二十四

 陽炎を纏った怪人が揺らぎの中で半ば身を低くして今にも獲物に襲い掛からんとする黒い獣のごとくあるのを目にして、フリオロフは心の中にある像Bildを見た。

 ――プロメテウス。……縛を解かれたプロメテウス!

 その姿は人外の超常にとってすら悍ましく、また恐ろしかった。この年若い男の肉には深々と超常が食い込んでいる。今やあの男は超常の力と一体になっているも同然だ、一つの体の中にああも深くパルタイの力が入り込むなんて、ごく短いパルタイの時間の中で一度として無かった。

 なんて、なんて唾棄すべき冒涜的なものをあの女は作ってくれたことか!

 怪物を縛る鎖は今や全て解き放たれていた。臓腑は詰め替えられたか、あるいはすべて失ったかのように軽かった。

 噫兮、なんと軽やかな体!

 細い体の関節から漏れ出る熱と陽炎を身に纏って、怪人は薄汚れた金色の瞳で緑のパルタイを凝っと見据えた。

 跳躍。

 落下。

 フリーフォール。重力のベクトルを前方九十度に調整し、秒間9.8m/s^2の加速度で構えられたフリオロフの鋏、その基点めがけて飛び降りる。尋常の跳躍に比して異様な低さと加速度にフリオロフが気付いた時にはもう遅い。鎧に覆われた自由落下の一撃が鋏を踏み潰し、そのまま強烈なドロップキックとなって襲い掛かる。人間であれば内臓を潰される威力だが、緑のパルタイは武藤を相手にやったように肉体を液状化することで壊れた鋏ごとこの怪人を後方へ受け流した。

 尚落下する怪人。重力のベクトルを切り替えると、倒立回転を二度挟んで地面を転がり十メートルほどで停止する。陽炎を振り払い地面近くを低く飛び出すと同時に、フリオロフも鞘を払った鋏を身の丈の倍ほどの大きさまで膨らませ両手で構える。チャキチャキと素早く空を刻む牽制を交え、時には懐から取り出した鋏をばらまきながら横ざまに跳び、和久田は低い姿勢を保ち拳が届く距離まで詰めようと追いすがる。

 手に宿っていたディング《流転》はそのままになっているし、ザイン由来の《流転》の力も持ち合わせている。今の和久田はその気になれば壁を垂直に駆け上がることも、天井に二本の足でへばりつくこともできた。彼個人に由来する《熱》を含め、自分の体の一部のようにその身に宿る超常の力を行使できるのみならず、肉体についても一時的には自由に操り、いわゆる火事場の馬鹿力を行使することもできた。

 しかし、ザイン七星瓢虫それ自体には、虫部分にも展開された鎧部分にも遠隔攻撃能力はない。ゆえに、フリオロフがとった近接戦闘の回避という作戦はまさしく彼を相手取る者としては最適解だった。

 鞘を抜かないままに鋏を前に構え、手に触れる部分を基準点に爆発的な速度で膨張させる。鞘に収まった刃の丸い先端が砲弾のように和久田の正中線めがけて迫り、腕を交差させてこれを防いだ和久田の体は四五メートル後方へと飛ばされる。着地する頃には上腕の装甲に入ったひびは塞がり始めていた。クラッシャーの奥で和久田は青白い歯を剥き出しにして静かに笑った。これまでにない狂奔の感覚が和久田を支配していた。

 フリオロフは撃ち出した鋏を再び小さくしてその場に捨て置き、足元に転がる簀巻きにされた生徒達に足を取られないよう避けながら運動場の西へと進んでいき、二十メートルほど距離をとったところで再び鋏を取り出した。モニュメントかと見紛うばかりに巨大化させた鋏を水平に構え、まっすぐ和久田めがけて鋏を閉じる。鋏のちょうど先端で装甲ごと両断する目論見だった。

 鋏の七割ほどの地点で、和久田は両側から迫る刃を掴み込む。掴むと同時にざりざりざり、じゃりじゃりじゃり、手のひらの奥で小さな音が立ち、鷲掴みにされた鋏が表面からぼろぼろになっていく。渾身の力を込めて手首をひねるといとも容易く刃は砕け、その断面は和久田にふ菓子を連想させた。

 どうやら、おれの手には他の超常を食う性質が備わっているらしい。彼は自分の心の中でそう結論付けた。

 彼我の距離五間。フリオロフは壊れた鋏を縮小させると次の鋏に持ちかえ、両手に五丁ずつ合計十丁の鋏を携えて敷地の北へ走った。走りながら次々鋏をばらまいていく。鞘を除かれた鋏が地面に転がり、まれに突き立つものもあった。

 超常的な力をもつパルタイと雖も、決して超人的であるわけではない。パルタイは皆文句のつけようのないほどの健康体でこそあれ、その身体能力、筋肉の瞬間的及び持続的に出せる力の総量、継走能力、肺活量といったものに限っていえば、日常的に体を鍛えている類の人間にはまるで敵わないのである。平均以上の身体能力を持ち、無意識の限界値を一時的とはいえ突破している和久田に追いつかれるのも時間の問題だった。

