二十二
周囲に起きた突然の変化に和久田は二つの気配のうち片方がニールスであることを察しながらも戸惑い、他方フェルミはいたって平然としていた。
「おいフェルミ、これは何だ、何が起こってる」
わざわざ問う必要はなかった。解は出ている。親フェルミ派のニールスとあともう一人が何らかの作戦行動を開始したのだ。立案計画したのは誰かなど、言うまでもない。
「前言ったようにパルタイは子を産めないので、数を増やすには自然発生に任せるよりほかありません。ところで生殖ができないパルタイがいかに同胞を殖やすのかというのと同じくらいにパルタイが血道をあげて取り組んでる課題があるんですがね、何だかわかりますか、和久田さん」
とフェルミは言った。
沈黙。
「あなたがもう考えてることですよ」
彼女は一昨日の夜のことを言っているのだとすぐわかった。人を殺せないパルタイが、それでも敵対する人間を殺し排除する方法。
「まさか、おまえ」
「いやいや、まさか生徒職員の無差別虐殺なんてしませんよ。パルタイは人間に認識されて初めて存在できるんですから、その場にいる人間を全員殺すなんてことしたら、自分らまで消えかねません」
フェルミはどこからともなくあのタブレット、Maschinechenを取り出した。姿も一瞬の内にブレザーの高校生から背徳的な色のあるゴスパンクの童女へと変わる。立体映像を起動させると、タブレットの上の空間に板状のディスプレイが浮かび上がり、そのディスプレイの画面上には一城高校の運動場が映し出されている。
『ドミトリ撮影の映像です』
異様な光景が広がっていた。黒く細長い繭のようなものがそこら中に点々と倒れており、よく見ればどれもが微妙に動いている。拘束を脱しようとしてもがいているのだとわかった。片方の端には肌色が見える。何らかの手段で目隠しをされ口を塞がれているが、呼吸はできているらしい。激しく動いているのは二人だけで、一人は白い髪の上に黒い兎の耳を載せて、全身を礼服で覆った輝くような白い肌。もう一人は肌髪共に色素が薄く痩せぎすで細い四肢を持ち、纏っているのは学校指定の運動着。そのどちらもが和久田にとっては見知った人物だったので、彼はひどく動揺した。
「武藤、西門?」
そして、西門の瞳は濃い紫色に輝いている。その様はあたかも眼球に紫水晶を埋め込まれたかのようだった。
「ニールスが操ってるのか」
確かにふたつあった気配の一つが運動場さして走っていき、途中で消えたのは和久田にもわかっていた。ドミトリ、そしてニールス。親フェルミ派の二人か。
その時西門の拳が武藤の腹を鋭く抉り、武藤は浮き上がった体を痙攣させながら蹲った。和久田は悲鳴ともつかない声を上げ、顔中の肌は熱くなり、血を被ったように赤くなった。
特に意識することなく、和久田は運動場へ向かおうと走りだした。しかし背後で超常の感覚が膨れ上がり、和久田は両腕を掴まれ、両脚を搦めとられて、なすすべなく宙に浮くよりほかなかった。フェルミがケルペルを起動させたのだ。背負った薄い直方体からは一対の青い光の翼が生え、童女の両腕両脚は光を反射しない滑らかな毛に覆われ禍々しく長大な形に変化していた。
『確かに彼女のバリアーはパルタイにはどうしようもありません。しかしあのバリアーは日常生活を送る上では問題ないように設計されている。人間が多少触れた時にそれらすべてを跳ね返すようではいけない。そして……これは推論ですが……皮膚を傷つけかねない点の圧力や線的な圧力は別として、あのバリアーは面的な圧力は透過する仕組みを持っている。そうでなければたとえば満員電車なんかに乗れなくなってしまいますからね。つまり圧迫は有効。そして人間の体であれば彼女に触れることができる。じわじわとボディーブローのようにダメージを蓄積させていき、最後にはその蓄積されたダメージによって、コロリと……そうなれば、もはやパルタイが殺したことにはなりますまい』
