姿が見えなくなると、その場に充満していた濃密な死の気配もさっぱりなくなった。和久田は尻餅をつき、後ろに手をついて体を支えた。

 一体何だったのだろう?

「あ、和久田さん」

 前触れなしに背後から声がして、彼は音の外れた悲鳴をあげた。後ろに立つ声の主はけらけらと笑う。

「なんですかもう、ひどい声出して」

「ああ、なんだ、フェルミか。いやすまん、ついさっき白いパルタイに会って、殺されるかと思ったんだ。それで、ちょっとびびった」

「ああゼンダーの反応が消えたんで来たんですけど、そういうわけでしたか」

 フェルミは黒いジャケットを着ていたが、これはパルタイのコスチュームではないいたって普通の品物だった。半西欧人の学生の姿で、ジャケットの下にはVネックのシャツを合せて、長い脚を包むパンツは白地にマゼンタや濃紺のペンキの跳ねのあるものを選んでいる。

「フェルミの方は何か感じたりしなかったか」

「そりゃあ、あの独特の感じは肌で感じてましたよ。でもそれが何であるかまではちょっとわからないですねえ。そう、白いパルタイでしたか」

 パルタイの少女は辻の中央に立っていたが、話しながら普段よりゆっくりした調子で歩いてきて、和久田を制して倒れていた彼の自転車を起こした。

「実は白いパルタイと私には浅からぬ因縁がありましてね。いや厳密に言うと私から因縁をつけにいったような感じなんですけど、とにかく会えなかったのは残念かもしれませんね」

 そして和久田を見て、彼の方に向き直り、前触れなしにあの異様の気配をまき散らす童女の姿へと《変化》したのである。和久田はつい先刻までの害意に満ちた気配と少なからず似通ったこの雰囲気に思わず身震いした。童女は背負った直方体を地べたに置いて背面の金具を操作し、中身を漁りまわる。背負っているフェルミの背格好と併せて本当に小学生のランドセルのように見える。ランドセルはこんなに薄くないし、真っ当な小学生はこんな露出の多い服を好んで着たりはしないだろうけれど。

『ゼンダー壊れちゃったんでしょう?』

 そう言ってフェルミは新しいゼンダーを取り出した。見た目も、放たれる微妙な異様の感じも、つい先刻爪に貫かれたものとまったく同じである。

『持ってもらってて損はありませんし、とりあえず、はい』

「ま、ま」

 動揺で言葉が出ない。その間にフェルミが新調のゼンダーをひょいと投げつける。とっさに掴み、そこで舌が回るようになった。

「待てフェルミ! さっきあの白いパルタイ、ゼンダーを壊したら帰ってったんだ、今またそれを出したら……」

 そう、白いパルタイがゼンダーを狙っていたことは疑いようがない。しかし彼は、ゼンダーの何を狙っていたのだろうか? ゼンダーを壊せばそれだけでよかったのか? ただのGPS端末のようなもののはずで、おまけに今見てわかるようにパルタイはいくらでも替えのゼンダーを持っている。そんなものを壊したところで何になる?

『だからこそですよ』

 フェルミの小さな手のひらに、B4ノート大の黒い端末が載せられていた。円形のスクリーンを挟んで並ぶボタンの一つを押すと、途端にゼンダーが声を発する。

『契約に先立って、一つ力を与えましょう』

「なんだって?」

 突然のことだったので、和久田にはすぐにはその言葉を聞き取れなかった。最後まで聞いてかろうじてドイツ語だとわかった。

《情報公開と契約とに先立って、一つ力を与えましょう》

 今度は日本語だった。しかし今度は、その意味がわからない。

「おいフェルミ、何する気だ?」

 しかし説明されるまでもなかった。左手に握られたゼンダーから何か得体の知れない力が流れ込んできて、その力の使い方も彼は同時に理解していたのだから。自分に植え付けられた力と共に、とんでもない事柄に巻き込まれているのを彼は理解した。

『来るのがわかるでしょう、あの白いパルタイが』

「わかるよ! 何考えてんだ、馬鹿!」

『おそらく私はいの一番に斬られるでしょう。死なないように避けるつもりではいますけど、うまくいきますかね、わかりません。私がおとりになりますから、ワクタさんはその力であの白いパルタイを無力化するのです』

「できるのか、こんなので?」

 和久田が植え付けられた力は名をディングDingという。フェルミが自らのさらなる《変化》の姿と共に振るう力の一端で、明らかに後の先をとる、つまり先手を取ることはできない力だった。