 射出される鋏の刃を交差させた腕でいなし、虹色の火花を散らしながら和久田は一歩進むごとにじわじわとフリオロフに近付いていく。握りしめた左の拳、人差し指から小指まで四本の基節骨の根元の円錐形の先端が濁った金色に輝き、手を覆う装甲にも一部にひびが入り、肌を焼く高温が陽炎を伴って噴きあがった。

 あと数歩前に出れば拳を叩き込める間合いにまで距離は詰まっていた。液体になろうと、いや液体になれば余計に、熱には弱い。接地した母指丘に力を込め、やや前のめりに踏み出す。

 前に運ばれると思っていた体が、不意に横からの衝撃を受けて、左に飛ぶ。体育館のすぐそばまで飛ばされた和久田はコンクリートの薄い灰色の地面に左半身を打ちつける形で着地し、転がった。転がった先で脇の体育倉庫から持ち出されていたゴム製バット、グラブの入ったプラスチックの四角い箱、ボールケースの内バットに体をぶつけ、整列していた色とりどりのバットの並びが乱れた。

 広い面の打撲だった。側頭部と、それから右腕に強い衝撃が加わり、後者は感覚がない。見れば巨大な鋏が地面から斜めに突き出している。地面に突き刺さっていた鋏の一つが立ちどころに膨張して和久田を襲ったようだった。

 利き腕が無事だったのは不幸中の幸いとはいえ腕の負傷は運動能力を大きく低下させる。痛みを感じないのは大量の、それこそまともな状態では絶対に出ないような量のアドレナリンによるもので、痛くないから動かしていいという状況では決してないことは想像できた。

 フリオロフはまたも巨大な鋏を手に、どのように鋏を入れれば和久田の体を動かない内に素早く、効率よく、また確実に切り刻めるか、それらを見極めるように刃の先端を揺らしていた。平素と比べてそれほど表情は変わらないが、それでも興奮していて、彼女としてはかなりの笑顔なのだろう、口の端はわずかに上がっていた。

 してやったり、と思っているに違いない。実際和久田は見事にはめられたのだ。そしてフリオロフは目の前の規格外の怪物に集中するあまり、もう一人のあまりに危険なものの存在をほとんど失念していた。

 水兵服を裁ち、背中から腹までを黒い三本の爪が貫いた。爪? フリオロフにも和久田にも見覚えがあった。峰にあたる部分は指の輪郭に沿って軽く湾曲し、腹側に備わった刃は指の先端で一点に収束し、刺突も可能な拵えになっている。

「12」「11」「10」「9」「8」「7」「6」「5」、瞬く間にフリオロフの左肩の数字が小さくなっていく。数字が「3」にまで減少してようやく彼女の体は黒い粘液の形に変わる。地を這うスライムとなってのろのろと逃げ去っていくフリオロフの向こうに、黒兎の影が見えた。

 目を合わせて、わずかに間があってから、

「カフカ」

 と怪人の名前を呼ぶ。

「私は私の目が届く範囲でパルタイが人を害するなら無視できません。できるかぎりこうやっていくと思います。私がすべきことです。だからあなたがついて来ようが来るまいが関係なくこうするでしょう。でも、願わくば、私が死ぬその時、あなたが私を殺すその時までは、もしもあなたがパルタイに立ち向かうようなことがあるならば、そこに必ず私がいるようにすると。口約束でもいい、そう言ってくれませんか」

「ああ。そうしよう」

 泣き腫らした跡のある目をそのままに、半ば無理をしてにこりと笑う。

 引導を渡せ。私ではなく、あなたが。

 そう伝える微笑みだった。

 怪人は粘液と化して移動するパルタイを追う。フリオロフはドミトリが作った壁を上って逃げきるつもりらしかった。だがその壁の前で和久田に追いつかれるに至って、和久田の《鎧》の発する猛烈な熱波にその体が蒸発するのを恐れた彼女は人型を取り戻した。

 追いすがる速度のまま、鋏を構えさせる間もなく突進する。フリオロフは考えるより早く水兵服の背面に仕込んでいた鋏を一丁取り出し撃ち出す。だが、怪人の方がわずかに初動が早かった。右上腕の装甲で鞘の一撃をいなして低い姿勢で踏み込む。また鋏の一撃。これは左拳で殴りつけられて飛んでいく。カフカはその拳に小太陽を出現させていた。基節骨の中央に濁った金色の亀裂が入り、手の甲から上腕まで広がっていく。最初は青かった放射状の文様までも一面激烈な金色を呈するに至る。

 彼の怒りは義憤ではない。義憤でザインは動かない。徹底した利己の怪物の第一級の悪徳Böseと熱情Hitzeゆえに為せる灼熱の顕現だった。

 怪人はその左拳を、まっすぐパルタイの顔面に叩き込む。鼻っ柱をへし折りめり込む拳にわずかに遅れてパルタイの顔や首や肩口が黒く変じ、その粘液とも炭ともつかない黒い部分の内側から大小の気泡が発して膨れ上がる。

 拳の熱は竜巻のような螺旋を描き貫通してパルタイの顔を吹き飛ばし、緑のパルタイの肉体は鎖骨をも巻き込んで爆散した。舞い上がった水平帽が宙を漂い、コンクリートの上に落ちた。

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