六
二人は駅前で一番安いカラオケボックスに入ることにした。一城高校の生徒は大半が深夜に出歩くようなことはないいわば模範生なので、そうそう鉢合わせすることはなかろうというのが理由である。
「ワクタさんとしては、私がアレを捕まえた時にやたらにやついてたりしたのが気になってるんでしょうけど」
ソファに座るなり、聞いてもないのに、フェルミは怒涛の如くしゃべり始めた。人間の姿になったフェルミは、今日は白いワンピースを着ている。
「いや本当に知らなかったんですよ。ほら、他人がいやがってることをするのってすっごく楽しいじゃないですか。そういう笑顔であってですね、別に何か裏があったりじゃありませんからね」
「それはわかったよ。フェルミ」
フェルミ、と強く発音された声に、あらぬ方を向いていた青い目が、すすう、と動いて彼を見た。
「その」和久田は言葉を継ごうとしたが、しばし口ごもった。「あれ、というかあの人、というか、とにかくあの白い髪のについてなんだが」
カラオケボックスに向かう旨を決めてから個室に入るまで、二人は一言も会話を交わしていない。和久田は例の罪悪感と、目の前に立ち現れた事実のあまりの大きさに打ちのめされており、フェルミもまた彼のそうした心情を察したのみならず、並一通りでなく驚いていたので、双方何かを話すという気にはなれなかった。
「結局やっぱり、あれムトウさんなんですか」
彼女はつとめて声をひそめてそう言った。なぜだろう? しかし不思議とそうしなければならないような気がした。それとは関係なしに、ムトウの三文字を聞いた和久田が突然おびえるような顔をしたので、フェルミは笑いをこらえねばならなかった。
和久田は武藤の名を耳にした途端、ふたたび白い髪をしたあの横顔を思い出し、戦慄した。同時にあの少女を組み伏せていたという事実に後ろ暗い興奮を覚えている面があることも、彼を自己嫌悪に陥れた。彼の、武藤ほどでないまでも鋭い印象を与える目には、今や情けなささえ窺えるようになっている。和久田は小声で「多分」と返した。多分? いや、そんなはずはない。あんなにも美しい人間が二人といてたまるか。
「多分、じゃないな。武藤だ。あれは武藤だった。フェルミ、武藤は……あいつは、パルタイ、なのか?」
腰を下ろして多少は落ち着いたとはいえ、改めて言葉にしようとすると、一句一句を切って発音しなければ余計なことまで口走ってしまいそうだった。本当に知らなかったんだな、あの《白いパルタイ》が武藤だって本当にわかってなかったのか、おれはあんなことはしたくなかった……言葉を発しながら、言葉を呑み込んだ。フェルミは既に彼の願いを尋常ならざる手段で知っているかもしれない、それでも、彼女への崇敬も狂気も、彼にとってはなんとしても死守したい秘密だった。
フェルミはしばらく、ちょうどねめつけるような目付きで和久田を見ていたが、きっぱりと「いいえ」と答えた。
「ムトウさんはパルタイじゃあありません、絶対に。パルタイの全員の名前が登録されてる名簿があるんですが、その中には彼女の名前はありませんでしたし、彼女のようなヒト型をとってるパルタイに会ったこともないですから。しかし事実として、ムトウさんはパルタイとは異なっていても極めて近い力を持っている。いわば、似て非なるものです」
フェルミは童女の姿へと
「じゃあなんだ、パルタイにもよくわかってないっていうのか」
『彼女自身は紛れもなく人間です。でも、彼女の力が何であるかは、ちょっとわかりません。似て非なるものだ、としか』
「信じていいんだな?」
『どれを』
「武藤が人間だってのは」
『そりゃあ……』しばし口を鎖してからフェルミは言った。『食べ物とそうじゃないものの違いくらいはわかりますからね』
ややためらいがちに発話されたその言葉に、和久田は自分の推測の正しさを理解した。「やっぱりパルタイの《対価》は、人の魂なんだな」
フェルミは首を横に振って、《存在への意志》、と言う。キーを操作すると、ホログラムが入れ替わり、`Regeln der Partei`の文字の下に縦書きで四箇条が記された。
1.パルタイの最終目標は《超人》である。
2.パルタイは人間との契約により、人間の願いを叶え、欲を満たす。
3.パルタイは右の条件を満たした時、人間の《存在への意志》を譲り受ける権利を持つ。
4.パルタイは人間を殺すことはできない。
『変転せんとする《力への意志》よりも先にあるもの、まず定位せるこの場所に継続して存在せんとする意志です。ニーチェはいくつか間違いを犯していたんですよ。彼は何の助けや支えも必要なく生物が今ここに存在し続けられると思っていたんです。でもそれは誤りで、事実パルタイは生れ落ちた直後からきわめて微弱な力しか持たなかった。人間の《存在への意志》を食わないことにはすぐにでも消滅してしまうほど、本当に本当に弱かったんです。変わっていくよりも前に、崩れ続ける体をこの場に留め続けられるようにする、そのための力がまずは必要だった。今だってそうです、定期的に《存在への意志》を摂取しないと、ちょっとしたダメージで消えてしまうかわかりませんからね。