『重要なのはディングは欲望ではなく意志でもって動くということです』

 童女フェルミは笑った、西門のあの悪徳をたたえた笑顔に似ていた。

『私は期待しているんですよ、ワクタさん。あなたの、そうですね、秘められた力量は、それこそ我らの悲願・《超人》にさえ肉薄しうる』

 フェルミ、ゼンダー、ディング、そしてあの白いパルタイの四つの異様の感覚が空間に渦巻いている。白いパルタイは空高くまで跳躍し、ひと跳びに和久田とフェルミのいるこの辻まで向かっていた。黒々とした夜空にあの白い肌と髪は目立つはずだが、見上げたところでその影を捉えることはできなかった。

 来ますよ、とフェルミ。ちらりと彼女の方を見て、また夜空に視線を向けた時、横合いから強い衝撃を受けて、和久田は二度アスファルトの地面に倒れ伏した。

 倒れ込む直前、自らの背後を瞬間の内にあの極限まで研ぎ澄まされた害意の斬撃が通り過ぎていったことを肌で感じた。タックルをかましてきたフェルミは両腕を胴に巻き付けて離れない。ほぼうつぶせに近い状態で転がった和久田は、後ろを確認するついでに腕を払おうと思って顔を上げたのだが、そこで目に映ったフェルミは、へそのやや上にあたる位置から真っ青な血を流していた。離れた位置には血と同じ色をした断面が見え、そして一刀の下にバターのように切り裂かれた胴体の間には、その体を切り刻み青い血に濡れた五本の爪があり、白い顔の中で鉄臭い血の色の両目をこれ以上なく悍ましく光らせた白いパルタイがいた。

 白いパルタイが放つ研ぎ澄まされた害意は先ほどの比ではなかった。和久田とさほど変わらないだろう矮躯が、そのままの大きさでありながら、同時に視界を覆い天を衝くほどに膨れ上がっているようにも感じられた。左半身をこちらに向けて、切り刻まれたフェルミの下半身を執拗に爪で串刺しにしている。傷口から光を放っているようにも見える鮮やかな青い血液が噴き出し、残った肉塊も血まみれになって、段々小さくなっていった。和久田は体の半分を失ったフェルミが離れないよう抱きしめて白いパルタイに背を向ける体勢をとった。

「フェルミ……なあフェルミ、大丈夫なのか」

 左肩の数字が見る間に減っていく。13とあった厳めしい字体は今や6にまでその数を落としていた。ショック死しない方が不思議な大怪我を負いながらまだ話していられるという非現実感が、かえって和久田を冷静にしていた。

『大丈夫じゃありませんよ、死にはしませんがね。それよりワクタさん、今のあなたならディングが使えるはずです。両手にちょうど手甲の形で展開されるんじゃありませんか』

 そう言われて視線をやや下に移すと、両手が黒く染まり、手の甲には青い円形の花のような紋章が浮かんでいるのが見てとれた。同時に、悪夢の山羊の幻惑が《流転》の性質によって書き換えられたこの力の使い方も、手に取るように理解することができた。そしてその力の根源は和久田の外部にあったが、今や和久田の体内に埋め込まれている。次いで和久田はフェルミの傷口を見た。腰部の青い断面から夥しい青い血液が垂れ流しになり、蛍光を発する血液は和久田の服に付いてもぼんやりと光っているように見えた。平面に斬られた断面は今や再生を始めて、もこもこと青い肉が内側から盛り上がり、骨の形をした影もみとめることができた。

 和久田は振り向いてほとんどしゃがんだ姿勢に立ち上がり、白いパルタイはフェルミの腰から下を悉青い液体に変ぜしめたのを眺めてから、もう半分に狙いを定めるべく和久田の胴の向こうにあるフェルミの上半身を睨みつける。姿勢を低くして、一歩、前に出る。和久田は動かない。動くわけにはいかなかった。超人的な跳躍も警戒しなければならないし、何よりあの爪の一撃はフェルミのいわば「残機数」を一気に七つも削り取れるほどのダメージを彼女に与えることができる。次同じようなことになれば彼女の体はもたないに違いない。

 次? いや、次などないのだ。ゆっくりとしたペースで再生しているとはいえ、この状態から鳩尾や胸の高さで、あるいは正中線で左右に両断されようものなら、さしものフェルミも生きてはいないだろう。第一人間であればここまでの大怪我を負ったら最後意識が保てるはずがない。今フェルミの命と意識があることこそ、彼女が尋常外の存在である何よりの証だった。

