彼にとって第二の英雄であるその人物について、和久田は結局断片的な事柄しか知ることができなかった。小学校の学区は別だったこと、一方で本人曰く家自体は和久田のよく遊んでいた川沿いの公園から「歩いて帰れる距離にある」こと、両の瞳はきれいな黄金色をしていること。和久田の知らないことを多く知っていたこと。それから、天道という名を持っていること。姓名のどちらなのか、彼は最後まで明らかにしなかった。天道でいいよ、とだけ言っていた。多分、名だったんだろう。


 翌朝、和久田は家を七時に出て、二十分を過ぎた辺りで昇降口に到達した。フェルミはいない……あくまでも和久田一人でいる必要があると判断した。

 昨日の別れ際、和久田家の隣のアパートの前でフェルミが言っていたことを思い出す。

「どうやら彼女、パルタイやディングに反応するレーダーを持ってるみたいなんですよねえ。半径は二百メートルありませんけど、五十メートルは下らないくらいの奴が」

 翌朝、つい先ほどにも和久田は家の前で彼女に鉢合わせたが、ついて来ようとするフェルミを制止し、和久田は一人で登校した。もしも今フェルミと武藤が会ったら何が起こるか知れたものではない。自棄を起こした武藤が校舎内で昨日の続きを始めるかもしれないのだ。

 結局フェルミが折れて、居室であるアパートの一室に帰っていったが、その間際にこんな会話があった。

 ――腕とか生えてきてたけど、あれには結構、《意志》を消費するのか??

 ――いえ、一つだけです。ばらばらに切り刻まれたあの一撃でごっそり持っていかれました。こんなに一気に減ることなんてありませんから、肩の数字の切り替わりも処理落ちしてペースが落ちてたみたいですけど。オーバーキルってやつですよ。

 あの爪に貫かれたゼンダーも瞬時に壊れてしまった。少なくともパルタイやその周りの物品にとって極めて危険な武器を武藤が有しているらしいことは確かだった。翻って、その力は和久田にも牙を剥きかねないことにもまた注意する必要がある。パルタイを維持するものが人間の《存在への意志》であり、その《意志》を枯渇させうる力は、人間の中にある《意志》に効果を及ぼすとしても不自然ではない。

 七時半前の学校にはまばらに運動部員が活動していた。陸上部が校舎の周りを走っている。野球部は正門や敷地の掃除をしている。昇降口にたどり着いたとき、幸運にも、和久田以外には誰もいなかった。和久田は制服のポケットから二つ折りにされたメモを取り出す。

『昼休み、体育館裏に来てほしい 一年C組 和久田徹』

 武藤の下駄箱の前に立った和久田は、改めて周囲を確認した。誰も見ている者はいないか。何より武藤は来ていないだろうか。意を決して金属扉を開けると、足を覆うカンバス地を真っ白に保った小さな内履きが爪先を奥にして収められている。がらんどうの中に靴が一足置かれているだけなのに、その有様はまさに整然の見本のようだった。

 その上に折り畳まれたメモ用紙を乗せる。緊張で指を震わせながら、目につく場所、両方の履き口の間に、慎重に慎重に、メモを置く。

 和久田は大きく息を吐いた。終わってしまえばどうということはない作業だ。開け放っていた金属扉に手をかけるが、外から足音が聞こえてきた。慌てて力いっぱい扉を閉める。

 こんな朝早くに誰だろう。聞いた話では武藤は七時四十分を過ぎた辺りで登校してくるはずで、まだ十分以上の余裕はあるはずなのだが。しかしその「はず」は今日ばかりは当たらなかった。下駄箱を離れようと一二歩進みつつ視線を向けた先にいた影を捉えて、和久田の足はその場に釘付けになった。

 朝の昇降口は照明が点いているわけでもなく薄暗い。入り口に立っている背の低い影は外の日の光と内の薄暗さの対比で後光を背負っているかのように見えた。丹念に手入れされたローファーがつやつやと光を反射する。黒い髪はいっそう黒く、麺麭の白さの肌は暗がりでなお白さを留めてそこにあった。武藤もまた普段より早くに登校し何かアクションを起こそうとしていたのだ。