「フェルミ、手前、放せっ!」
和久田はディングを展開してもがくが、どうしようもない。フェルミは大きく深いため息をついて言った。
『そんなディング一つでどうやってパルタイのケルペルに対抗しようっていうんです?』
ディングはケルペルの一部に過ぎない。当然前者の力は後者に劣る。そもそも和久田のディングには直接的な攻撃力は何一つないのだ。どう転んでも今の和久田に勝ちの目はない。フェルミの言うとおりだった。和久田の持つ超常の力が元を辿ればフェルミのものであるという事実に思い至り、抵抗を諦め、項垂れた。頭の中では武藤に拳を向ける西門の体を操るパルタイの姿や、あるいは黒い水兵服姿のフリオロフに姿の見えない橙色のドミトリ、黒兎の姿を展開し殺意の爪を振う武藤や、その他種々あれこれのことが渦巻いた。
武藤……。
あの時和久田はなぜ武藤の首を絞める力を緩めたのか? 簡単なことだ、武藤が今わの際にその顔に笑みを浮かべたからに他ならない。早い話が、興ざめしたのだ。その反応が期待と違ったから、その顔に最後まで苦痛と抵抗とを見せなかったから、そこにただただ不満をもって力を緩めたにすぎないのだ。
同時に和久田は死を前にして笑みを浮かべた彼女に少しばかり恐怖を覚えたのも確かだった。それはあくまで和久田が殺すことを指向し殺されることなどみじんも考えない精神性をしているからに相違なかった。だからこそ武藤の何かと自己犠牲的な部分に違和感を持っていたのだろう。そして和久田はその笑顔から、今わの際に見せた笑顔から、その心の底に横たわる、彼にとってはなんともおぞましいものを知った。
沈黙。
「武藤はさ」
と言った。そうなると、次から言葉があふれてきた。
「一番望んでるのは、きっと、殺されて死ぬことなんだ。あいつは本当、本当は本当に、普通なんだよな。おれとは違う。普通だと思い込んでて、その実まるでまともじゃなかったおれとは全然だ、真逆と言っていい。あいつは生まれつき体に色素がないとか、とにかくそういう変異があるだけで、きっと読書が好きでちょっと偏屈なごくごく普通の女子なんだろうな。でも《超常》と関わったせいでそれが変わった。《ビオス》と出会わなければ、いや関谷さんと出会わなかったら、今だって肌も髪も白いだけでそれ以外は本当に普通な秀才として生きてたんだろうと思う。そうだ、変わったのは関谷さんに会ったところからだ。気の合う仲間ができた、それも十年以上生きてきて初めての仲間だ。その関谷さんが、武藤の髪を黒くするために、日の光の中の世界を見せるために、自分の命を売った。たとえそれが残り少ない望み薄の命だったとしても、関谷さんは武藤のために命を使ったんだ。それは武藤にとっては、関谷さんが自分のために死んだも同じだった……。怒りの矛先が向いたのはビオスだった。でも本当は違ったんだ。なあフェルミ、あいつは、武藤は、今朝おれの目の前で、死んだっていいんだって、パルタイに殺されたところで別に構わないんだって言ったんだぞ。武藤は自分自身に絶望している、自分の命なんてどうだっていい、なぜか? 武藤の中じゃ、武藤陽子は人殺しだからだ。自分が関谷さんと出会わなかったら彼は死ななかった。自分がアルビノとして生まれていなかったら彼は死ななかった。自分が生まれてきていなかったとしたら! 人殺しの武藤陽子が、最初から生まれてさえ来なかったなら! あいつは、笑ったんだ。おれに首を絞められて、今にも意識を失いそうで、自分が殺されそうになったまさにその時、武藤は一瞬だけ、本当に安らかな笑顔をして……おれが殺したいのはそんな武藤じゃないのに! そうだ、おれが殺したいのはあんな武藤じゃない。でも、たとえどんな風だったとしても、おれ以外の奴に武藤が傷つけられるのは我慢ならない」
