自転車を漕いで家に帰るまでの間高校での部活動について考えた。交友関係を広げるという点では何かしらの部に入っていた方がいいことは確かだったが、これからどうするか、すなわち高校に入って自分が身の振り方をどうするかということについて未だに決めかねていた和久田は、自分が部活動に入るとして果たしてまともに参加していられるかということからして不安だった。

 中学生だった時は、言ってしまえば、ぐれていた。二年の冬まで和久田は不良共となれ合ったり反目したりして放課後の時間を過ごしていた。事件以降は真面目に受験勉強をしていたので、ろくすっぽ部活動に参加していた覚えがないのである。

 家に帰ると大学生の義兄がいた。今学期のこの曜日は授業が二限しかないという彼は、警官である父親に似て眉が太く、和久田にはあまり似ていない。映画と特撮ドラマをこよなく愛する性分で、和久田にあの真紅の英雄の存在を教えたのもこの義兄だった。

 フェルミには兄といったがあれは正確には義兄である。なぜかといえば、彼は和久田の伯母の息子すなわち従兄弟にあたる人物であり、和久田は五歳の時に死んだ父の姉にひきとられたという事情があるからであった。

 自動車事故だった。母も同時に死んで、色々な事情が絡みあった結果、和久田は伯母の家で暮らすことになったというわけだ。だから母というのも正確には伯母であった。

 苗字はそのとき伯母の夫の姓である和久田に変わったのだが、ときおり自分はそれまでの苗字である瀬川姓を名乗っていたのかもしれないと考えると、不思議な気分になった。すくなくとも瀬川姓では武藤の隣の席になることはなかっただろうし偶然に感謝しなくてはいけないな、などときわめて軽々しく考えることもあった。そんなものだ。

 時折両親を早くに亡くしたことを話したりすると、相手はなんだか申し訳なさそうな表情をするが、当の和久田本人は別に何とも思っていないのである。十年経ってほとんど顔も覚えていないし、顔写真を見たところでなんだか赤の他人を見ているような気分になるのだ。

「へえ、これがおれの両親なのか」

 頭では彼らが自分にとって重要な人物であることは理解しているし、なんだか懐かしさを感じるようなところもないではない。しかしその懐かしさは一体どれだけ実際のものなのだろう、すなわち彼が感じる懐かしいという感情のうちどれだけが、「彼ら二人が自分の実の両親である」という事実の認識から生じるものではなく、純粋な彼の真の家族に対するノスタルジーから生じるものなのだろうかと自らに問うてみると、甚だ怪しいものがあるのだった。

 なにより和久田にとって死、両親の死はある意味で所与だった。両親を失って伯母夫婦の家にひきとられ、義兄と一緒に特撮ドラマを見て育ってきたというこれまでの生活もまた確実に和久田の一部だったし、和久田徹という名前もそうだが、今いる彼を構成するかなりの要素は瀬川家ではなく和久田家にあったのだから。

 夕食は作り置きのものがあったのでそれを食べた。部屋に戻ると和久田はベッドに横になり、フェルミがいない部屋で、彼はそれからずっと武藤と自分のことを考えていた。

 武藤と出会ったのはこの四月の頭、すなわち高校に入学した時である。入学式の当日、周囲の新入生と挨拶を交わす様子もなくたった一人でいる武藤を目にしたその時が、和久田が常軌を逸した崇敬と狂気にとりつかれた瞬間だった。あのときフェルミはその場にいただろうか? 住んでいるのが隣なのだから目的地が同じなら家を出てすぐに合流するはずだろうが、その後どうしただろう。それを忘れてしまうほど武藤陽子の美貌は衝撃的だった。

 何か得体の知れないものが和久田の心にとりついているようだった。きっとそうだ、彼はそう思っていた。確信していたといってもいい。武藤楊子にはじめて会ったその日から、おれの心の中に人間によく似た怪物が住みついている。

 植えつけられたといってもいいであろう……誰が? 誰でもない、だが強いていうならば武藤だ。武藤本人は何もしちゃいないが、彼女という存在それ自体が、すなわちおれが武藤に出会ったということそのものが、おれの中にこの異常なものを住まわせることになった直接の原因だということは疑いようがない。こんなものが一人の人間の中にいるということがそもそもおかしいのだ。フェルミが狙っているところのものもきっとこいつ、おれの中に巣食う怪物なのだろう。

 武藤と《パルタイ》との関係はどのようなものなのか、フェルミがこの怪物に用があるとして一体どのような形で利用しようというのか。あの時の武藤の目付きから考えられる事柄は、単に願いを叶えてほしいというだけのことではなかった。



 彼は夢を見た。それはほとんど覚醒している時間と地続きの夢で、少年が毛布にくるまってまどろんでいると、自分の体の上でもぞもぞとうごめくもの、自分とは別のものがあるのを感じた。それは自分とほぼ同じほどの温度を持っていて、姿は見えないが感触は妙に柔らかく、布団の中で、彼の鳩尾あたりから下にべったりとのしかかっていた。和久田は覆い隠している毛布をとってそれを直接目にしようかと考えたが、そうして動かない間に、向こうから毛布を押しのけてその容貌をみせつける。

 そこにいたのは普段武藤と同じ制服を着て和久田と並んで学校へ行くときと同じ姿の、花の香りをただよわせたフェルミだった。白い、チュニックではない、シャツでもない、何か着ているのかと思った。しかしその白さはただ肌の白さであり、地中海と極東に交えて北国の血を分けもつ少女は、腰から上には何も纏っていなかった。

