十三

 それは少年の記憶に焼き付いた炎だった。


 白んだ橙色の炎が教会の壁を、床を、長椅子を舐める。

 燃え盛る教会の中には三つの影があった。ひとつは人間に蝙蝠のエッセンスを掛け合わせたような姿をした、大雑把にいえばまさに怪人である。もう二つは人間で、一人は刑事。もう一人は冒険家にして戦士クウガの後継者の青年だった。

「こんな奴らのために、これ以上誰かの涙は見たくない! 皆に笑顔でいてほしいんです!」

 青年は蝙蝠の怪人を前に、組みあい、かろうじて突き飛ばすと、刑事を庇うようにして身構えた。青年が着る砂色の上着も革のズボンも、炎の色を映して薄い橙色に染まっている。

「だから見ててください、俺の、変身!」

 親指を伸ばした両手を腰の前にかざすと、円い霊石を抱えた流線型のベルトが展開する。彼は脳裏に浮かんだヴィジョンを頼りに、幻視の中の戦士がかつてした動きを再現していく。

 炎に囲まれて、青年の瞳にもまた炎が映っていた。襲い来る蝙蝠の怪人に拳を振るうと、その動きにしたがって鎧が展開されていく。霊石が赤くひかり輝き、最後には、青年は赫赫たる鎧を備えた黄金色の角を持つ戦士へと変貌した。橙色の炎を映す鎧の目は炎よりも鮮やかな赤色をして、赤い鎧の下、全身を覆う皮膜は炎の色を吸いつくさんばかりの深い黒に染まっていた。

 古い記憶だ。だが和久田は今でも、その英雄の最初の《変身》を覚えている。



《パルタイ》フリオロフは取り出した子供用鋏の二本の刃の間に武藤の中指の爪を挟んでいた。五本の指のたった一本、その先端を挟んでいるだけだが、たったそれだけで武藤は右手の動きを一切封じられてしまっているらしい。

 フリオロフは全身から、沸騰する水を思わせる、無数の泡の生成と消滅に似た異質の気配を発していたが、黒い水兵服という外見は頭の水平帽から靴のつま先まで何一つ変わっていなかった。襟の二本線もその下のリボンもすべて黒い水兵服を、何から何まで同じものを仕立てて、反対党派であるフェルミの根城までやってきたのである。和久田はそこに一種の悪趣味を感じた。

 武藤は長く伸ばした爪を一度収納し、手指の二倍程度にまで縮めて再展開。一歩大きく踏み出して、今度こそフリオロフの胴体を斜めに切り裂く軌道を描いて爪がくり出される。

 爪は武藤が思い描いたとおりの軌道で進み、右から左へ、胴の反対側まで到達した。そこにはほんの少しの抵抗もなかった。だがそこで起こった事態は、まったく予想だにしないものだった。

 爪は胴体のある位置を斜めに通過した。しかし殺意を籠めた必殺の爪がフリオロフの胴を引き裂く軌道を描いたとき、その軌道上にフリオロフの肉体は存在しなかった。

 すなわち、彼女の肉体が服ごと粘液状に溶けて、動いた。

 フェルミをバターのように切り刻んだ爪とはいえ、空を切るのとパルタイの肉を切るのとでは、後者にはわずかなりとも抵抗感がある。すっぽぬけたようになってバランスを崩した武藤の隙を見逃さず、フリオロフは自身の右にある武藤の右手首を、空いていた自らの左手でがっしりと掴み込んだ。

 立て続けに武藤は左の爪を心臓めがけて突き出したが、やはりパルタイの肉体が溶け、爪はかすりもせずにぽっかり穴の開いた胴体を突き抜けた。今度は鋏を懐にしまい空けた右手で武藤の左手首を包むように握り込むと、交差する両腕をゆっくり、しかし確実に強制的に開かせていく。

 爪の通る位置にあるパルタイの体はもれなく黒い粘液状に溶けて刃をよけていった。胸も、肩も、顔面も、部位の重要性は関係なかった。全て黒く染まり、崩れて、結果として爪に仕込まれた刃によってパルタイが傷つくことは一度としてなかった。

