十四

 武藤の涙が止まるのには、しばしの時間を要した。

 実際怖いだろう、目の前に鋏の先端を突き付けられるというのは……和久田は彼女の反応から、どうやら超常を追っているという言葉とは裏腹に、武藤は実際にパルタイをはじめとする彼らと交戦した経験はあまり、ほとんど、ないのだろうと知った。黒兎の姿と爪を手に入れたのが今年の一月で、そもそも彼女にはそんな力を使うつもりはなかったのだということを鑑みれば、当然といえばそうなのだが。

 涙を流すというのも本当にその言葉のままという感じで、武藤のありさまは到底「泣いている」とは言えないものだった。低い嗚咽が聞こえ、時折体をひきつるように震わせて、顔を覆った手の隙間から涙が光り、流れる……そういう状態であった。アパートの通路で泣かせているわけにもいかないので、和久田はひとまず彼女を連れて下に降りた。今武藤はブロック塀に突っ伏している。

 和久田の中に巣食う怪物はその様子に狂喜していたが、一方でフリオロフに嫉妬してもいた。よくもおれ以外のなにものかが武藤をこんなふうにしてくれたな、という怒りにも近い感情が渦巻いていた。

「さっきの話のことなんだけどさ」

 嗚咽が止まったのを見計らって和久田が言うと、幽霊のようになった武藤が力なく振り返った。白いまぶたが赤く腫れてひどく痛々しく、今度は和久田の中の武藤を崇拝する心がフリオロフに呪詛を放った。よくも彫刻のような武藤の顔をこんなふうにしてくれたな……。

「はい」

「おれが人を殺したいと思ってるってのは、本当だ。何だろう、暴力衝動、とかでもいうんだろうな。とにかく人を見るとむらむらと、ああ今こいつを適当な物陰に連れ込んでぶっ殺せたらなあって思うんだよ。女子相手なら乱暴をはたらくこともあるかもしれない。そういう、なんていうか、暴力的なこと、に対する欲求ってのが、日増しに高まってるんだよ。特に武藤なんて、美人だしさ。格好の獲物さ。はは……でも、それと同じくらい、おれは人殺しも強姦もしたくない。誰だってそうだろうけどさ。おれの好きな特撮番組に出てくる敵はさ、グロンギっていうんだけど、人を殺した数を競ってゲームをするっている奴らなんだよ。そいつらのゲームを見てて子供心に、ああこいつらみたいにはなりたくないなあって、身近な誰かが殺されるなんて嫌だなあって思ったんだ。おれは、誰かが人を殺そうとしてるのを止められるような人間じゃないかもしれないけど、積極的に人を殺すような人間にはなりたくないんだよ。だけど事実おれは今だって人を殺したいって思ってて、そこに武藤が一々付きまとってきて『何か願いがあるなら自分が協力する』なんて言われたらさ、武藤を殺したくなるに決まってるじゃないか」

 和久田は腫れぼったくなった武藤の目を覗き込むように見つめた。笑顔を作ろうとして、口角がひきつった。

「もしもフェルミが本当におれの魂、《存在への意志》だけを目当てにしているとしても、べつに構わない。そのときはそのときだ」

「そんなの、よくないに決まってるじゃないですか」

「おれはいいって言ってるだろ! わからないか……おれは武藤の事情なんかわからん、でも武藤お前だっておれが何をどう考えて今こうして喋ってるかわからないんじゃないか? そうだろう?」

 おしまいだ。おしまいなんだ。もうこれ以上は、和久田徹と武藤陽子の間に断絶をおかなければ、本当に和久田は人を殺してしまうかもしれない。

「人を殺したがる人間だなんて信じられないだろうけどな、武藤、それを言ったらパルタイや《超常》だってそうじゃないか。信じられなくっても現実にあるんだ。だったら、現実にあるものを信じるしかないだろ」

 黙っている武藤には覇気がなく、くたびれた布切れのようで、魂が抜け出たようだった。

「それに、そうだ。おれ一人の、お前とは特段気が知れてるでもないただの高校生一人の命じゃないか。パルタイやビオスはこれまでだって何十人と人を殺してて、武藤だって今おれをフェルミから守ろうとしているにしたって、パルタイと契約しようとしている全員をどうにかしようなんて思ってないだろうし、思ってもできないだろ。高校生としての生活もあるんだから。だからいいんだよ。おれなんかが死んだところで気に病まなくたっていい」

「ビオスとの……」武藤がかぼそい声で言った。「ビオスとの契約には、実際の契約内容とはまた別に、もう一つずつ条件を出し合う必要があるんです。彼は私に、願いが叶えられるまでの間しっかりと学生として生活するようにという条件を出してきたんです」

 そうでもなければ、今頃……俯く武藤の顔がくしゃっと歪んだ。

「武藤、もう」

「わかってます!」

 顔を上げると昂りのあまり肌は紅く染まって、目鼻の均整は各々身勝手な動きをする皮下の筋に引っ張られ失われていた。

「和久田さんとはこれ以上一切かかわりをもたない! フェルミだけは何が何でも見逃す! 和久田さんの、その、殺したがりについても黙っている! それでいいんでしょう!」

 私は、私は……小さな声で何かつぶやいているのが聞こえたが、聞きとれる大きさではなかった。

 武藤は最後まで唇をわななかせ、自転車をこいで和久田の家の前から去っていくときも、言葉にならないつぶやきをもらし続けていた。その背中は小さかった。

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