 しかし……皮肉にも和久田の頭には、燃える教会の中、あの蝙蝠の怪人を前に刑事を庇って、決意と共に《変身》した男のヴィジョンがあった。あれほど諦めようとしているのに、こんな時でさえ、彼は戦士クウガを思わずにはいられない……そう、和久田はフェルミをこの兎の耳もつ白いパルタイから守り通し、かつこの敵を撃退しなければならない。

 和久田は動かなかった。白いパルタイは眉をひそめ、マスクからわずかに覗く頬を引きつらせて、白い肌に凸凹とした陰影が刻まれていく。寸分たがわずスケッチされたアポロン像が、画用紙の歪みで醜く湾曲していくようだった。白い肌を濁らす影は額の下半にまで及んだ。

 マスクの下で口がもごもごと動き、フェルミ、と奇妙にかすれた声が聞こえてくる。そして白いパルタイが右腕をやや角度をつけて前に掲げると、真っ直ぐに伸ばされた五本の指を覆う爪は一瞬の内に十メートルを優に越える長さにまで巨大化する。和久田はその光景に、物理空間に干渉する死を見た。彼の両手は黒く染まっているが、これはほとんど和久田自身の手と変わるところがない。せいぜいビニール程度の薄皮一枚が彼の皮膚を覆っているようなもので、白いパルタイの手甲のような濃密な物質性とでもいうべきものを有してはいなかった。ましてや巨人の手のごとく伸長した五指が放つ異様の感じ、空間を舞うこの世ならざるノイズには敵いそうにない。

 距離を詰める? 彼我の距離はざっと十メートルはあった。どうやら斬られたフェルミは己の《流転》の力を利用して距離を稼いでいたらしい。和久田が走っても一瞬で間合いを詰められる距離ではないが、他方向こうにはあの奇妙な跳躍術がある。和久田がフェルミの許を離れれば、即座に彼女の目の前まで跳んでいって残りの半身をも切り刻むだろう。白いパルタイは手刀を作る。五本の指が同時に素早く動いて中央へ収束していき、黒い巨大な板のように見える。その腹を下向きにする形で、つまり指の腹を下にして、上体ごと前に倒して右腕を振り下ろした。

 干上がっていた喉の粘膜が張り付く。腰を沈めて構えていたのが、膝が震えるあまり崩れ落ちてしまいそうだった。それでも動くわけにはいかなかったし、動き出すより前に振り下ろされた爪は和久田に迫っていた。合わさった爪は一本の剣のように細い。その腹を下に向けて白いパルタイはその腕を振るったわけだが、上下をひっくり返した日本刀の刀身のような形をした爪の集合である巨大な剣の腹の幅は、和久田が指を広げれば簡単に収まるほど狭い。だから和久田は第一関節までを開き、両手を前に突き出して、指先で白いパルタイの指の側面を挟むように、正面から構えた。

 またも、見える世界がゆっくりと進む……前と後ろ、手前と奥で二か所を側面から掴む。指先が触れるだけでもいい。ほんのわずかな時間彼の指がパルタイの爪に触れさえすればその瞬間その爪は和久田の《流転》の力の支配下におかれることになる。展開されたディングは、触れたものの持つ運動エネルギーのベクトルを、その物体の流れに沿う形で操作することができた。大本であるフェルミの力であれば、ベクトルを自由に操作することもできるだろう。和久田の持つディングはあくまで貸し与えられた一端であり、パルタイの力を十全に振えるわけではないのだ。ほとんど先端にあたる部分を起点に左に進路をずらす。根元である指の関節が外れ、もしかすると砕けるかもしれないが、そんなことは気にしていられない。あちらが本気で殺しに来るというなら、利き手を動かせなくするくらいどうということはないだろう。

 一秒の半分とかからない時間の中でそう考える内、必殺の爪を束ねた剣が和久田の指に触れる……いや、触れない。彼の指が爪の側面を捉え、爪の腹なる刃が和久田の掌に食い込むその寸前に、激しい音声と白い雷電を伴って、殺意を振りまく黒い爪は跡形もなく消え去った。

 何が起こったのか、すぐには和久田はわからなかった。背後のフェルミを見る。蹲ったままだが、傷が増えている様子はない。大丈夫だ。次いで正面の白いパルタイを見る。前に突き出した右手を強張らせて、赤い目は今もこちらを向いていたが、そこに宿る極限まで先鋭化していた害意が少しだけ緩んでいるようにも見えた。

