一月の終わりに遭遇した《パルタイ》フェルミとの再会は、和久田の予想をこえて早くに、また意外な形で現れた。

 青い髪の童女と別れて次の日の夕方、夕日が既に四方に連なる住宅の背後に落ちて、空の色が混合の紫から夜一色の濃紺へ変わり始めるころ、和久田家の隣に建つ集合住宅の目の前に小さなトラックが止まり、しばらくして走り去った。ほとんど夜になって、和久田家のインターホンが鳴る。それに出た一家の下の息子が目にしたのは、彼より頭一つ背の高い、顔貌から体躯までセルロイドの人形を思わせる人物と、彼女が持つ菓子折りだった。

 今日隣に越してきました、るみ、苗字はフェルミといいます。名前も瑠美です。

 異人の血が濃いこの人物は、自称を信ずるなら、まだ十四歳であるらしい。そしてその姓……フェルミ……は和久田にとってはつい昨日聞いたばかりの、忘れることの出来ないものであった。もちろん、この同い年の少女は昨日の夕暮れを背にした童女とは似ても似つかない。菓子折りを受け取った手を前に突き出したまま、不躾にも、贈り物を手渡しに来た瑠美の笑みをたたえる目を凝っと見つめてしまう。すると彼女は笑顔をいっそう、おぞましいほどに華やがせて言った。

「これからよろしくおねがいしますね」

 瞳の一半が、一瞬イデアのように青く光った。

 それからというもの瑠美は、すなわちパルタイの一角たるフェルミはすぐ隣の和久田家に足繁く通いだした。二月の半分が過ぎるころまでは和久田の高校受験のためもあって頻度も程度もそれほどでもなかったが、受験がひと段落つくと彼女は「荷物の届いていない」「殺風景な」、「狭い」自室を嫌って、ほとんど毎日和久田家に遊びにきては彼の部屋に入り浸るようになる。友人との集まりから帰ってくるとベッドに横になって脚を組み煎餅をかじりながら漫画を繰っている、というのも屡だった。

「なんで勝手に食べてるのさ、それ引き出しにしまっといた奴」

「厭な虫呼び込みますよ、そういうことしてると。だからこうして胃袋の中に処分して憂いを断ってるんです。感謝してほしいくらい。ワクタさん他に漫画ないんですか? あるもの大体読み終わっちゃいましたよ。もっとこう、河原で拾ってきたプレイボーイとかアイドルの写真集とか、戦後すぐのカストリ雑誌とか、ないんですかね。ベッドの下にも全然置いてないし。不健全な雑誌だっていいますけどね、全くないのもそれはそれでまた別の不健全の形ですよ」

「勝手に引き出しの中のものを食べないでほしいし、勝手にプライベートな領域を侵犯してほしくない。少なくともベッドの下とかはちょっと」

「でもここに通されたのはほら、ワクタさんの、お母様? がいいっていうからなんですよ」

「母さん、本当に節操ないんだから」

 和久田の母は納期の近い仕事を集中して片付けるため昨日から自室に籠っている。息抜きにリビングに上がったときにちょうどフェルミが顔を出した、ということらしい。

 最後の言葉はあくまでも独白のつもりだったが、フェルミは耳敏く捉えて素早く反応した。お義母さんなんて呼べちゃう日も近いんですかねえ。彼女に露骨な結婚願望、やや古めかしい形の「家庭」への憧れがあるのか、それはわからなかったが。

 三月のある日に、一度フェルミに連れられて二人して水族館に行ったことがある。彼女は種によって様々の姿をみせるクラゲの展示を気に入って、クッションまで購入した。デフォルメされたクラゲの淡い青色を見て和久田は目の前の少女が数段幼くなったあの姿を思い出した。食事は駅に近いファミリーレストランで済ませる。「結構いいデートですね」と言って喜んでいた。自分より背の高い女子と並んで半日歩くというのは和久田にはやや気恥ずかしいところのあったが、その日の出来事は悪いものではなかったとも思う。ただいっとき、ひどく緊張したのは、フェルミが前触れなしに彼の手を取り、そのまま並んで寒空を歩いたことだった。周囲の視線というものに、不必要なまでに敏感になった。

 和久田は本棚を見た。先月に買って未だに読破していない文庫本をとって読み、戻す。薄い新書本が一冊、その左隣にずらりと、厚い冊子の三割を注釈と解説が占める文庫本が並んでいる。『悲劇の誕生』『反時代的考察』『道徳の系譜・善悪の彼岸』『この人を見よ』等々。その更に左には、ついでとばかりにドイツ語と古典ギリシア語の文法書が差し込まれている。あの青い髪の隣人が勝手に持ち込んだ代物で、高校受験が終わって以来、和久田はずっとフェルミに付き合わされて新書を読んだりドイツ語文法をかじったりしていた。

