夢と、陶酔――二つのヴィジョンがあった。一つは真っ暗な空間で、光は一筋と見えない場所の底に、黒い澱のような水が静かに張っていた。その水面のある一点には、鉄製の棒を組んだものに鎖で縛りつけられた影が、腰から上を水の上に出している姿があった。それは明確に肉の体を持ち、人の形をしている。髪まで黒い水に濡れているのは、その時々によって彼が水面下にいたりいなかったりするからで、十字架様の鉄棒につながれた彼は、今この時には、上半身のみなが水面下から浮上した状態にあった。

 彼は時々身じろぎしたが、声一つ発しなかった。体を動かすと、波一つ立てず張っていた水の上に円形の紋が生まれて、広がっていった。

 彼? そう、その人影は明確に雄性だった。和久田よりほんのわずかに少ない筋肉量の体は必要最低限を超えた脂肪はまったく付いていないかのようで、フェルミのケルペルをさえ連想させるほどに、痩身である印象を与えた。髪は長く、癖はないようだったが、顔を半ばまで隠す前髪は半分が顔に張り付き、半分は水を吸って力なく真下に垂れ下がっている。前髪だけではなく全体がそんな風だったので、どこかサトゥルヌスのようにも見えた。

 和久田の頭の中には、その時によって意識に上る上らないの違いこそあれ、常にこのつながれた者のヴィジョンがあった。彼が、すなわちこのつながれた者が鎖から脱け出そうと暴れ、黒い水面を激しく波立たせるのは、きまって和久田が武藤を前にしている時だった。

 二つ目のヴィジョンはこれもまた光のない暗い空間だったが、下はどこまで行っても黒い水だった一つ目と違いこちらには固い地面があった。地平線まで黒い地面と、全体がほの暗く光っているようにも見える暗い空。砂漠ではなかった。そこは今やどこでもなかった。その、諸天と地の内のどこでもない中に一点、輝かんばかりに白い影があった。

 武藤だった。その体は汚液に穢されて、首は青く、静かに横たわっていた。

 和久田はその脇に立って今や動かない武藤を見下ろしていた。彼は満足していた。彼は自分が武藤を殺すその瞬間を覚えていなかった。思い出すことも出来なかった。今彼は眠っている。起きている間だけ、彼は夢の中で武藤を凌辱し縊り殺す確かな感覚を思い出すことができた。そして起きている間には思い出すことのできない情景を、今武藤の亡骸を見下ろす和久田ははっきりと想起している。

 それは四月の初め、武藤陽子をその目にはじめてとらえたその瞬間だった。彼女はただ一人色を持たなかった。ただ黒と白だけで固められた体は、それが肉であることを忘れさせた。脱色されたヘラスの石像とはわけが違う、正真正銘白と黒だけで織り上げられた体だった。

 イデア。頭のてっぺんから指の先まで、断ち斬られた夜を被って、肌は光そのものとばかりに輝いていた。曰く色とは潰滅した白色光であるという。髪は首の位置で断たれ、暗幕は途切れ、わずかにうなじをさらしていた。和久田はその肌を見た。和久田の目はその、うちこぼれる光に潰れたのだ。

 その武藤が、肌の白い輝きはそのまま、和久田の足許で、腕と脚をてんでばらばらの方向に放り投げている。そしてその影の上には、夜の闇を煮詰めたように黒い影が覆い被さっていた。

 その黒い影は、黒い蓑をまとっているようにも、傍からは見えた。少なくとも何も裸の人間のシルエットではない。しかしながらその影は間違いなく人間と同じ四肢と胴体とを備えていた。

 黒い影は動かなくなった武藤の右の膝裏をつかんで上半身の方へと持ち上げ、I字に開脚させる。ふくらはぎの肉を梨を齧るように頬張り一息で呑み込んだ。半端に開けた唇で膚に吸い付き、傷口から垂れた血と体液を啜りながら、すぐにまた一口齧って今度はいくらか噛み締める。腱にはりついたものまで腹に収めると、腿に這い寄り、頬を擦り付け、口付けしながら、まだ血の垂れかかりなすりつけられていない個所から順に齧り取っていく。

 しゃく……しゃく……しゃく…………



 和久田が全身に脂汗をかきながら目を覚ましたとき、時計は午前三時半を指していた。布団を出た和久田は洗面所に向かい、コップ二三杯の水道水を飲み干して、水を顔にぶちまけた。粘膜の壁が張り付いて塞がってしまいそうなほど喉が渇いていた。