 ディングは古くなって起動に時間のかかるバイクのエンジンのような音を立てて、両手を覆う薄い膜の全体が瞬くように消滅と出現を繰り返し、元の形に戻る。黒っぽい煤煙じみたものを青い文様から吐き出した。うっすらと白いパルタイの爪と同種の匂いがした。

 何が起きた? そう、彼は和久田諸共フェルミを両断しようとする直前、思いとどまったのだ。それはおそらく和久田が人間だから。パルタイは対価と引き換えに人間の願いを叶える、顧客を殺すのは損でしかない。さりとてどうにかして、何らかの理由で敵対するフェルミを始末したい、というところか。もしやあの強烈な害意は、フェルミが発する異様の感じと同じようなものなのかもしれない……。

 白いパルタイはしばし動きを止めていたが、一度右の爪で白い左手を引っ搔いた。白銀の光が破れ、薄皮のようなこれもまた光の層が宙を舞い、溶けて消えた。それから白いパルタイは一歩二歩と前に出た。和久田も再び緩く開いた両手を構えた。

 そこからはすぐのことだった。低く跳躍した白いパルタイは和久田から見てもわかるほどあからさまに彼の手を狙って爪を突き出してきたが、華奢な体はディングの力を得た和久田との掴み合いにはあまりに不利だった。

 和久田は手首を掴み、腕を背中までひねり上げて、白いパルタイをアスファルトの地面に組み伏せる。膝をつかせたパルタイの背にのしかかるようにして両手を封じた。しばらくそうしていると、白い腕と和久田の手とを隔てる布地が段々と薄くなっていることに気が付いた。礼服の厚い布地は鑢をかけられるように削れていき、黒い異常の幕越しに触れたかぼそい腕は、上質の麺麭の柔肌が覆っていた。

「フェルミ! 大丈夫か」

『ええなんとか』

 見れば真っ二つにされた体はきれいに再生していた。服までも元通りになっている。左肩にでかでかと浮かんだ数字は「3」……。フェルミは背中の薄い直方体から青い光の翼を広げてふわりと浮き上がり、白いパルタイを組み伏せる和久田のすぐ近くで着地した。青い、鳥の翼だった。

 二人を、とくに白いパルタイを見下ろすフェルミは、下品ともいえるほど、にやにやと笑っていた。頭に生えた一対の兎耳をつかみ、持ち上げる。

『兎の耳、やたらとよく跳ぶ足に、その恰好。それから胸のワッペンは金の時計ですか? アリスの白兎、ってわけですかねえ。このなりだと黒兎ですか』

 そこで和久田は気が付く。この白いパルタイの肩には、フェルミのような数字が浮かんでいない。

 脚も爪も封じられているので何もできない、まさしく手も足も出ないという状態の白いパルタイだったが、目だけはまだ死んでいなかった。血の色に染まった目は、混じりけのない敵意に燃えている……しかし一方で、その瞳の内に恐れの色が交じっているのも事実だった。フェルミを相手に虚勢を張っているのではない、もっと別の、臓腑を細い糸で縛り上げられるような感覚を伴う恐怖である。

『あなたこれまで一度も喋ってませんけど、一体何が目的で私とか、ドミトリとかを付け狙うんですかね。教えてくださいよ』

 白いパルタイは、やはり、何も言わない。

「こいつが誰だかとか、知ってるのか」

『知りませんよ。だから今聞いたんでしょ、何が目的かとか』

 白いパルタイはまだ何も言わない。マスクで鼻から下は見えないが、きっと唇を真一文字に引き結んでいるか歯を剥いて軋ませているかどちらかだろうと思われた。

『とりあえず顔だけでも見てみますか。マスクからでも剥いちゃいましょう。野球拳みたいに一枚一枚剥いて、裸にして、あとはワクタさんお願いします』

 そう言いながらフェルミは白いパルタイのマスクの紐に手をかけた。声に促されるように和久田も白いパルタイの顔を見ると、目と目が合った。なす術なく地面に転がっているだけの、血の色の瞳が、初めてまっすぐ和久田の目をとらえた。

 すると、これまで和久田が「目が合った」と思っていた時にも、彼女はずっと和久田の目ではなくほかの場所、おそらくはディングをみていたのだ。そう確信できるほど、ここで彼女は紛うことなく和久田の瞳をこそ見つめていた。和久田の目はその瞳にすっかり吸い寄せられてしまった。赤い目には不思議とどこか懇願するような色があった。怯えるにしても、その怯え方が並一通りでないように見えたのだ。

