のような瞬間移動を使ったのだろう。

 ともあれこの侵入者は、外形はただの西欧人でしかない。ちょうど隣にいたバレーボール部顧問でもある四十過ぎの体育教師は彼の肩を軽く叩き、ちょっとお兄さん勝手に入ってきちゃああかんでしょう、とややふざけた調子で言う。生徒たちの視線も二人に集まる。

 青年はその声にただにっこりと人のよさそうな笑みを浮かべるだけで、一言も返そうとしない。代わりに体育教師に背を向けて一二歩歩き、またそこで止まると、肩越しにあなどるようなにやついた笑いを教師に向けた。

 青年の顔が、あえてグロテスクな印象を与えるように緻密に編集されたCGのように、妙に角張った部分を持って流動的に変形し、急激に細まったその超常の黒い色をした先端が教師の口の中に入っていくまでに、一秒の二十分の一とかからなかった。

 青年の上半身が一気に流動し、宝石のような紫色の輝きを伴い黒変し、周囲に見せつけるように激しい動きをつけて体育教師の口から体内へ入っていく。腰から下はまだ人間の形を保っていた。うわ、だの、きゃあ、だの、そこかしこで声が上がる。

 食道に入ったのか気道に入ったのか外からではわからないが、侵入していくパルタイ・ニールスに大の大人が必死に流体を掴もうとし、後ろに倒れ脚をばたつかせながら転げまわる。そこかしこから悲鳴が上がった。抵抗むなしく青年の全身が教師の体内に収まり十秒もすると……その時間は人によって長くも短くも感じられた……その動きは突然止まり、太い腕の先で固く握り込まれた拳が一発彼自身の鳩尾めがけて落ち、また少しの間動かなくなったが、やがてゆっくりと、あたかも体の動作を確認するように、立ち上がった。

「ふむ」

 その声それ自体はあくまでいつもと変わらぬ中年の体育教師のものだった。しかしその話し方は端々から普段の彼との違いを匂わせていたし、両の瞳は紫色に輝き、勘のいい生徒であるならあのパルタイのみならず《超常》に共通のあの気配をも感じることができるはずだった。教師の中に入ったパルタイはぐるりと運動場に出ている生徒たちを見回すと、あるところで視線を止めた。その生徒も、教師に視線を合わせ、武藤はその男子がわずかに眉をひそめたように見えた。

「矢張、背い高く歳若きをのこぞあらまほしきものであります」

 次の瞬間教師の口から黒い影が飛び出し、視線の先にいた男子生徒に乗り移った。

 武藤は息を呑んだ。あれは、そう、昨日にも会い、ついさっきも顔を合わせたばかりの西門光生だったのだ。

 ニールスは西門にも同じように侵入したが、今度は続きがあった。黒の流体と紫の流体が束になって彼の体の外側にも巻き付いていく。その様子を見た周りにいた生徒たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、他の生徒もみな多かれ少なかれ距離を取った。超常の流体が少年の全身を覆うと、その時にはすでにその流体は人間の形をとっていた。

 その肉体は超常の闇の中に溶け込むような濃く暗い色をしていたが、一方でその黒は超常の黒ではなかった。細身でありながら筋肉質で、左右に「19」「2」の数字が刻印されたメタリックな紫色の光を放つブーメラン型の競泳水着を履き拳に黒いバンデージを巻いている以外何も纏っていない肉体は、黒水晶を思わせる深い黒色を呈していた。

 つまるところ、武藤の逆なのだ。メラニンを過剰に少ない量持つ個体があるならば、メラニンを過剰に多い量持つ個体があるというのも当然のことだった。

 パルタイ【2】寄生ニールスは、黒化個体(メラノイド)の目蓋を開けて綺羅と輝く瞳を曝し顕現した。



 人間に《何か》がとりつき、瞬く間にサバナの獣の如き四肢を持つブラックアフリカンへと変化した。何らかの方法で人為的に作られた黒い空間の中でなお黒いその姿は、背景と同化してもおかしくない状況でありながらその場の全員の目にくっきりと焼き付いた。

 それがパルタイだ。《超常》だ。人を殺し魂をかき集める人外なのだ。こんな派手なことをして何を企んでいるのだと武藤は内心怒りに震えていた。しかし何もできなかった。この場ではあの黒兎の力を展開することもできない。あれは人知れず使わなければいけない力だった。武藤は自らの命が終わるまで、誰とも没交渉なだけの普通の高校生としてふるまわねばならないのだ。それが《ビオス》と契約する際に武藤が呑んだ条件だった。

 歯噛みする武藤をあざわらうかのような変化が起こったのは、そのすぐ後のことだった。ニールスが片手をあげ、振り下ろすと、砲弾の発射のような爆音が響いた。指を鳴らした音だとは誰も思わなかった。そしてそれを合図に、無数の橙色の文字が展開した。

「Bindung」。

 運動場に散らばる生徒とまったく同じ数が展開された。そもそもそれら文字列は生徒の体に貼り付くように展開されていたのだ。橙色の文字列から黒い帯が出現し、体を縛り、目を覆い、口を塞いだ。武藤も手足を縛られ、地面に横倒しにされた上で、地面から湧き出た三本の帯に押さえつけるように巻き付かれた。

 あたかもこれから起こる出来事を見せず、声をあげさせず、それでいながらこの場に留まらせて、これから起こることを聞かせようとしているかのようだった。武藤にだけは、目隠しはされなかったようだが。

 紫色の目をしたパルタイは、いつの間にやらその手に数枚の紙きれを持っていた。うやうやしい手つきでそれらを広げ、滑稽なほどに背筋をぴんと伸ばし、声を発した。

『Sehr geehrte Damen und Herren、紳士淑女の皆さん、はじめまして、われわれはパルタイ、巷を騒がす願いを叶えるものども、超人を目指すものどもであります』

 その声は一人の人間が発しているとは思えないほど大きかった。武藤は最初は視線で、それからは首も回して、生徒たち全員が拘束され目隠しをされていることを確認した。

『そうです、われわれは超人、der Uebermenschを志向するもの。ツァラトゥストラに続くもの、そして今ここに、大いなる夜明けを宣言するもの。大いなる正午への第一歩、あまりに卑小にして虚無なるも、偉大にして無限なる一歩をここに宣言するもの。此処は大いなる夜明けの時間、Morgenschoen眩い美しき曙の刻限、このパルタイ・ニールス、手始めにこの場所でひとつ演武を御覧にいれましょう。Mit vorzueglicher Hochachtung, Auf Wiedersehen』

 器用に畳まれた紙は空気に溶けていくかのようにいつの間にかニールスの手の内から消え去っていた。すると武藤を縛っていた拘束が解け、ニールスが紫色の瞳を向ける。

『安心なさいませ、校舎その他建造物すべての窓はドミトリによって目隠しがなされてありますから、幾ら《力》を展開すれども何人たりともえ知り給はず。ではアリス殿、我がケルペルの真骨頂お見せしましょう。舞いませい、小さき女子おなご

 武藤は何も言わず指の数十倍長の爪を展開した。五歩の助走の後肉食動物のように鮮やかに跳躍したニールスは、尋常外の速度で武藤に迫りながら三度目の変化を遂げ、殺意の爪はその肌に触れた先から粉々に砕け散った。

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