 肋骨から上にあたる部分は完全に宙に浮いている状態で、なおフリオロフは武藤に力で押し勝っているようだった。奇妙だ。彼女の腕は袖を通した水兵服を内側から押し上げるような筋肉量ではなく、柳のような背格好をしているというのに。今や武藤の両腕は交差を解消して、無防備な武藤の正中線がパルタイ・フリオロフの眼前に曝されている。フリオロフの方が武藤に比べ背が高かった。最後の抵抗とばかりに、爪を再び長く伸ばした形で展開した手指を拳を作るように折って、刃はパルタイの両肩めがけて落ちていったが、やはり爪の軌道を通る肩口、脇腹、腰と腿の外側とが溶けて、爪がむなしく空を切るだけに終わった。加えてパルタイはわずかの間手首から手を放し、次の瞬間には武藤の拳を包むように握り込んだので、彼女の爪は完全に封じられてしまった。

 フリオロフは死んだ魚のような生気のない毒々しい緑色の目で武藤を見下ろしていたが、水面を滑るあめんぼのようにその視線を和久田に移した。

 目が合う……厭な視線だった。背中に氷を突っ込まれる感覚がして身が震えた。緑色の瞳が玉虫色に輝いた。赤、青、黄、マゼンタ、シアン、紫、橙、緑、赤、シアン、黄、緑、青、紫、橙、青、マゼンタ、重層的な色の連なりが大きな丸い瞳の上で波打ち、脳の奥底まで見透かされるような気がして、和久田は視線を逸らそうと試みたが、ついに最後までそうすることはできなかった。

『成程。そういう願いか』

 濁ったノイズ交じりの声がそう言った。瞳はもはや色の層を失い、平板な緑色に戻っていた。――願い? 何を言っている……。

 フリオロフは武藤の手を放しくるりと背を向けた。二歩三歩と踏み出し、地上へ降りる階段の一歩目に足をかける。相当の力で拳を握り込まれていたらしく顔を歪めながら指を曲げ伸ばしていた武藤が、高校の制服姿に戻ってパルタイの背をさして突っ込んでいったのは、その時のことだった。

 ――武藤の爪とその刃は、依頼の内容から鑑みるに、本来身動きの取れない相手の息の根を確実に止めるために使われるものなのだろう、周囲にふりまかれる殺意のオンオフは武藤自身の意志でも不可能である。

 しかし爪は展開に際して長さを自由に選択でき、また手甲だけ展開させることもできる。最初から全身を展開するのではなく、まず近付いて、そして確実な間合いまで詰めたのち回避できない長さの爪を展開すれば、確実に必殺の一撃を見舞うことができる!

 だが今度は、今度こそ、武藤が《超常》パルタイの超常たる所以を身をもって知る番だった。

 瞬き一つしなかった。そのはずなのに、フリオロフが肩越しにちらりと武藤を見て、星の瞬き一つよりも短い時間が過ぎたのちには、武藤の両目を狙って開いた鋏の二つの刃がそれぞれつきつけられていた。

 甲高い金属音が響き、鋏を突き出すパルタイと前に出る武藤の動きが同時に止まった。フリオロフの手には、数十倍の大きさに膨れ上がった真っ黒な子供用の鋏があり、彼女はそれを片手で扱っていた。そして鋏を扱う手を先端に持つ腕は、遠めに見てもわかるほど寸詰まりに短くなって、ありうべからざる角度で曲がり、まっすぐ武藤の両目さして鋏を突き出していた。

 和久田には見えた。右の肩越しに武藤を一瞥したパルタイの右腕が溶け、粘液が肩口に収束し、瞬時に何倍にも膨張した鋏を携えた寸詰まりの腕が瞬く間に形成されていく有様が。

 正確にいうならば、和久田もその過程をすべて目にできたわけではない。その目に映った異様な光景の断片を、その結果から逆算して再構成しているだけである。そしてその早業以上に、彼はフリオロフの最早緑色を呈していない瞳に釘付けになった。

 武藤は前のめりに立っていたが、やがて枯れ枝が風に吹かれるようにその場にへたり込んだ。その目はやはりパルタイの顔に向けられているようだった。

 瞳の色は、黄金。

 その顔は忘れもしない、和久田の無二の親友だった、名も知らぬ黄金色の少年であった。

『刃物を振り回して危ないじゃないか。そう思うでしょ、徹』

 パルタイは閉じた鋏の刃を鞘に納めると、何も言わずに金属の階段を静かに音を立てて降りて行った。

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