 武藤はまっすぐ和久田を見据えている。そんな風に真正面から彼女が和久田を見たのは、それが初めてのことだった。そして、迷うことなくまっすぐ和久田の方へ進んでくる。校舎の内側扱いになる、土足禁止の、一段高くなっている箇所の手前まで和久田を追いつめ、目と鼻の先ほどの距離まで近付いて、上目遣いに睨み付けるような目をして、武藤は囁くような声で問うた。

「今私の下駄箱の前で何をしていましたか」

 ひどく早口だ。武藤はわずかに顎を引き、なお和久田に詰め寄った。

「ちょっと、伝言を書いた紙を」

「内容は」

「昼休みに体育館裏に来てほしい」

「私も同じことを考えていました」

 武藤はポケットをまさぐり折り畳まれた紙を取り出したが、その手がぴたりと止まった。

「今日、私の家に来てください」

 その日フェルミは始業の時刻になっても登校せず、風邪で休むという連絡があったと担任から伝えられた。

 終業のチャイムが鳴る。さて、これからどうしたものだろう? ひとまず、と思い立ち上がると、右腕に巻きつくように触れるものがあった。鞄の持ち手を掴んでいた腕を強張らせるが、その影はするりと左腕を和久田の右に巻き付け、右手で彼の手指を撫でた。

「さ、行きましょう、徹さん」

 そう言う武藤の声を聞いて、和久田は自分の耳か頭がおかしくなったのではないかと思った。何を言っている? 一体どうして、こんなことをしているんだ? 彼女は自らの鞄を机の上に置きっぱなしにしていた。左右の手で和久田の右手を包むようにしている、これは何を意味しているのだろう? 箸とペンを持つ手の生殺与奪は自分が握っているとでも言いたいのか。武藤は明後日の方を見て、涼しい顔で左隣の席の男子生徒に絡みつくようにしている。衣服越しの生々しい熱を感じて和久田は赤面した。ああ、おれはこの体、血の通い熱を持った柔らかなこの体を辱めて縊り殺したいとそう願っているのだ……暗い思考が頭を過って、すぐに消えた。

 武藤は右手を伸ばして自分の鞄を持ち、体重をかけて和久田の腕を引っ張る。重心がずれて、和久田も一二歩右に足を出す。するとそのまま武藤は、何も言わないまま、腕を引きながら出口へと歩きだした。それを見た和久田に声をかけようとしていた男子生徒がにわかに動揺し、彼だけでなく孤高の少女の動向に気付いた生徒は少なからぬ反応を示していた。

 武藤は気にするでもなくただ前へ前へと進み教室を出る。思わず和久田は目でフェルミの席を見る、そうだ、あいつ、今日は休みだったんだ。

 どうすることもできずに、少なからぬ視線を浴びながら、和久田は何も言えないままに昇降口まで来て、そこで武藤は一度手を離した。熱が消える。名残惜しい、と思う気持ちを彼は激しく叱責した。どうして振りほどかなかったんだ……きっと和久田は顔中真っ赤にしているのではないか、対する武藤は顔色一つ変えずに、棒立ちの和久田を睨むように見ながら靴を履き替え、「早く履き替えてください」と言う。その時彼女は既に和久田の左手を掴んでいた。

 命じられるままに片手で靴を履き替えると、武藤は「行きますよ」と言ったきり、貝のように口を鎖したまま進んでいく。掴まれた手のひらに汗が浮かんでいて不快だった。武藤はしいて、その手のひらと自分の手のひらを密着させる形で手をつないでいる。彼女の肌に自分のぬめる汗が触れていることがたまらなく嫌だった。ぞっとする思いだった。

「ニーチェの超人思想について、どう思う?」

「超人? 『ツァラトゥストゥラ』なら一応、でもそのくらいで」

 高校の西に位置する住宅街を歩く道すがら、ただ無言で歩くのに耐えられなくなって、和久田は言った。言ってから、しまった、と思った。だが武藤は次いでこう答える。

「それにあの青い……も私に初めて会った時言っていましたよ」

 話す間にも武藤は足を止めない。

「『我々の目的は《超人》である』とか。フェルミというのでしょう、あれは」

 後に続く和久田からは、前に行く武藤の顔の右半分、それもかなり後ろから見た具合でしか見えなかった。和久田は黙って歩き続けた。

 武藤はそれきり何も言わず、十分ほど歩いただろうか、わからない、とにかくやや太い通りから一本入ったところにある二階建ての前で足を止めた。上着のポケットから鍵を取り出し、片手で開ける。左手を引っ張られて、和久田は玄関にまで、引きずられるようにして足を踏み入れた。