 こんな夢を見るのはもう何度目だろう? ベッドに腰を下ろした和久田は度々訪れるこの残酷な光景を思い出して身震いした。今度ばかりは一切快楽とは関係ない、夢の中の光景に対する恐れと怯えからくる震えだった。皮膚は粟立っていた。和久田は鏡に映る自分の顔を見て、目立った変化がないことを確認して少しほっとした。

 胃の中のものをすべて吐き出してしまいそうにも思われた。頭の中がミキサーにかけられたようになっているものの、首から下はといえば汗まみれになった以外は普段とまったく変わっていない。

 いや、違うといえば違う……寝巻が湿り気を帯びるほど汗をかいているというのに体の内では熱がうごめき、呼吸は荒く、下腹のものはあの怪物さながらに剛直していた。首から下はというのも違う。和久田の舌は、武藤が流した血の味を覚えている。

 シャワーを浴びベッドに腰かけた和久田は頭を抱え、力なくうなだれた。犯し、殺した人の肉を食べるだなんて、それはもうグロンギよりも罪深い別の何かではなかろうか。似て非なるもの、というフレーズが頭に浮かんだ。その通りだ。クウガに憧れた和久田の頭の中には、ダグバに似て非なる怪物が潜り込んでいる。

 和久田は夢の中で吸い付いた腿の感触を思い出し、背筋を駆け巡る甘い電流に身震いした。また罪悪感に苛まれながら床に就くことになるのだ。胃に鉄の塊を突っ込まれたような感覚を想像しながら、和久田はズボンを下ろした。



 大きく分けて三つの区分が、和久田の武藤に対する「スタンス」として存在する。

 一つはいちクラスメイト同士としての区分で、これは次の二つと異なり武藤やフェルミと出会う以前からの和久田徹の思考である。孤高の存在である武藤がクラスになじめばいいとは思っているが、同時に和久田自身にはそんなことはできそうにもないと諦めてもいる。また彼女は少なくとも和久田からすれば美人ということもあって、良好な関係が築ければ悪いことはないと思っているし、彼女の均整のとれた肉体への興味もないではない。あくまでも、社会的に健全な範囲で。

 二つ目は、武藤に対する無制限の崇拝の念。三つ目の《怪物》と同じく武藤に出会ってから和久田の心の内に住まうようになったもので、異常といえば異常である。しかし和久田はこれをそこまで問題視していなかった。

 第三に、和久田が怪物と呼ぶもの。これは何なのだろう? 彼の中にこれが巣食い始めてひと月とないとはいえ、和久田には皆目わからなかった。少なくとも武藤が能動的に和久田に何かしたというわけではなさそうだった。彼女はあくまで単身でパルタイを追い《ビオス》に到達しようとしているのだ。ただのクラスメイトである和久田に自身の《超常》の姿を見られれば純潔さえ犠牲にして彼をかかわらせまいとする武藤が、わざわざ自分に注意を払わせるような何かしらの措置を他人に施すなどあるはずがなかった。

 ではフェルミか? 彼の『叶えちゃいけない願い事』こそ《超人》の到達に必要という彼女ならば……いや、妙な願いを他人に植え付けて、それを叶えることで《超人》に近付こうとするなんて、あまりに回りくどい。そもそも四月からこっちフェルミが和久田に対して目立ったアクションを起こしたことなどないといっていいくらいだ。ゼンダーだって一月の終わりから武藤に破壊された一昨日の夜まで、三か月近く持たされ続けていたが、その間ゼンダーに目立った変化はなかった。変わったことといえば、そう、ゼンダーを介して和久田の体にディングが埋め込まれたことくらいで……

 濁った眼をして布団に潜り込んだ和久田は、ぞっとして飛び起きた。

 いや、まさかそんなことが!

 しかし理屈の上ではできるはずだ、ディングを得た和久田の頭の中には、同時にディングの扱い方までも事細かに流れ込んできた。……同じことが知らず知らずのうちに行われているとしたら? そして和久田はパルタイのレーゲルを思い出した。『パルタイは人間を殺すことはできない』。

《超常》の力を使えば人の頭に情報を埋め込むことができる。ディングの使い方を埋め込んだのと同じように、フェルミは和久田の頭にこっそりと特殊な意志を埋め込んだのだ。人間を殺せないパルタイが、パルタイにとって危険極まりない武藤を排除するために……。

 神経の昂りが眠気を一掃し、次に来るものは恐れと怒りだった。何もかも仮説だった。しかし、そうだとしても、こんな仮説が立ってしまうこと自体気に入らなかった。

 そして、次に気付いたのは、すぐ右にある窓が開いており、そこに黒い影が、毒々しい光を放つ青い翼を背負った黒い人影があり、窓サッシの上に屈みこんでいるということだった。