わかりますか? パルタイにはね、《超人》という目標がありながら、まず一日二日と生き続けるために必要なものが欠けているんです』
要約の言葉を聞いたが、それでもまだわからないという顔をしていたらしい。要するに根っこがないってことですよ! と叫んだ。
『それで、だから、人間の生命エネルギーを食べないと生きてけないんです!』
和久田はその言葉に深く安堵した。もしも武藤が人間でないとしたら、それは和久田の願いが叶えられようのないことだということにもなるのだから。
フェルミ曰く、彼らの最終目標である《超人》は、人間とパルタイの間にあるものだという。現在どのパルタイもそのことは理解しているが、果たしてパルタイと人間の間がいかなるものなのかは曖昧な予想しかついていない。人間の《意志》を食い続け、溜め込んだ先にあるものではないかと考えられているが、それを確かめる証拠もないし、肝心の《意志》の回収もそれほど良い具合に進んでいないらしい。
パルタイの契約は、これら《意志》を収集するための過程である。パルタイは願いを持つ人間を探し(強い願いであるほどよい)、専用の書類による契約を交わした上で、その人間の願いを叶えることでそれまで満たされていなかった心を満たす。活性化した魂のエネルギーごと、その魂を諸共に頂いていく。このあたりの説明は非常にざっくりとしている、フェルミ自身も詳しいことはわかっていないらしい。作物にあげた肥料がどのように吸収されるかわからなくても、作物を育てることはできる。
次にフェルミはパルタイの、あの長い名前欄の見方を教えた。タブレットを操作すると名簿の最上段にあったフェルミの名前だけが表示される。
【1eins】blau《Wandlung》`Enrica`Fermi
最初の括弧に括られた数字はパルタイに振られた番号で、《変化》したパルタイの右の肩口にもこの数は刻まれている。次ぐ節は色を表し、フェルミは青。光と色の三原色、またそれぞれの三原色の混色と白がこの欄には存在しうるようである。二重山括弧に括られた節はパルタイの《特性》を表す。
「特性?」
『後でまた出てきますよ』
最後に残った二節はパルタイの個人名にあたる。アキュートに括られた節は普段は名乗らず、もっぱら最終節の名前を用いる。このパルタイの名前は、今のところ全て、元素名として用いられた人名と一致している。フェルミの名は二節含めて‘エンリカ‘フェルミ。元素番号101番フェルミウムの由来となり、理論と実験両分野において世界最高レベルの業績を残したイタリアの物理学者エンリコ・フェルミの名を受け継ぐパルタイであった。
パルタイの《変化》は数えて三つあり、彼らが振るう超常の力もまた三種あるという。《変化》の第一は人間フェルミ瑠美としての、世を忍ぶ仮の姿。第二は人間の姿から《変化》する青い髪の童女の姿。第一と第二には名前がない。名前のある第三はケルペルと呼ばれている。
力の第一はディングDing、元は「物体」「事物」を意味するドイツ語で、パルタイの有する力のコピーである。あくまでも道具として顕現するため、後二者のような生物的モティーフを持たない。
第二はケルペルKoerper、「身体」を意味し、パルタイの持つ最大の力でもある。ディングはこのケルペルを弱体化・複製して形作られる。
第三はザインSein、「存在」を意味する。パルタイが人間の願いを叶えるにあたって、独力ではどうにもならない場合、あるいは契約した人間を積極的に参加させる必要がある場合に、独自の力を人間に与えることができる。ザインは絶滅種を含めて実在する生物を、ケルペルは竜や吸血鬼を含む実在しない存在をモティーフとして持ち、ザインはそれを作ったパルタイ及び契約した人間の《特性》によって、ケルペルはパルタイの《特性》によって、そのモティーフが少なからず歪められることで成立する。
フェルミはタブレットを操作して、今度は黒いシルエットの各所に青と黄味のやや強い淡い緑の光の浮かぶ鳩を空中に投影した。
『これが《ザイン》の、言ってみれば見本みたいなもんですね。私が前契約した人ので、見ての通り鳩型の《流転》・《貫通》です。力の方向を操れるのと、足の爪が金属だろうとあらゆる所に刺さります。ほら、昨日ミニバンが十トントラックに突っ込んだ事故があったでしょう? あれの原因はこいつですね』
今朝のニュースで見たような気がする。たった一日足らずでこんなにも遠い地点に和久田は来てしまっている。
「待て、パルタイは人を殺せないんじゃなかったのか」