 無人のようで、薄暗く、玄関から反対側まで延びる廊下には藻に似た色の暗がりが広がっている。手前に左に曲がる道が、やや奥まったところに階段を備えたくぼみがあり、階段は二階へ繋がっているようだった。狭い玄関の隅に靴を置くと、武藤もこちらを向いたまま靴を脱いだ。既に手を離していた。

 空気が薄いようだった。二階の一室に通された和久田は、すぐにそこが武藤の居室だと知った。各所を見回すが、あの濃密な害意の気配はない。彼女は学習机の椅子に和久田を座らせ、戸を背にして立ち、後ろ手に戸を閉めた。

「フェルミ瑠美は青いパルタイなんですか」

 馬鹿真面目にその名前を言う武藤に、和久田もあの青いパルタイの偽名の滑稽さを改めて意識せずにはいられなかった。

 あの爪を恐れ、また突然の出来事に混乱して、頭がはたらいていなかったが、事ここに至りようやっと落ち着いてきた。次に思うのはこうだ――では、この女生徒は何をしようというのだろう?

 和久田は答える。

「そうだ」

「そうですか」

「殺すつもりなのか?」

「ええ」

「どうして」

「パルタイが人を殺すからです。いえパルタイでなくとも、ああいった手合いは、皆。私はひっくるめて《超常》と呼んでいますがね。私の《爪》、フェルミの言うところのアリスの黒兎も《超常》に由来するものなんですよ」

 武藤は既にパルタイの秘密を何らかの方法で知っているのだ。そしてフェルミの言った「似て非なる」力を、パルタイとは似て非なる《超常》にかかわる形で手に入れている。否が応でもそれがわかった。

「おれも、殺す気なのか。その《爪》はその気になればおれだって斬れるんだろう?」

 声が閊える、喉が渇ききって粘膜が張り付いていた。それを聞いて武藤は和久田の目を見据えたまま右手を持ち上げて、人差し指に爪を展開した。彼は細い目の奥の瞳に意識を吸い寄せられたきり、身じろぎ一つできないまま、利き手側の首筋に黒い爪の刃を突き付けられていた。

 爪からはやはりあの害意が湧き出していたが、それを振るう武藤の目に和久田は、今や害意敵意の類を見出すことはできない。

「あなたの中にはまだパルタイの力が、パルタイの支配下にある力が残っています。あなたの両手に植え付けられたそれは、あの青いパルタイの支配下にあります。もしかしたら今この瞬間にもフェルミはその力を足場にあなたの命を奪うかもしれないんですよ。……この爪が届くならその手に展開される前の《力》を切り刻んでいるところですが、そうもできない。今すぐあの力を展開しなさいと言っても、きっと応じないでしょう?」

 次第に武藤の顔に悲壮の色が浮かび上がる。

「和久田さんはフェルミに親近感を抱いているようですから……」

 そこで言葉は止まった。歯を覗かせ、眉根を寄せて、話題を変えた。

「和久田さんをだなんて、そんな気ありませんよ。私が殺すのはフェルミだけ」

「おれはいいのか」

「私の《敵》は、パルタイと《ビオス》だけです」

「どうしてフェルミを、いや、そうか、人を」

 つい昨日聞いたばかりの話が思い出される。フェルミの左肩の「7」の数字。あれは、フェルミが、あるいはパルタイが、少なくとも七人の人間の命を奪っていることを意味する。パルタイは全部で八人いるはずだった。つまり、五十六人……いや、武藤に斬られる前のフェルミの左肩の数字は、幾つだった?

「人を殺すんだよな」

「はい」

 では、パルタイが人を殺すと知っている……いや、多分彼女は人を殺す《ビオス》に似通った《パルタイ》に遭遇して、かつて遭遇した超常からの類比アナロギアによって《パルタイ》が人の命を奪うものであると結論付けたのだ。その武藤は、ではなぜどのようにして、《ビオス》が人を殺す者であると知ったか?

「私は、和久田さん、あなたがこれ以上パルタイとかかわりを持たないことを約束して、実行してくれればそれでいいんです。しかしそれだけというのもアンフェアでしょう、ですから私はなぜ私がこんなにもパルタイ、《超常》を敵視しているのか話そうと思うのです」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る