 紐がかけられているはずの頭部の横にある彼女の耳は耳あてのようなもので覆われているので、マスクを取るには紐を引きちぎるしかない。一方で、なんら特別な品ではない、どこにでもある市販品のマスクであるから、少し強く引っ張れば簡単に紐は切れた。耳あてに巻き込まれた紐は……奇妙なことに、紐がヘッドホンの耳あて部分から突き出しているような様を呈していた……その状態で固定されているらしい。

 紐が切られる間に白いパルタイの視線は次々に変わっていく。その様を、フェルミはさも楽しそうににこにこ笑いながら、和久田はじっと、はじめに彼女と目を合わせた時の顔のまま、二人はそれぞれ見つめていた。

 白いパルタイは震えながら、ずっと迷っているようだった。フェルミは両方の紐を四本とも引きちぎり終えると、一度それを顔に沿わせて押し付けた。

『さ、ワクタさん。御開帳ですよ』

 えい、と軽い掛け声と共に、フェルミは一気にマスクを取り払った。その一瞬前、視線を泳がせていた白いパルタイが、ふたたびあの懇願するような目つきで和久田を見た。何を意図していたのか和久田には分らない、しかし向けられたその視線は、和久田の視線を彼女の顔に誘い込む効果を持っていた。和久田はわずかに斜め後ろからの視線で、マスクの下の彼女の顔を見据えた。

 鼻筋はヘパイストスの加護持つ職人が材から鉋で削り出したかの如く滑らか。日本人形のような印象だが、輪郭の直線はあくまで鋭く、男性的なものさえ感じさせる。ただ一点ひどく血の気を失った薄い唇だけが彼女の珠のような美しさに疵をつけているように思われた。そして和久田は目の前で自分が押さえつけているこの人物が誰なのか思い至り、にわかに慄然とした。

 正面から見ていたら気付かなかったかもしれない。この人物のこのような角度からの姿を、和久田は飽きることなく週に五日は毎日、この二週間以上に渡って密かに見つめ続けてきたからこそ、和久田はこの白いパルタイとあの人物とを即座に結びつけることができた。

 気付いた途端に、白いパルタイ……いや、もう和久田にとってはパルタイとさえ呼べない……とかく彼女の赤い目にも気付きの色が宿る。胃に氷を詰め込まれた心地がして、和久田はいましめていた両腕を解いて後ろにとびすさった。ふらふらになりながら二三歩後ろに下がりながら、彼には、自分のしてしまったことが天に唾するような大罪であるかのような感じがした。こともあろうに「彼女」を地面に転がして、つい今さっきまであんなにも無遠慮にべたべたと触ってしまっていたなんて!

 彼は唾棄すべき後ろ暗い欲望を抱えていながら、一方でこの少女を崇拝さえしている。だからこそ自らの倒錯に戸惑っているし、今こうして異様なほどの罪悪感に苦しんでいるのだ。

 戒めを解かれた白いパルタイを前にして、フェルミは、うわ、とかぎゃっ、とか悲鳴を上げ、背中の箱から青い光の翼を展開し、一気に飛び上がった。しかし立ち上がった白いパルタイは、もはやフェルミを追ったりはしない。和久田の気付きを知った彼女もまた、秘密を感知された事実に打ち震え、半ば茫然としていた。そしてフェルミには目もくれず、震える眼差しを和久田に向けたまま、やがてどこかへと跳んでいき、消えた。

 宙に浮かぶフェルミも、マスクの下の顔には覚えがないではなかった。しかし、まさかそんなことがあるのか信じられなかったし、何より和久田が急に兎耳のあの人間を解放してしまったため慌てて飛び上がって、考えはうやむやになっていた。しかし和久田の豹変ぶり、何か大きな罰を心底恐れているかのような、この二十一世紀の日本で半生を過ごしてきた一般的な日本人としてはあまりにも大げさな怯えよう。

 降りてきたフェルミは既に大方のことは察していた。口の端をひくつかせ苦笑いを作って、問う。

『まさか、マジに「彼女」なんですか?』

 彼は無言で頷いた。そのまま何も言わないままに、その奥で竜巻のごとく激情の渦巻く目をフェルミに向けた。そこには彼女を責める色があった。どうしてなんだ、どうして、こうだとわかっていたのなら、おれはこんなことはしなかったのに……。

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