「まるでダグバですね」
「ダグバ、ダグバか」
ン・ダグバ・ゼバ。頂点に立つ神聖なる虫種のダグバ。
「こんなもの、ダグバと比べられないくらい、ひどい」
和久田は笑みを浮かべていた。
そしてそこに至って、空中に縛り付けられたままの和久田は気付きを得、笑い声をあげた。
怪物が和久田徹であったのではない。和久田徹が怪物だったのだ。
少年は一方で己の無謬を信じていた。他方で武藤陽子を殺し食うことを望んでいた。今和久田はかつて無謬を信じた人格と地続きでありながら、ダグバに伍する或物である。その二つは最初から分かたれてなどいなかった。二つが別々の人格であるとみなしていた彼の認識こそが誤りだったのだ。
和久田は笑った。最初は力なくこぼれ落ちるように、次第に力強く、腹の底から吐き出すように。
なるほど、これが計画か。
「おまえ、最初からこうすることが狙いだったんだな」
特別な舞台を用意し、パルタイと武藤を戦わせ、その様を見せつけることで発破とし、和久田に契約を促す。フェルミは和久田に鎧型のザインを埋め込む。《超人》に至るための第二のルートが現れる。
少なくとも武藤について言うならフェルミらの一切の努力は無駄になることを和久田は知っていた。《呪い》は完璧だ。だが、フェルミは別の側面では成功を収めていた。和久田は既に今この状況が本当に我慢ならなくなっていたのだから。
和久田は悪徳をたたえた笑みを浮かべて言った。
「フェルミ、おまえ、やっぱり最初から気付いておれに近付いてたんだろ」
フェルミも拘束された彼の変化を見て、やはり悪徳にまみれた笑みを見せた。
『違いますよ。言ったでしょう、途中で変化したと。でも本当は変わってなんかいなかったのかもしれません。クウガもダグバも同じものだった、そうなったんでしょう? たしか、最後には』
「そうだな、体はまったく同じになった、同じ力を使えるようになった。でも心は違っていた。クウガは最後まで誰かの笑顔のために戦えた。おれには、そんなことはできない」
絶望に沈んでいた和久田の心は、もう絶望などしていなかった。
「おれはクウガにはなれない。おれの心は最初からダグバと同じだったんだからな。でも、それでもいいさ。おれはきっとboeseなんだろう、でもおれはこの心がschlechtだとは思わない。超人にだってなってやるさ。それがお前の目論見なんだろう。ザインをおれに埋め込んで、超人を作ることが」
『目論見、そうですね、目論見はそうです』
そう言うとフェルミは和久田を下ろし、自らも四肢を元の姿に戻して着地した。視線が低くなり、和久田は少しだけフェルミを見下ろす形になった。
『ただ私の願いは、言ったでしょう、母親になることだと。ザインを、私の力の一部を、あなたは孕むことになる。蒔かれた種は体内で根を張り、あなたは私の一部を受け継ぎ、いずれ《超人》へと変わる。パルタイと人間の間が現れ、あなたは私の息子になる』
「本当の母親のことなんてほとんど覚えてないおれだけど、それでもいいなら」
フェルミはにっこりと、喜びに満ちた笑顔を見せて、Maschinechenを操作する。浮かび上がった文字を見ると、親切にも英語contractに近い語を併記しているところに面白味を感じて、和久田は微笑んだ。
「der Vertrag (Kontrakt)」。
フェルミはまたタブレットを操作し空中に映写された青い文字を読み上げていく。
なるほど、おれは超人になるというわけだ。その過程でもしかするとすべてのパルタイを降すことになるのかもしれない。そしていずれ武藤を殺す。それまで、誰にも、何にも武藤は傷つけさせない。
おれは怪物だ、おれは深淵だ。パルタイごときに、負けるはずがない。
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