 ばあ、と言って平素の通りにこにこと笑ったまま胴の上を這い、彼の手を取ってみせる。その手がフェルミの胴から垂れる、大きく膨れ上がっていながら張りや罅割れとは無縁の房に触れ合わせられる。抵抗なく指が沈んでいく。怖い、と思った。壊してしまうのではないか。不意に指先に力をこめればどこかから破れてしまうのではないか。

 ねえワクタさん、いいんですよ、もっと触っても。

 ぐっと前に出る。布越しに熱い房が和久田の胸に触れる。耳元で囁く。声は水の中のように反響して遠くから聞こえてくるようだった。和久田は声を出そうとして出来なかった。喉が根元から強張り、硬直していた。

 空いている腕を立てて後ろに下がり、壁に背をつけて、ほとんど自分の真上にいたフェルミから逃れた。呻き声をあげると共に喉の緊張がほぐれる。フェルミ、どうしてこんなことを?

 パルタイ、ですから。フェルミは言って、尚も縋りつくように這い寄る。夜の海から浮かび上がる美しい水母のように、二つの大きな房は形を変えながら彼にまといついた。

 願いを、叶える。それが我々の本分ですよ。大丈夫、魂が抜けるくらい、よくしてあげますから。

 その笑顔が半ば媚態に属し、半ば獲物を狩る動物の獰猛さに通底していると気付いたのは、まさにそのときになってだった。

 鼻先が互いに触れあう。フェルミが瞼を薄く閉じ、睫毛の広がりが目に飛び込んできたところで、和久田は彼女の肩を掴んでひっくり返し、逆に自ら覆い被さった。

「わかった! わかったから、こんな、いきなり夜盗に来るような感じでしないでくれないか!」

 武藤は目を見開いて覆い被さっている和久田を見つめた。

 布団の温かさが消え、体は外気に触れた。

 灰色の砂地だった。遠くで梟が鳴いた。黒い森のざわめきが聞こえた。その上のべったりとした雲のない暗い夜空には大きな月が丸く光っていた。二人のそばを細い脚の蜘蛛が一匹通りかかって消えた。その向こうに道があり、道の向こうに石を積み上げて作った簡素な門があった。道は門の此方彼方にまっすぐどこまでも続いていた。狼の遠吠えが聞こえてきた。

 和久田は覆い被さったまま、目の前の武藤の姿を見た。少年のような細い体はその身に布切れ一つ纏わずに、腸骨でできた花輪のまだ少年のように狭い華奢な体を砂地に放り出していた。脚は閉じられていた。陰に潜んで薄く黒いものが見えた。彼女の目は驚いているとも怯えているともつかなかった。両方かもしれなかった。和久田は裸だった。裸のまま、武藤の右手首と左肩を掴んで、砂の地面に体重をかけて押し付けていた。その腕を、径が和久田の半分ほどしかないかぼそい腕を見た。ほとんど円柱状をしていた。触れている個所はとくべつ体温の高い部位でなかったはずだったが、白い皮膚に、フェルミに倍して白い皮膚に触れる掌はほとんど焼けるように熱かった。これは罰だ。美神を組み伏せその柔肌に触れる人間は、皮膚を光を伴わない炎で焼かれるのだ。

 涙にぬれて光る眼を和久田は見た。揺れつつ輝いていた。つやつやした白い光だった。月は茫々と色なしに光って薄暗く、その死んだ光りに照らされて彫像のような色をした武藤の裸を目に入れないではいられなかった。薄い唇と、胸の先にわずかに桜に似た色の見えるだけで、あとは退潮する白と闇の淡い黒、そして濡羽ぬればいろの髪と射干玉ぬばたまの瞳の黒があるだけだった。

 祖型イデア。和久田は祖型イデアを思った。それは超越だった。抜きがたく不可知に覆われた超越だった。和久田は武藤陽子を初めて目にしたその瞬間のことをどうしても思い出せずにいた。不可知の先にある超越の現前。しかし……aber……その像が幻であることはよくよくわかっていた。和久田は瞬きをすること絶えてなかった。もし一度でもこの視界が途切れ、ふたたび開かれたとしたら、そこにあるだろうものを和久田はたやすく想像することができたし、

 瞳は乾かなかった。しかし乾いていった。砂漠の一粒一粒は呼吸のように夜露を吸い込み、ついに吐かなかった。乾いた。和久田は…………


 悍ましい夢から覚めると、血の気の引いて顔の泥の色になった和久田は内臓をかき回されるような不快を感じながらトイレに駆け込み胃が空っぽになるまで吐き出し続けた。いくら唾を吐いてもねばついた酸っぱい胃液が舌にこびりついて取れなかった。あるいは取れないような気がしているだけなのかもしれなかったが、食道の奥の方から酸性の臭気が漂ってくるのは確かだった。下着が汚れていたので洗って別のものに履き替えベッドに戻った。

 夢の中で嬉々として武藤を犯しているのは、おそらくは自分に相違なかった。何故? 真っ先にその疑問が浮かんで、結局最後まで理解できなかった。あのうら若き玉体の瑕一つない均整を、あるいは叩き壊したいと思う心が彼の中に眠っているのか。

 ともあれ、。痛みと苦しみと、その命の終わり。彼の陽は武藤の胎を責めて彼女を毀した。彼の腕は武藤の首を絞めて彼女を殺した。。人殺しの怪物と戦った英雄に憧れる少年の願いは、まさにその怪物の悍ましい業にほかならなかったのである。

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