 勝手に自室にあがり込まれて本棚の一角を荒らされた和久田が抗議したところ、フェルミはこんなことを言った。

「自分が好きなものをほかの人が好きになってくれたら、嬉しいじゃないですか」

 その言葉やその時の彼女の表情に、和久田は少しばかりどきっとして、ときめいて、しまった。安い男というか、なんというか……フェルミはついでとばかりに部屋の合鍵まで置いていった。

 本棚には教科書に漫画や文庫本、ハードカバー、等々、特に分類もされずに収められている。むしろその時和久田が見たのは本の並びよりもその中に空いた隙間だった。ほんの並べられた中に、そこだけぽっかりと大きな空隙が口を開けている。

 フェルミがそこから巨大な英英辞書・独独辞書を持っていってそろそろ半月になる。「ちょっと漬物石が届いてなくって」と言って抜き取っていった。和久田はこの半月、彼女が学校に持ってくる弁当の中に、何か重石を必要とするような漬物が入っているのを見たためしがなかった。一度だけ酢漬け、すなわちピクルスを持ってきたことはあったが、あれは瓶詰で簡単に作ることができる。

 そもそもフェルミに人間とおなじようにものを食う必要があるのか疑問だった。

 フェルミが帰って行った後のベッドには、彼女の体の熱が消えた後でも幽かに花のような残り香がただよっていて、和久田は布団を目の下まで被って赤面した。柔軟剤だろうか、整髪料だろうか、制汗剤の類かあるいは化粧品か。まさか香水とはいかないだろうが、しかしフェルミに限ってはありえない話でもなかった。とはいえそれも単なる印象にすぎない。パルタイはどれほどみだしなみに注意を割くのだろう。



 次の日の朝も武藤は席に着いたまま本を開いていた。読書に集中しているわけでは、きっとないだろう。単に人を近寄らせないために本を読んでいるというポーズを決め込んでいるのだ。

 和久田は武藤に対して自らの知識を打ち明けるべきか決めあぐねていた。もし単純に《パルタイ》と呼ばれるものどもについて知りたいならばクラスメイトに聞けばいい。しかし武藤はここまでそうしていない。あえて教室の隅で本を広げて静かに情報を集めている。面倒な工程を踏まんとしている以上何か裏が……そうしなければならない特別な理由があるはずだ。

 和久田は些細なことさえ気にしないではいられなかった。あつものに懲りてなますを吹くような行為だとしても、彼は、質料を伴わない、物質世界ではなく、人の心にまつわる事に対して敏感にならずにはいられない性格になっていた。

 自白すると彼は中学生の頃に一度大きな、極めて大きな失敗を経験していた。真紅の英雄に憧れながらも自らが無力では何もできないと知った和久田は、体を鍛えると共に暴力によらない解決法も身に着けようと努力した。中学に入り、そこはそれなりに荒れた学校であったので、和久田の技術はそれなりの成果を発揮した。そのせいで思い上がってしまったのだ。

 ことが起こったのは二年の冬のことである。カツアゲの被害にあっている同級生……嶋というのだが……彼を傲慢にも助けようと割り込んで、殴り合いになった。その時和久田は向かって来た拳を避けて、運の悪いことにそれが嶋に当たった。

 嶋は前歯を折ってしまい、その怪我が元になってそれまで彼が受けてきた様々な搾取・暴力が明るみになった。そして結局嶋は転校し、結果的に嶋を殴った生徒は退学を余儀なくされた。彼、知念は和久田とも顔見知りで常に悪人というわけでもなかったのだが、その時は酒を飲んでいたこともあって処罰が重くなった。いや、本当のことを言うと、嶋の家が圧力をかけたのだ。和久田は詳しいことは知らないが、地主だか、とにかくそれなりの権力を持っていたらしい。

 だが何よりも和久田にとってショックだったのは、相当に金を毟り取られたり暴力を振るわれたりしていたのに、それでも嶋が知念を憎からず思っていたということだった。彼ら二人は加害者と被害者でありながら、お互いを良き友人だと思っていたのだ。

 その事件から和久田が学んだのは、ある事象がありそれを外から観測した時、その様子がいかに悪たるものであろうとも、当事者たちがどう思い、どう感じているか、それは絶対に分からないということだ。そしてそれを知ることができず、知らないままにも両者を調停できる才のない和久田には、そのようなことをする資格がないということも。

 武藤に対しても慎重にならなければならない。入学直後に作られたクラスのLINEグループに半ば強制的に加入させられた武藤だったが退会するでもなく何かコメントするでもなく、現実においてもネット空間においても無言を貫く彼女に接触するには工夫が必要だと感じられた。

 ところで、彼がなぜ武藤がパルタイについて知りたがっていると思っているのかというと、それには一つのある出来事が関係していた。和久田はフェルミに持たされているあの発信機・ゼンダーを、偶然にも武藤の目の前に転がしてしまったのである。