 和久田は唐突に入ってきた夜風から、自分の顔に汗が伝っているのを知った。濁っていた目は今や火を宿して、闖入者たる怪人を見据えていた。

「――フェルミ」

『お早う御座います』

「何の用だ」

『われわれの仲間を紹介するのを忘れていましたからね』

 フェルミは童女の姿をしていた。ぬけぬけと言う。

『それでひとつ、今すぐにでも招待しようと、こうして来た次第です』

 そうして左手を差し伸べる。手を取れ、ということらしい。パルタイはケルペルを展開することなく固有の力を振るうことができる、事実その手を掴んだ和久田は瞬く間に体重を失ったように感じ、ふわりと浮かんだ挙句、フェルミの飛行に連れられて窓の外へ抵抗なしに進んでいった。

 彼女の黒い格好は街の明りに照らされて星のない夜空にうまく溶け込んでいるようだった。和久田はというと黒いジャージを着ていた。話は着くべき場所に着いてからだと言わんばかりに彼女は笑顔を浮かべたまま何も話さなかったし、和久田もじっと黙ったまま目的地へ着くのを待った。

 フェルミが着地したのは表通りから一つ建物を隔てた低いビルの屋上で、隣のビルの屋上に建てられた看板が通りから二人のいるビルの屋上を隠していた。コンクリートに素足で降り立った和久田にフェルミは鞄から取り出した木製のサンダルを貸与した。ビルは使われていないようで、屋内に続く通路へのドアはノブが外されており、すたすたと入るフェルミに続いて和久田も中へ入っていった。フェルミは懐中電灯を取り出して階段を照らしながら進んだが、下からはオレンジ色の光が漏れており、実際のところ、あまり必要なかった。電灯の光が照らす先で鼠や虫が走り去るのが見えただけだった。蝿捕蜘蛛と、百足の仲間と、名前はわからないがすばしこく動く爪の先ほどの甲虫の群れ、それからそれとわかる蜚蠊が一匹二匹、光に照らされては彼ら好みの暗闇へすごすごと逃げていった。空間は埃っぽかった。筒状の光の中には無数の塵が浮いているのが見えた。階段に手摺はなく、壁も床も屋上と同じくコンクリートの打ちっぱなしだった。そして、階下から届く光は非常ランプの類でないことは明らかで、張り詰めた神経は超常の気配を鋭敏に感じ取っていた。その感覚が肌にぴったり貼りついて、一段一段降りるごとに木材とコンクリートが立てる大きく反響する足音さえ遠くに聞こえた。気付いたことには、この場に満ちいる超常の気配はあまりにも濃密で、妙なたとえだが、「むっとする」ほどにその濃度は高く、空気が粘ついてさえいるようだった。

 二階分階段を下りた。フェルミに続いて広間に出ると、人影が二つあったが、彼らよりも先に和久田は壁面にでかでかと書かれた橙色の「灯」の字を発見した。三つあるコンクリートの壁面すべてに一文字ずつ書かれている「灯」の字は、広間に入っていった和久田の背後の壁にも書かれていた。ただし四枚目の壁は入口がある分やや縦長になっていた。

 それから和久田はフェルミを除く三人の人影に視線を向けた。一人はフェルミで、もう二人はそれぞれ紫と橙の目をしていた。橙色の目をした方は漆黒のカフタンとシャルワールに身を包んだステップ風の顔立ちの女で、いま一人の紫色の目をした方は一応灯りのあるはずの中でもなお黒く、ほとんどシルエットしか見出すことができなかった。おまけにかなりの長身であるそのパルタイは頭髪を剃っているようで、瞳にあるような濃い紫水晶の色の光をその頭には一切戴いていないようだった。

『紹介しましょう、パルタイ【zweipurpur寄生Parasit》ニールス、【vierorangeBuch》ドミトリ』

 紫のパルタイ・ニールスは深く頭を下げ、橙のパルタイ・ドミトリは特に何もしなかった。彼女、いや彼女と言ったが、和久田はドミトリが果たして事実そうであるか確信は持てなかった。概して遠い国の人間はどの顔も似たように見えるものだし、ドミトリという名前も男性名だったはずだ。しかしともかくコンクリートの床に腰を下ろしたドミトリの前には、細密画ミニアチュールの如き無数の橙色の光の刺繍の施された巨大なBuchが置かれていた。植物と魚鱗と獣肢の入り交じった洞窟グロット調の幾何学模様アラベスクで、百科事典Enzykropaedieの一冊のようにも見えた。和久田はその内部から、雑多に犇く無数の力が外部へと発散させる余波を感じ取って、いよいよ胃の辺りが重くなってきた。階段を下る和久田の肌に張り付いてきたぬめるような力の波動は、ドミトリではなくむしろニールスが発しているもののようだった。こめかみのあたりの筋肉が痙攣した。

『パルタイは現状全部で八人ですが、今回はこの二人だけを連れてきました』

 なんでだと思います?