『ああ、レーゲルの四ですか。ほら、この場合は、対向車線に車を突っ込ませただけであって、手を下したのは対向車線の十トントラックですから』
曰くパルタイは、人間に認識されることで初めてその形を保っていられる、噂話に付いた尾ひれが実体を持ったような存在なのだという。逆に、人間に広く知られていればそれだけパルタイの力も高まる。できる限り人間を殺さない類の願いを叶えるのがパルタイの常道、今回はあくまで例外だと彼女は言った。
一般的な人間なら、ここで少しは怒るような素振りを見せたりするのだろうか、と和久田は思った。両親を殺した事故と似た状況を作り出すのに手を貸したと目の前のパルタイは証言しているのに、彼にはいささかの義憤もなかった。あるいはもしかするとパルタイを縛るレーゲルというのはそれほど理屈めいたものではなく、むしろ大雑把なものなのかもしれない、なんてことまで考えているのである。人の死に対しても和久田は鈍感なように思われた。
『そうだ。ついでにお見せしますよ、私のケルペルも』
フェルミが箱を背負いなおし、大きく伸びをして頭上で組んだ手を前方に下ろすと、背後からごぼりと音を立ててどす黒い粘液が湧き始めた。その出所は彼女が背負った箱で、見る間に小さな全身を覆っていく。腕と脚は細長く骨ばった形に変形し、節くれだった指の先端はゴム風船のように膨れ上がって、脚には偶蹄目の蹄が現れ、展開された青い翼は巨大な蝙蝠の形をしていた。一本の髪さえ失い頭蓋の形をそのまま反映したような楕円形の頭部には一対のねじ曲がった山羊の角が生える。山羊の角とは多少なりとも曲がっているものだが、それにしたところでこうもひどく歪になりはしない。アンモナイトを思わせる凹凸のある角は、側頭部から生えて根元近くで大きく後ろへ折れ曲がり、それこそアンモナイトの畸形の如くにねじくれ回転しながら上へ反り返って百八十度の弧を描き、頭部を回るに至って小さく先端を前に向けている。あるいはこの角は硬質化したクチクラでできており、彼女の青い髪はこの異様な角へと変化したのかもしれなかった。表情は存在しなかった。鼻は軟骨のみならず骨格の部分から削り取られ、目と口はなく、ゴムのような質感の肌だけがあった。この奇妙な質感の肌は全身を覆っており、ちょうど痩せた大男がラバースーツを着込んでいるようにも見える。背丈は百七十センチほどだろうか。しかしその異形の姿と、何より空間全体にいっそう強く渦巻く異常の気配に、和久田は息が詰まりそうなほどの圧を感じた。
――ははは、びびっちゃってますかねえ。
いつもと変わらぬ甲高い声が聞こえたが、それは空気の震えによるものではなく、いわゆるテレパシーに近いものである。フェルミは指の膨れ上がった手を軽く持ち上げて言った。
――ワクタさんには私のケルペルの中でも手の力をお貸ししました。直接触ればという制限付きですが、その部分の力の動きをコントロールできる能力ですね。まあ、固体と液体しか操れませんし、これ以外には飛ぶくらいしかとくべつな技能なんてありませんが。
そこでフェルミの言葉が終わって、誰も喋らなくなった。
「パルタイってのは、つまり、人間じゃないんだな」
『はい』
沈黙。
「聞きそびれてたから一応聞くけど、《存在への意志》を持っていかれた人間はどうなる」
フェルミは、にへら、と笑って答えた。
『死にますね』
「パルタイが魂を奪って、いや貰ってるってのは本当だったわけだ」
『魂なんて、そんな大層なもの貰ってませんよ。持っていかれた人間が死んじゃうってだけです』
沈黙。
「なんか――」
和久田は言いかけて、止めた。再び沈黙があった。
「悪魔みたいだな」
その声にこれといった嫌悪軽蔑の色はなかった。フェルミは童女の姿に戻って、おもむろに虹色の球体を取り出す。つやつやと濡れて輝く、寒天様の色をした球である。正確にいうと、寒天様の色をした表面や内部に虹色の光が浮かんでいる、そういう球体である。彼女はそれにかじりつき、噛み砕いては呑み込んでいく。一口かじるごとに梨のような音がして、左肩の数字が変わった。「7」。
――ところでフェルミはさ、俺にこんなにパルタイのこと教えて、どうしようっていうんだ。つまりさ、魂を持ってかれるってネタばらししてるだろ? その状況でまだ俺の願いを聞き出そうとしてるけど、それがわかったところでおれはフェルミと契約しようとは思わないんじゃないか?
――ワクタさんの《意志》をもらうつもりはないですね。むしろあなたの願いそのものの方が私にとっては重要です。具体的なことは何もないようなものなんで言えませんけど、ワクタさんの『叶えちゃいけない類いの願いごと』はもしかすると、今行き詰っている《超人》への糸口になるかもしれない……。
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