 あれは先週の木曜のことのように思う。鞄の中で紐が緩んでいたのを直そうと、和久田は口が開いた巾着袋を取り出した。それとまったく同時に真横からペンを取り落とす音が聞こえ、驚いた和久田は手を滑らせ、教室の床に袋を落とし、そして中のゼンダーが転がり出てしまった。

 ペンを落としたのは武藤だった。しかし時刻は朝、ホームルーム前のことであるから、ペンの一本や二本、あるいはゼンダーのようなさほど大きくないものを落とした程度の音はクラス中に聞こえるようなものではない。特にクラスの他の誰かが和久田の方に目をやるでもない中、武藤だけは、ペンを拾うのも忘れて、床に転がったゼンダーを凝視していた。

 細い目は大きく見開かれて、真一文字に結ばれていた口は緩く小さく開いて、その顔を見た和久田はいの一番に驚きを感じた。和久田が武藤を見て美しさ以外を真っ先に感じるという事実が、何よりも雄弁にことの重大さを物語っていた。

 武藤はばっと視線を上げてゼンダーを拾おうとする和久田を見て、二度三度と二つの間で視線を往復させた。固まっていた和久田は右手で「ごめんごめん」のサインを送りつつゼンダーを拾い、そそくさと巾着袋にしまった。

 もしかしたらあの時、武藤はパルタイと同じ気配をゼンダーから感じ取り、驚いて、それでペンを取り落としてしまったのではないだろうか? クラスメイトの一人が、捜しているパルタイとまったく同じ種類の気配を発するアイテムを持っていたことに驚いて、それであんなにも我を忘れてゼンダーを凝視していたのではないだろうか?

 このことはフェルミにも話していない。パルタイの気配が外にもれていたのは事実のため彼女にもばれているかもしれないが、ともかく、そういう理由から、和久田は武藤の秘密もパルタイに関係した何かに相違ないと考えていた。

 今朝も同級の男子たちは廊下側の隅に集まっており、和久田もその中にいた。遠目にブレザー姿の武藤を見る。えんじ色のネクタイを上へたどり、カラーと、カラーが覆う首筋の白い色の違いを目に収め、凹凸を見せる円柱の形をした首筋を視線で這いまわるように眺めた。

 うつくしいと思った。いや、そんな言葉では足りなかった。美の女神アフロディテはこのような姿をしていることだろう。和久田の頭の中には一つのイメージがあった。武藤が物言わずまっすぐ立っており、一段低いところに和久田がひざまずいているというものだった。そしてまったく同時に、何の因果関係もなく、全く異なった別種の悍ましいイメージが空をかすめる鳥の一羽のようによぎっては消えた。彼は会話に応じつつ彼女の首筋を横目で注視し左手を強く握りしめ、指を開き、また拳を作った。

 その日の午後一番の体育は年度初めの体力測定で持久走だった。女子の番では、計測を終えた男子は筋トレのノルマを与えられる以外は暇であった。一通り終わってしまえばめいめい校庭の隅の方でストレッチをしたりトラックを回る女子連を眺めたりしていたのだが、やはりといおうか、フェルミに視線が集まる。たまに和久田のいるひとかたまりを見てウィンクなど送ってくる。井坂を含めた三人が「こっちにウィンクしてきた」「いや俺だ」と馬鹿騒ぎしているのを見て、西門と顔を見合わせ二人してくすりと笑った。

 あれ、お前に向けてるんだろ?

 多分。

 目で会話してまたトラックを見る。体操服に短パン姿で走る武藤は、とくべつ鍛え上げられないでも細く引き締まった脚と腕とをむき出しにしている。

 目的を悟られぬよう、全体を俯瞰しその一部として彼女を眺めねばならなかった。普段は見ることの出来ない腕や脚の筋肉の動きを余すところなく目に収めるチャンスをふいにされる今のような状況は、和久田にとっては悲しいこととさえ言えた。それでも彼は自分がしていることを周囲に悟られてはならないのだ。これまでだって堂々と武藤を見つめているようでその実非常な警戒を忘れなかった。

 特に西門には注意しなければならない。この人物は和久田など遠く及ばないような才能を持っていて、人望に篤く、身体能力はずば抜けて高く、ものごとを深く洞察する力も有していた。和久田が武藤に対してどのような感情を有しているのか最初に暴くとしたらきっと彼だろう。そのくらいに和久田は西門を高く評価していたし、それゆえにこそ和久田は彼を非常に警戒していたのだ。

 だから和久田はぼうっとするような目付きでトラックを眺めつつ会話に応じることも忘れなかった。その後は男女の別なく五人一組に分けられてリレーのバトンパスの練習をすることになり、別々の反に分けられた和久田は、授業が終わるまで武藤を眺めることは出来なかった。

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