 言葉を止めて暗にそう聞くフェルミの悪戯好きな目を見て、和久田は血管の不快に脈動するのを感じた。

「おまえの目的に賛同するのがこの二人だけだってことだろう」

 フェルミは満足げな笑顔を見せて言った。

『その通り』

「ざまあないな、フェルミ。七人いて二人しか仲間を集められなかったわけか」

『まあ、その通りで』

「ふざけるな!」

 和久田は足を強く踏み出して言った。前方にパルタイを三人、フェルミを正面に、ニールスを左に、ドミトリを右にして向かい合っていた。

「おれに得体の知れない怪物を植え付けたのはおまえたちなんだろう。《ビオス》を通してパルタイに敵対する武藤を、パルタイにとって致命傷になりうる武器を持ってる武藤を、あの手甲の爪のダメージを受けにくいだろう人間を使って排除するために、しかもそれを排除させる人間が自ら望んでいるかのように錯覚させながら排除させるために、あんな、あんなものを、人間の脳に植え付けて! おれは、おれは人を殺したいなんて、一度も思ったことなかったのに、人を殺すのだけは嫌だったのに、フェルミおまえは自分がどれだけひどいことをしているかわかっているのか、おれは、おれは武藤を殺すなんてことは、おれが死んだとしてもしたくないことなのに」

 息が詰まって、噎せた。いくら空気を吸っても酸素が足りなかった。その場で膝をつくと、フェルミは、言いたいことはそれだけですか、と、ひどく素っ気ない調子で言った。言い返そうとしたが、息が詰まったままで何も言えなかった。おまけにひどく気分が悪く、鈍重な調子の頭痛もやって来て、無理に顔を上げると食べたものを吐き出してしまいそうだった。咳き込んで、ようやく絞り出すように声を発することができたが、切れ切れで、弱弱しかった。

「武藤はフェルミを殺すつもりだと言ってた、おれはそんなことさせたくない。フェルミにだって死んでほしくない、けどな、もしもお前たちがおれに武藤を殺させようとしてるとしても、おれは絶対に負けない。おれは、絶対に、人を殺したりなんかしないからな」

 それが限界だった。和久田は頭を床に着けた。

 するとフェルミが哄と笑った。建屋中に響き渡り、魔女の笑い声のようにも聞こえた。

『敵対する一人を殺す? 下らない、実に下らないことです。われわれの最終目的はきっとそんなものではありませんよ。極限にまで強壮なる者、病にも外敵にも決して屈し得ぬ者! たった一人の敵対者のためだけに手間暇かけて小細工を弄するなど、苟もパルタイのすることではない。……願いをのがパルタイですよ。願いをだなんて、邪道ではありませんか……あくまでもパルタイの目標は超人! 人間もパルタイも超越した或者! そしてそのために集めるべきは人間の《存在への意志》。われわれの計画は即ち、ヒトの願いの形態に応じたザインの変化形への模索なわけです。とりもなおさずやってみようは鎧型のザイン! わかるでしょうワクタさん、あなたの願いは、実にこの目的に合致している』

 そうしてフェルミは蹲ったままの和久田を見た。しかし、パルタイに囲まれた少年は、今や冷たい床に顔を着けて微動だにしない。

 あてられてしまったか、とニールスが訊く。

『多分そうでしょうねえ、これまで私以外のパルタイには会ったこともなかったはずですから』

 こんな調子で本当に大丈夫なのか、とドミトリ。

『ええ、今はまだ発展途上というだけで、素養はあります。パルタイの《匂い》を発見し、あまつさえ嗅ぎ分けもできるのですから。多分』

 実際この計画がどう転ぼうと、フェルミにとっては多かれ少なかれ得があるのだ。和久田に話すことはなかったが、彼女にはもう一つ、隠された計画があった。とはいえこの場でそれを明かせば話がこじれるから、こうして黙っていたのだ。

 フェルミは粘つく汗をかきながら突っ伏す和久田を仰向けにして、眉間に皺を寄せるその顔をなんとも愛おしそうに眺めた。その顔は外形に似合わぬ慈愛に溢れ、遥か神代の《母》の類型のようだった。

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